【なぜこんな坂を選んだ】最大66.7‰、碓氷峠に残された唯一の答え
マイミー共有
前回、横川―軽井沢間を104年間走り続けた「横軽」の歴史を辿りました。
その中で、何度も出てきた数字があります。
最大66.7‰。
では、なぜ碓氷峠は、これほど極端な急勾配になったのでしょうか。
■鉄道は、本来「坂を避ける」
鉄道は急な坂を嫌います。
勾配がきつくなれば、機関車が引ける列車の重量は減り、速度も落ちる。
下りでは逆に、その重い列車を確実に止めなければならない。
だから山を越える鉄道では、距離を伸ばしてでも勾配を緩くするのが基本です。
山肌を回り込み、谷を避け、必要ならスイッチバックやループ線を使う。
それなのに碓氷峠は、最大66.7‰。
なぜ、こんな坂を選んだのか。
調べていくと、技術者たちが好んで急勾配を選んだわけではないことが見えてきます。
むしろ逆でした。
碓氷峠には、線路を「逃がす場所」がほとんどなかったのです。
■勾配を緩くしたくても、線路を置けない
横川から軽井沢へ向かう碓氷峠は、深い谷と急斜面が連続します。
勾配を緩くするなら、線路を長く引き回せばいい。
理屈ではそうです。
実際、スイッチバックやループ線によって高度を稼ぐ方法も検討されました。
しかし、そのためには線路を折り返したり、大きく回り込ませたりする場所が必要になります。
碓氷峠では、それが難しかった。
右へ逃げても山。
左へ逃げても谷。
距離を稼ぎたくても、その線路を置く場所そのものが限られていました。
ならば、考え方を変えるしかありません。
坂を緩くするのではなく、
「急な坂を登れる鉄道を造る」。
ここで、碓氷峠の方向性が決まります。
■66.7‰を「消す」のではなく「登る」
採用されたのがアプト式でした。
線路中央にラックレールを敷き、機関車側の歯車を噛み合わせる。
アプト式を採用したことで、
「66.7‰を避ける」のではなく、
「66.7‰でも走れる鉄道にする」
という答えを選んだことです。
もっと大きく迂回する。
もっと長いトンネルを掘る。
方法そのものが存在しなかったわけではありません。
ただし、時代は明治20年代。
現在のように、山の深い場所を長大トンネルで一気に抜ければいい、というほど単純ではありません。
測量。
掘削。
排水。
工期。
建設費。
すべてに今とは比較にならない制約がありました。
山を大きく変えられない。
線路も十分に逃がせない。
それでも横川と軽井沢は結ばなければならない。
そこで、山を鉄道に合わせるのではなく、鉄道を山に合わせた。
最大66.7‰は、その結果残った数字でした。
■ところが70年後、もう一度66.7‰を選ぶ
ここで話が面白くなります。
それから約70年。
アプト式は輸送力の壁となり、国鉄は新線建設に動きます。
明治とは違います。
土木技術も車両技術も大きく進歩していました。
だったら今度こそ、66.7‰をやめればいい。
実際、新線計画では25‰案、50‰案など、もっと緩い勾配で峠を越える方法も検討されました。
つまり昭和の技術者たちには、
「66.7‰から逃げる」
という選択肢もあったのです。
それでも最終的に選ばれたのは、再び最大66.7‰。
旧アプト線にほぼ並行する形で新線を造り、今度はラックレールを使わず、車輪とレールの粘着だけで峠を越える。
明治の答えは、
「歯車を使って66.7‰を登る」。
昭和の答えは、
「歯車なしで66.7‰を登る」。
約70年が経っても、碓氷峠そのものは変わりませんでした。
変わったのは、鉄道のほうです。
■66.7‰が、機関車まで変えた
しかしラックレールを捨てれば、当然別の問題が生まれます。
どうやって登るのか。
そして、それ以上に重要なのが、
どうやって下るのか。
66.7‰では、列車を押し上げる力だけでは足りません。
万一の時にも、列車を確実に止めなければならない。
その要求から生まれたのが、碓氷峠専用機関車EF63でした。
EF63が特殊だったから横軽が特殊になったのではありません。
順番は逆です。
先に66.7‰があった。
その坂を安全に越えるために、普通ではない機関車が必要になったのです。
アプト式も、
新線も、
EF63も、
すべてを辿っていくと、最後は同じ数字に戻ります。
最大66.7‰。
碓氷峠が鉄道に合わせたことは、一度もありません。
鉄道のほうが、この峠に合わせて何度も姿を変えてきました。
それこそが、横軽104年間の歴史だったのかもしれません。
次回は、その66.7‰に対する国鉄の答え。
碓氷峠専用機関車、EF63。
なぜ「峠の番人」には、普通の電気機関車にはない装備が必要だったのか。
その中身を追います。
(マイミー)

