【国鉄名車列伝】119系・飯田線のために生まれた、“最後の旧形国電キラー”
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「飯田線の旧形国電を、まとめて置き換える。」
119系の物語は、そこから始まりました。
豊橋から辰野までを結ぶ飯田線。
全長は約195km。
山あいを縫うように走り、駅の数は90を超える。
急勾配や急曲線が連続し、駅間も短い。
一方で、区間によって利用者数には大きな差があります。
そんな飯田線を長年支えていたのが、クモハ52形やクモハ54形、クモハ60形などに代表される旧形国電でした。
戦前生まれの車両まで現役で走る姿は、
後年には飯田線の名物にもなります。
しかし1980年代に入ると、
さすがに老朽化は限界に近づいていました。
そこで国鉄が送り込んだ新型車両。
それが”119系”です。
「飯田線専用として誕生」
119系が登場したのは1982年。
最大の特徴は、最初から飯田線での使用を強く意識して設計されたことでした。
基本編成は、
クモハ119+クハ118の2両編成。
輸送量の少ない区間でも扱いやすく、
必要に応じて編成を組み合わせることもできます。
車体は片側3扉。
室内はロングシートを基本とし、
頻繁な乗り降りにも対応しました。
華やかな設備はありません。
しかし、その割り切りこそ119系の個性でした。
「なぜ飯田線には専用車が必要だったのか」
飯田線は、ただの地方ローカル線ではありません。
山岳区間が長く、勾配が続く。
駅が多いため、発車しては停まり、また発車する。
さらに長距離路線でありながら、
実際の利用は区間利用が中心です。
つまり、「高速性能よりも、短い編成で確実に走れること」
の方が重要でした。
119系では、低速域で十分な牽引力を得るため、
主電動機に”MT55A形”を採用。
通勤形電車103系などで使われたMT55系列ですが、
119系では飯田線向けの走行条件に合わせた性能設定が行われています。
さらに急勾配の下りに備えて、”抑速ブレーキ”も装備。
見た目は地味でも、
中身はかなり明確に「飯田線仕様」だったのです。
「旧形国電の楽園を終わらせた電車」
鉄道ファンの目線で見ると、
119系の登場には少し複雑なものがあります。
なぜなら119系が投入されたことで、飯田線に残っていた旧形国電が一気に姿を消していったからです。
戦前形。
戦後直後の車両。
流電と呼ばれたクモハ52形。
長い年月を生き抜いてきた電車たちが、
新車の119系に置き換えられていく。
合理化という意味では当然の世代交代でした。
しかし結果として119系は、
「旧形国電の楽園・飯田線に終止符を打った車両」
でもありました。
登場当時の鉄道ファンからすれば、少々憎まれ役だったかもしれません。
ところが面白いことに、その119系自身も年月を重ねるにつれ、今度は「国鉄型」として惜しまれる存在になっていきます。
「国鉄からJR東海へ」
1987年。
国鉄が分割民営化されると、
119系は全車がJR東海へ継承されました。
登場時は青地に灰色帯という、独特の塗装。
その後は白地にオレンジと緑のJR東海色へ姿を変えていきます。
さらに一部の車両はワンマン運転に対応。
クモハ119を両運転台化したクモハ119形5100番台も登場し、より少ない輸送量にも対応できる車両へ変化しました。
飯田線の環境に合わせながら、119系は少しずつ姿を変えていったのです。
「そして今度は、自分が追われる側に」
旧形国電を追い出した119系も、
いつまでも新車ではありません。
21世紀に入ると、JR東海では313系の勢力が拡大。
省エネルギー性能や快適性、保守面で新世代車両との差が大きくなっていきます。
2012年。
119系はJR東海での営業運転を終了。
約30年にわたり走り続けた飯田線を去りました。
ただし、一部車両は解体されず福井県の”えちぜん鉄道”へ。
改造を受け、
MC7000形として第二の人生を送ることになります。
旧形国電を置き換えるために生まれた電車が、
自らも国鉄型の“古い電車”となり、
最後には地方私鉄へ渡って再び走り続ける。
なんとも国鉄型らしい物語です。
「飯田線に必要だった電車」
119系には、113系のような全国規模の活躍も、
485系のような華やかな特急の歴史もありません。
ほぼ一貫して飯田線。それだけです。
しかし、それでよかったのでしょう。
長い路線。
多い駅。
山岳区間。
少ない輸送量。
飯田線という少し特殊な世界に合わせて作られた119系。
万能選手ではない。
でも、その路線では誰よりも使いやすい。
国鉄末期。
巨大組織だった国鉄が生み出した、
“地方線区専用車”という答え。
119系は、旧形国電の時代を終わらせ、
そして自らもまた、
飯田線の風景になっていった電車でした。
(マイミー)

