Mr.DIMER Journal
【鉄路を敷いた男たちVol.3】青函――海の底に鉄路を通せ
青函トンネル。 全長53.85km。そのうち23.3kmが海底部です。数字だけでも十分長い。でも、このトンネルの本当の凄さは、長さだけではありません。 最大水深140mの津軽海峡。その海底から、さらに約100m下に鉄道を通したのです。青函トンネルの構想は戦前からあり、戦後の1946年には地質調査が始まっています。 そして1954年9月26日。 台風15号の中、青函連絡船「洞爺丸」が沈没。 洞爺丸だけでなく複数の連絡船が遭難する大惨事となり、海が荒れても本州と北海道を結べるルートの必要性が、改めて強く意識されることになります。 ただし、相手は津軽海峡です。海底で大量の水が出てからでは遅い。 そこで青函では、列車が走る「本坑」だけを掘る方法を取りませんでした。本坑の横に「作業坑」。さらに先を探る「先進導坑」。先進導坑から前方をボーリングし、地質と水の状態を調べる。 危険な場所が見つかれば、セメントなどを注入して地盤を固め、その後から本坑を掘る。つまり本坑の先にもう一本の坑道を走らせ、海底の中を探りながら進んでいたのです。 それでも水は来ました。 青函トンネルの海底部では、4度もの大出水が発生しています。 中でも最大だったのが、1976年5月6日の吉岡作業坑。大量の水が流れ込み、作業坑は約3kmにわたって水没。 排水が追いつかず、一時は工事そのものが危ぶまれました。そこで、本来は列車を走らせる本坑へ水を流します。 完成前の本坑を、巨大な排水路として使ったのです。排水能力を増強し、水を外へ出し続けること約2か月。 さらに出水地点は、同じ場所を無理に突破するのではなく、迂回して掘り直しました。そして青函には、この工事の痕跡が今も残っています。 「竜飛」と「吉岡」です。 かつて、竜飛海底駅と吉岡海底駅がありました。 ただの珍しい地下駅と思われがちですが、そもそも青函トンネルには、非常時に列車を止めて乗客を避難させる「定点」が設けられています。 竜飛と吉岡は、その重要な防災拠点でした。 消火設備。排煙設備。避難所。 そして地上へ脱出するためのルートまであります。特に竜飛は、工事で使用した斜坑を利用して地上と結ばれており、現在もケーブルカーが設けられています。 もし徒歩で地上まで上がるなら、竜飛定点は1,329段。 吉岡定点でも1,189段。 普段、新幹線で通過している場所の横に、こんな設備が存在しています。 そして、もう一つ。 吉岡海底駅では1998年から2006年まで、「ドラえもん海底ワールド」が開かれていました。海底トンネルの防災拠点に列車が停まり、そこにドラえもんの展示施設まであった。 青函トンネルには、そんな時代もあったのです。両海底駅は北海道新幹線開業を前に、2014年に営業を終了。 しかし竜飛・吉岡という場所自体は消えていません。現在も「竜飛定点」「吉岡定点」として、青函トンネルを守り続けています。 さらに、建設時に掘った作業坑や先進導坑も、役目を終えた穴ではありません。現在も排水、換気、保守作業などに使われています。 1983年1月27日。先進導坑が貫通。...
続きを読む【鉄路を敷いた男たちVol.3】青函――海の底に鉄路を通せ
青函トンネル。 全長53.85km。そのうち23.3kmが海底部です。数字だけでも十分長い。でも、このトンネルの本当の凄さは、長さだけではありません。 最大水深140mの津軽海峡。その海底から、さらに約100m下に鉄道を通したのです。青函トンネルの構想は戦前からあり、戦後の1946年には地質調査が始まっています。 そして1954年9月26日。 台風15号の中、青函連絡船「洞爺丸」が沈没。 洞爺丸だけでなく複数の連絡船が遭難する大惨事となり、海が荒れても本州と北海道を結べるルートの必要性が、改めて強く意識されることになります。 ただし、相手は津軽海峡です。海底で大量の水が出てからでは遅い。 そこで青函では、列車が走る「本坑」だけを掘る方法を取りませんでした。本坑の横に「作業坑」。さらに先を探る「先進導坑」。先進導坑から前方をボーリングし、地質と水の状態を調べる。 危険な場所が見つかれば、セメントなどを注入して地盤を固め、その後から本坑を掘る。つまり本坑の先にもう一本の坑道を走らせ、海底の中を探りながら進んでいたのです。 それでも水は来ました。 青函トンネルの海底部では、4度もの大出水が発生しています。 中でも最大だったのが、1976年5月6日の吉岡作業坑。大量の水が流れ込み、作業坑は約3kmにわたって水没。 排水が追いつかず、一時は工事そのものが危ぶまれました。そこで、本来は列車を走らせる本坑へ水を流します。 完成前の本坑を、巨大な排水路として使ったのです。排水能力を増強し、水を外へ出し続けること約2か月。 さらに出水地点は、同じ場所を無理に突破するのではなく、迂回して掘り直しました。そして青函には、この工事の痕跡が今も残っています。 「竜飛」と「吉岡」です。 かつて、竜飛海底駅と吉岡海底駅がありました。 ただの珍しい地下駅と思われがちですが、そもそも青函トンネルには、非常時に列車を止めて乗客を避難させる「定点」が設けられています。 竜飛と吉岡は、その重要な防災拠点でした。 消火設備。排煙設備。避難所。 そして地上へ脱出するためのルートまであります。特に竜飛は、工事で使用した斜坑を利用して地上と結ばれており、現在もケーブルカーが設けられています。 もし徒歩で地上まで上がるなら、竜飛定点は1,329段。 吉岡定点でも1,189段。 普段、新幹線で通過している場所の横に、こんな設備が存在しています。 そして、もう一つ。 吉岡海底駅では1998年から2006年まで、「ドラえもん海底ワールド」が開かれていました。海底トンネルの防災拠点に列車が停まり、そこにドラえもんの展示施設まであった。 青函トンネルには、そんな時代もあったのです。両海底駅は北海道新幹線開業を前に、2014年に営業を終了。 しかし竜飛・吉岡という場所自体は消えていません。現在も「竜飛定点」「吉岡定点」として、青函トンネルを守り続けています。 さらに、建設時に掘った作業坑や先進導坑も、役目を終えた穴ではありません。現在も排水、換気、保守作業などに使われています。 1983年1月27日。先進導坑が貫通。...
続きを読む
【鉄路を敷いた男たちVol.2】丹那――山の下に鉄路を通せ
今の東海道本線は、熱海から丹那トンネルを抜けて三島へ向かいます。でも昔は、皆さんご存知の方も多いと思いますが、ここに東海道本線はありませんでした。 東京方面から来た列車は国府津から御殿場へ。箱根外輪山を越えて沼津へ下りていたのです。 これが、なかなか厄介でした。 急勾配が続くため、列車によっては補助機関車の力を借りて峠を越える。東海道本線の輸送量が増えるにつれ、御殿場越えが大きなネックになっていきます。 だったら、山を越えなければいい。 熱海へ回り、山の下をトンネルで抜いて三島へ出る。言葉にすれば簡単です。 計画された丹那トンネルは、全長7,804m。 1918年に工事が始まりました。完成予定は1925年。ところが実際に開通したのは、1934年です。 なぜ9年も遅れたのか。掘ってみたら、とんでもない山だったのです。 まず、地下水。 掘削面から大量の水が噴き出し、工事を止める。 排水して掘る。 また水が出る。 しかも地盤は軟弱で、強い地圧によって坑道が変形する場所までありました。普通に掘っていては先へ進めない。そこで本坑とは別に、地下水を逃がすための「水抜坑」を掘ります。 7.8kmのトンネルを造るために、掘った水抜坑は最終的に本坑の約2倍。 トンネルを一本通すため、その倍近い「水を抜くための穴」まで掘ったのです。 それでも水が止まらない。地盤にセメントを注入する。圧縮空気で地下水を押さえながら掘る「圧気工法」も使う。 掘れない。 なら、別の方法を試す。それでも駄目なら、また方法を変える。 丹那トンネルでは、後に「丹那方式」と呼ばれるほど、難しい地盤を突破するための工法が試されていきました。 そして1923年。関東大震災が発生します。 工事中の坑内も被害を受けました。それでも工事は続きます。 ところが1930年11月26日。 今度は北伊豆地震が発生。 しかも、丹那トンネルは震源域を走っていました。丹那断層が動き、掘っていた坑道そのものが約2.5m横へずれてしまったのです。 山の両側から、何年もかけて掘ってきたトンネル。それが途中で、文字通り「合わなくなった」。 それでも諦めませんでした。 中心線を測り直し、ずれた部分を曲線でつなぎ、再び掘り進めます。 湧水。軟弱地盤。地圧。崩落。そして二度の大地震。 工事では、67人もの命が失われました。...
続きを読む【鉄路を敷いた男たちVol.2】丹那――山の下に鉄路を通せ
今の東海道本線は、熱海から丹那トンネルを抜けて三島へ向かいます。でも昔は、皆さんご存知の方も多いと思いますが、ここに東海道本線はありませんでした。 東京方面から来た列車は国府津から御殿場へ。箱根外輪山を越えて沼津へ下りていたのです。 これが、なかなか厄介でした。 急勾配が続くため、列車によっては補助機関車の力を借りて峠を越える。東海道本線の輸送量が増えるにつれ、御殿場越えが大きなネックになっていきます。 だったら、山を越えなければいい。 熱海へ回り、山の下をトンネルで抜いて三島へ出る。言葉にすれば簡単です。 計画された丹那トンネルは、全長7,804m。 1918年に工事が始まりました。完成予定は1925年。ところが実際に開通したのは、1934年です。 なぜ9年も遅れたのか。掘ってみたら、とんでもない山だったのです。 まず、地下水。 掘削面から大量の水が噴き出し、工事を止める。 排水して掘る。 また水が出る。 しかも地盤は軟弱で、強い地圧によって坑道が変形する場所までありました。普通に掘っていては先へ進めない。そこで本坑とは別に、地下水を逃がすための「水抜坑」を掘ります。 7.8kmのトンネルを造るために、掘った水抜坑は最終的に本坑の約2倍。 トンネルを一本通すため、その倍近い「水を抜くための穴」まで掘ったのです。 それでも水が止まらない。地盤にセメントを注入する。圧縮空気で地下水を押さえながら掘る「圧気工法」も使う。 掘れない。 なら、別の方法を試す。それでも駄目なら、また方法を変える。 丹那トンネルでは、後に「丹那方式」と呼ばれるほど、難しい地盤を突破するための工法が試されていきました。 そして1923年。関東大震災が発生します。 工事中の坑内も被害を受けました。それでも工事は続きます。 ところが1930年11月26日。 今度は北伊豆地震が発生。 しかも、丹那トンネルは震源域を走っていました。丹那断層が動き、掘っていた坑道そのものが約2.5m横へずれてしまったのです。 山の両側から、何年もかけて掘ってきたトンネル。それが途中で、文字通り「合わなくなった」。 それでも諦めませんでした。 中心線を測り直し、ずれた部分を曲線でつなぎ、再び掘り進めます。 湧水。軟弱地盤。地圧。崩落。そして二度の大地震。 工事では、67人もの命が失われました。...
続きを読む
【鉄路を敷いた男たちVol.1】北海道――原野に鉄路を敷け
鉄道の記事を書いていると、どうしても車両の話が中心になります。 でも、そもそもです。その列車が走っている線路は、誰がつくったのでしょうか。 今なら「よくここに鉄道を通したな」と思う場所にも、当たり前のように線路があります。 今回から少しだけ、そんな「鉄路を敷いた人々」を追いかけてみようと思います。 最初の舞台は、北海道。 もし明治初期の北海道で、「三笠の山奥で掘った石炭を、小樽の港まで運べ」と言われたら…どうしますか。 もちろん高速道路はない。トラックもない。札幌―小樽間ですら、交通の難所を抱えている。ところが幌内では、これから大量の石炭を掘ろうとしている。 掘ったところで、運べなければただの石です。実は最初から、小樽まで鉄道を通すつもりだったわけではありません。 考えられていたのは、幌内から幌向太付近まで鉄道を敷き、そこから石狩川を船で運ぶ方法。 川を「輸送路」に使おうとしたのです。ところが、この計画に待ったをかけた人物がいました。 アメリカ人鉄道技師、ジョセフ・U・クロフォード。 「船に積み替えるより、小樽まで鉄道を通してしまえばいい」発想としては単純です。 でも、それを実際にやるとなると話は別。 特に立ちはだかったのが、札幌と小樽の間でした。 張碓付近は海と山が迫る難所。鉄道以前に、工事資材をまともに運び込む道すら十分ではない。 ならば、まず道を造る。 クロフォードは1879年、難所だった張碓海岸の道路開削を成功させます。そして翌1880年。 いよいよ手宮から札幌へ、北海道最初の本格的な鉄道建設が始まります。 ここで現在の地図に置き換えてみましょう。手宮から南小樽、札幌、岩見沢、そして幌内へ。 このうち、南小樽―札幌―岩見沢は、現在も「函館本線」として列車が走っている区間です。 つまりこれは、消えてしまった昔の鉄道だけの話ではありません。私たちが今乗っている線路の「始まり」の話です。 しかも面白いのは、北海道の鉄道が本州とは少し違うこと。 新橋―横浜がイギリスの技術を強く受けたのに対し、北海道開拓はアメリカをモデルに進められました。幌内鉄道もアメリカ式。 レール、客車、貨車、そして蒸気機関車までアメリカからやってきます。その機関車が、後に有名になる「義経」と「弁慶」。 ただ、ここで主役にしたいのは機関車ではありません。その機関車が走る場所を、先に造った人たちです。 海岸を削り、隧道を掘り、橋を架け、何もなかった場所へ一本ずつレールを置いていく。そして驚くのが、その速さです。 着工から、わずか11か月。 1880年11月28日、手宮―札幌間で汽車運転式が行われました。しかし、まだ終わりではありません。 そもそもの目的は札幌ではない。石炭が眠る「幌内」です。 クロフォードが北海道を離れた後も、鉄路は止まりませんでした。...
続きを読む【鉄路を敷いた男たちVol.1】北海道――原野に鉄路を敷け
鉄道の記事を書いていると、どうしても車両の話が中心になります。 でも、そもそもです。その列車が走っている線路は、誰がつくったのでしょうか。 今なら「よくここに鉄道を通したな」と思う場所にも、当たり前のように線路があります。 今回から少しだけ、そんな「鉄路を敷いた人々」を追いかけてみようと思います。 最初の舞台は、北海道。 もし明治初期の北海道で、「三笠の山奥で掘った石炭を、小樽の港まで運べ」と言われたら…どうしますか。 もちろん高速道路はない。トラックもない。札幌―小樽間ですら、交通の難所を抱えている。ところが幌内では、これから大量の石炭を掘ろうとしている。 掘ったところで、運べなければただの石です。実は最初から、小樽まで鉄道を通すつもりだったわけではありません。 考えられていたのは、幌内から幌向太付近まで鉄道を敷き、そこから石狩川を船で運ぶ方法。 川を「輸送路」に使おうとしたのです。ところが、この計画に待ったをかけた人物がいました。 アメリカ人鉄道技師、ジョセフ・U・クロフォード。 「船に積み替えるより、小樽まで鉄道を通してしまえばいい」発想としては単純です。 でも、それを実際にやるとなると話は別。 特に立ちはだかったのが、札幌と小樽の間でした。 張碓付近は海と山が迫る難所。鉄道以前に、工事資材をまともに運び込む道すら十分ではない。 ならば、まず道を造る。 クロフォードは1879年、難所だった張碓海岸の道路開削を成功させます。そして翌1880年。 いよいよ手宮から札幌へ、北海道最初の本格的な鉄道建設が始まります。 ここで現在の地図に置き換えてみましょう。手宮から南小樽、札幌、岩見沢、そして幌内へ。 このうち、南小樽―札幌―岩見沢は、現在も「函館本線」として列車が走っている区間です。 つまりこれは、消えてしまった昔の鉄道だけの話ではありません。私たちが今乗っている線路の「始まり」の話です。 しかも面白いのは、北海道の鉄道が本州とは少し違うこと。 新橋―横浜がイギリスの技術を強く受けたのに対し、北海道開拓はアメリカをモデルに進められました。幌内鉄道もアメリカ式。 レール、客車、貨車、そして蒸気機関車までアメリカからやってきます。その機関車が、後に有名になる「義経」と「弁慶」。 ただ、ここで主役にしたいのは機関車ではありません。その機関車が走る場所を、先に造った人たちです。 海岸を削り、隧道を掘り、橋を架け、何もなかった場所へ一本ずつレールを置いていく。そして驚くのが、その速さです。 着工から、わずか11か月。 1880年11月28日、手宮―札幌間で汽車運転式が行われました。しかし、まだ終わりではありません。 そもそもの目的は札幌ではない。石炭が眠る「幌内」です。 クロフォードが北海道を離れた後も、鉄路は止まりませんでした。...
続きを読む