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  • 【521系の後継は?】次世代も"交直両用車"になるのか

    【521系の後継は?】次世代も"交直両用車"になるのか

    2006年に登場した、JR西日本521系。 223系や321系といったJR西日本を代表する普通車両のDNAを持ちつつ、その床下には直流1,500Vと交流20,000V・60Hz、双方に対応する機器を搭載。 北陸本線を代表する交直両用近郊形電車として、増備が続けられてきました。 ところで、521系が登場した当時と現在とでは、北陸を取り巻く鉄道事情が大きく変わっています。 さて本回は、521系「後継車両」のおはなし。 北陸新幹線の延伸によって、旧北陸本線の大部分はJR西日本から経営分離されました。 現在、521系はJR西日本だけでなく、ハピラインふくい、IRいしかわ鉄道、あいの風とやま鉄道でも使用されています。 同じ521系が、複数の鉄道会社へ分かれて走るようになった格好です。 しかし将来、これらの521系を置き換える時代が来ても、果たして全社が「交直両用車」を必要とするのでしょうか。 例えば、IRいしかわ鉄道線。 そして、あいの風とやま鉄道線。 いずれも521系が走る区間は交流20,000V・60Hz電化。 少なくとも、これらの区間だけを走るのであれば、直流1,500Vへ対応する必要はありません。 ならば将来、521系を置き換える車両について、 「交流専用車でよい」 という判断がなされる可能性も考えられます。 一方、事情の異なるのがハピラインふくい。 敦賀側には、直流1,500Vと交流20,000V・60Hzを隔てるデッドセクションが存在します。 敦賀まで列車を走らせる以上、現在と同じく交直両用車が必要となります。 そして、もうひとつ、JR西日本の七尾線です。 七尾線そのものは、直流1,500V電化。 ならば直流電車でよさそうですが、七尾線の列車は津幡から交流電化されたIRいしかわ鉄道線へ入り、金沢まで直通します。 つまり、七尾線用の521系100番台も、七尾線が直流である、からして金沢への直通には「交直両用」でなければならないのです。 こうして見てみると、現在は同じ521系を使用していても、各社が次世代車に求める条件は必ずしも同じではありません。 交流専用車で成立し得る会社。交直両用車でなければならない会社。 直流線を主体としながら、交流線への直通ゆえに交直両用車を必要とするJR西日本。 521系の登場時には、「北陸本線」という一本の幹線を走るために共通して必要だった交直両用性能。 しかし、その北陸本線そのものが複数の会社へ分割されたことで、 521系の後継車までひとつの形式にまとめる必然性は、以前ほど高くないのかもしれません。 最も、共通設計によって、量産すればコストは下がる、しかし交直両用車はそもそもの製造コストが高い…...

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    【521系の後継は?】次世代も"交直両用車"になるのか

    2006年に登場した、JR西日本521系。 223系や321系といったJR西日本を代表する普通車両のDNAを持ちつつ、その床下には直流1,500Vと交流20,000V・60Hz、双方に対応する機器を搭載。 北陸本線を代表する交直両用近郊形電車として、増備が続けられてきました。 ところで、521系が登場した当時と現在とでは、北陸を取り巻く鉄道事情が大きく変わっています。 さて本回は、521系「後継車両」のおはなし。 北陸新幹線の延伸によって、旧北陸本線の大部分はJR西日本から経営分離されました。 現在、521系はJR西日本だけでなく、ハピラインふくい、IRいしかわ鉄道、あいの風とやま鉄道でも使用されています。 同じ521系が、複数の鉄道会社へ分かれて走るようになった格好です。 しかし将来、これらの521系を置き換える時代が来ても、果たして全社が「交直両用車」を必要とするのでしょうか。 例えば、IRいしかわ鉄道線。 そして、あいの風とやま鉄道線。 いずれも521系が走る区間は交流20,000V・60Hz電化。 少なくとも、これらの区間だけを走るのであれば、直流1,500Vへ対応する必要はありません。 ならば将来、521系を置き換える車両について、 「交流専用車でよい」 という判断がなされる可能性も考えられます。 一方、事情の異なるのがハピラインふくい。 敦賀側には、直流1,500Vと交流20,000V・60Hzを隔てるデッドセクションが存在します。 敦賀まで列車を走らせる以上、現在と同じく交直両用車が必要となります。 そして、もうひとつ、JR西日本の七尾線です。 七尾線そのものは、直流1,500V電化。 ならば直流電車でよさそうですが、七尾線の列車は津幡から交流電化されたIRいしかわ鉄道線へ入り、金沢まで直通します。 つまり、七尾線用の521系100番台も、七尾線が直流である、からして金沢への直通には「交直両用」でなければならないのです。 こうして見てみると、現在は同じ521系を使用していても、各社が次世代車に求める条件は必ずしも同じではありません。 交流専用車で成立し得る会社。交直両用車でなければならない会社。 直流線を主体としながら、交流線への直通ゆえに交直両用車を必要とするJR西日本。 521系の登場時には、「北陸本線」という一本の幹線を走るために共通して必要だった交直両用性能。 しかし、その北陸本線そのものが複数の会社へ分割されたことで、 521系の後継車までひとつの形式にまとめる必然性は、以前ほど高くないのかもしれません。 最も、共通設計によって、量産すればコストは下がる、しかし交直両用車はそもそもの製造コストが高い…...

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  • 【私鉄の東海顔 vol.2】東海顔と“共通部品”を持つ!?山陽電鉄3000系

    【私鉄の東海顔 vol.2】東海顔と“共通部品”を持つ!?山陽電鉄3000系

    国鉄153系をはじめ、113系、115系、165系などへと広がった、いわゆる「東海顔」。 国鉄のみならず、私鉄にも、その面影を感じさせる車両が存在します。 第2回目に取り上げる"私鉄の東海顔"、本回は「山陽電鉄3000系」。 1964年登場。 高い位置に置かれた運転台、中央の貫通扉、そして左右へ回り込む曲面ガラス。 その前面を見れば、国鉄の153系や113系などを連想する方も少なくないでしょう。 しかし3000系の場合、単に「似ている」だけで終わらない、私鉄の東海顔特集の中でも、"本丸"と言っても過言ではないかもしれません。 前面に採用された曲面ガラスは、国鉄クハ153形500番台用(いわゆる東海顔高運転台)のものと同一寸法とされています。 つまり、その顔つきを構成する部品には、国鉄の“東海顔”と具体的な共通点があった、というわけです。 もっとも、3000系の前面構成要素すべてが国鉄形に倣ったわけではありません。 貫通扉上に横並びで配置された2灯の前照灯などは、先代の山陽2000系から引き継がれたもの。 「東海顔」と共通する曲面ガラスを採用しながら、山陽電鉄独自の意匠を組み合わせることで、3000系の顔は形作られました。 さらに初期の3000系は、オールアルミ合金製車体を採用。 その技術が評価され、1965年には鉄道友の会ローレル賞を受賞しています。 東海顔と同じ時代に生まれ、同じ寸法の曲面ガラスを使いながら、山陽電鉄独自の電車として成立した3000系。 「私鉄の東海顔」を語るうえで、外すことのできない一形式と申せましょう。 (Mr.DIMER編集長)

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    【私鉄の東海顔 vol.2】東海顔と“共通部品”を持つ!?山陽電鉄3000系

    国鉄153系をはじめ、113系、115系、165系などへと広がった、いわゆる「東海顔」。 国鉄のみならず、私鉄にも、その面影を感じさせる車両が存在します。 第2回目に取り上げる"私鉄の東海顔"、本回は「山陽電鉄3000系」。 1964年登場。 高い位置に置かれた運転台、中央の貫通扉、そして左右へ回り込む曲面ガラス。 その前面を見れば、国鉄の153系や113系などを連想する方も少なくないでしょう。 しかし3000系の場合、単に「似ている」だけで終わらない、私鉄の東海顔特集の中でも、"本丸"と言っても過言ではないかもしれません。 前面に採用された曲面ガラスは、国鉄クハ153形500番台用(いわゆる東海顔高運転台)のものと同一寸法とされています。 つまり、その顔つきを構成する部品には、国鉄の“東海顔”と具体的な共通点があった、というわけです。 もっとも、3000系の前面構成要素すべてが国鉄形に倣ったわけではありません。 貫通扉上に横並びで配置された2灯の前照灯などは、先代の山陽2000系から引き継がれたもの。 「東海顔」と共通する曲面ガラスを採用しながら、山陽電鉄独自の意匠を組み合わせることで、3000系の顔は形作られました。 さらに初期の3000系は、オールアルミ合金製車体を採用。 その技術が評価され、1965年には鉄道友の会ローレル賞を受賞しています。 東海顔と同じ時代に生まれ、同じ寸法の曲面ガラスを使いながら、山陽電鉄独自の電車として成立した3000系。 「私鉄の東海顔」を語るうえで、外すことのできない一形式と申せましょう。 (Mr.DIMER編集長)

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  • 【一夜にして4両消えた】EF62・EF63脱線事故、その後の碓氷峠はどう回したのか

    【一夜にして4両消えた】EF62・EF63脱線事故、その後の碓氷峠はどう回したのか

    1975年10月28日、早朝の碓氷峠。軽井沢から横川へ向かっていた回送列車「単5462列車」が、66.7‰の下り勾配で制御を失いました。 編成はEF63 5号機・9号機、そしてEF62 12号機・35号機。4両の電気機関車だけで組まれた回送列車でした。列車は上り線第1トンネル付近で脱線し、築堤下へ転落。4両はいずれも大破し、復旧されることなく現地で解体されました。 ここで、一つの疑問が残ります。「横軽は、その後どうやって回したのか」 この事故で失われたのは、単に「機関車4両」ではありません。とりわけ深刻だったのがEF63です。当時、横川機関区にはEF63が23両在籍していました。 EF63は原則として2両1組。 横川―軽井沢間を通過する電車、客車、貨物列車、機関車列車に至るまで、峠を越える列車には欠かすことのできない専用機でした。 その23両から、5号機と9号機が一気に消えた。23両から21両へ。数字だけ見れば2両です。 しかし運用単位で見れば、ほぼ「1組」を丸ごと失ったことになります。 しかもEF63には代役がいません。 双頭連結器を備え、協調運転に対応し、急勾配を安全に下るための特殊な装備を持つEF63だからこそ、横軽の運転は成立していました。 事故後、国鉄が取れる方法は、残された21両をやり繰りすることでした。 単純計算なら、23両時代は11組を組んでも1両が残ります。事故後の21両では10組+1両。もちろん実際には検査や整備があり、全車を同時に営業へ出せるわけではありません。 だから「たった2両減った」では済まない。事故で消えた2両は、横川機関区が持っていた運用上の余裕そのものでもあったのです。それでも国鉄は横軽の運行を維持しました。 残存車をやり繰りしながら、同時にEF63の補充を進めます。 そして1976年7月。EF63 24号機と25号機が新製されました。 実はEF63の増備は、1974年に登場した22・23号機で終了する予定でした。ところが5・9号機が事故廃車となったため、その代替として24・25号機が追加製造されたのです。 つまり現在、碓氷峠鉄道文化むらで動態保存されている24号機と25号機は、あの事故がなければ誕生していなかった可能性が高い機関車なのです。 では、同時に失われたEF62はどうしたのでしょうか。こちらはEF63とは事情が違いました。 EF62は碓氷峠を越える列車の本務機として設計された機関車ですが、横軽だけでしか使えない専用機ではありません。高崎第二機関区や篠ノ井機関区に配置され、信越本線を広く走っていました。 そのため国鉄は、EF63のように同数の新車を作るのではなく、既存車の配置を動かすことで穴を埋めることができました。 事故から約1年後の1976年10月。篠ノ井機関区にいたEF62 38号機が、高崎第二機関区へ転属しています。 これは事故で失われた12号機・35号機の穴を埋めるための転配とされています。 EF63は「新製」。 EF62は「転配」。 同じ事故で2両ずつ失いながら、その後の補充方法はまったく違ったのです。 そして考えてみれば、恐ろしい話です。...

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    【一夜にして4両消えた】EF62・EF63脱線事故、その後の碓氷峠はどう回したのか

    1975年10月28日、早朝の碓氷峠。軽井沢から横川へ向かっていた回送列車「単5462列車」が、66.7‰の下り勾配で制御を失いました。 編成はEF63 5号機・9号機、そしてEF62 12号機・35号機。4両の電気機関車だけで組まれた回送列車でした。列車は上り線第1トンネル付近で脱線し、築堤下へ転落。4両はいずれも大破し、復旧されることなく現地で解体されました。 ここで、一つの疑問が残ります。「横軽は、その後どうやって回したのか」 この事故で失われたのは、単に「機関車4両」ではありません。とりわけ深刻だったのがEF63です。当時、横川機関区にはEF63が23両在籍していました。 EF63は原則として2両1組。 横川―軽井沢間を通過する電車、客車、貨物列車、機関車列車に至るまで、峠を越える列車には欠かすことのできない専用機でした。 その23両から、5号機と9号機が一気に消えた。23両から21両へ。数字だけ見れば2両です。 しかし運用単位で見れば、ほぼ「1組」を丸ごと失ったことになります。 しかもEF63には代役がいません。 双頭連結器を備え、協調運転に対応し、急勾配を安全に下るための特殊な装備を持つEF63だからこそ、横軽の運転は成立していました。 事故後、国鉄が取れる方法は、残された21両をやり繰りすることでした。 単純計算なら、23両時代は11組を組んでも1両が残ります。事故後の21両では10組+1両。もちろん実際には検査や整備があり、全車を同時に営業へ出せるわけではありません。 だから「たった2両減った」では済まない。事故で消えた2両は、横川機関区が持っていた運用上の余裕そのものでもあったのです。それでも国鉄は横軽の運行を維持しました。 残存車をやり繰りしながら、同時にEF63の補充を進めます。 そして1976年7月。EF63 24号機と25号機が新製されました。 実はEF63の増備は、1974年に登場した22・23号機で終了する予定でした。ところが5・9号機が事故廃車となったため、その代替として24・25号機が追加製造されたのです。 つまり現在、碓氷峠鉄道文化むらで動態保存されている24号機と25号機は、あの事故がなければ誕生していなかった可能性が高い機関車なのです。 では、同時に失われたEF62はどうしたのでしょうか。こちらはEF63とは事情が違いました。 EF62は碓氷峠を越える列車の本務機として設計された機関車ですが、横軽だけでしか使えない専用機ではありません。高崎第二機関区や篠ノ井機関区に配置され、信越本線を広く走っていました。 そのため国鉄は、EF63のように同数の新車を作るのではなく、既存車の配置を動かすことで穴を埋めることができました。 事故から約1年後の1976年10月。篠ノ井機関区にいたEF62 38号機が、高崎第二機関区へ転属しています。 これは事故で失われた12号機・35号機の穴を埋めるための転配とされています。 EF63は「新製」。 EF62は「転配」。 同じ事故で2両ずつ失いながら、その後の補充方法はまったく違ったのです。 そして考えてみれば、恐ろしい話です。...

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