【新幹線を作った昭和日本の心意気 Vol.3】それでも造ると言った人々
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新幹線を語る上で、
避けて通れぬ二人の名があります。
十河信二氏と、島秀雄氏。
第3回は、この二人のお話。
■七十一歳の、総裁
十河信二氏が国鉄総裁に就任したのは、
1955年(昭和30年)。
このとき、七十一歳。
およそ
新規事業を興す年齢ではありません。
されど十河氏は、就任するや、
東海道の抜本的輸送力増強、
すなわち広軌新線の建設へと動き出します。
■招かれた技師長
十河氏がまず行ったのが、
島秀雄氏の招聘でした。
島氏は国鉄出身の卓越した技術者ながら、
1951年、事情あって国鉄を離れた
民間人。
十河氏はこれを再度招き、
国鉄技師長の座に据えます。
島秀雄という人は、
戦前から動力分散方式、
すなわち編成の各車に動力を持たせる
"電車方式"の優位を理解していた、
当時としては例外的な技術者でした。
1950年に開発された80系は、
短距離向けと見られていた電車が
長距離運転にも適することを実証し、
その後の国鉄の方向性を決定づけています。
十河氏が政治を、
島氏が技術を担う。
新幹線計画は、この分業によって進みます。
■世界銀行という"外堀"
もっとも、
最大の難関は資金と、政治でした。
1961年5月1日、
国鉄は世界銀行より
8,000万ドルの融資を受けます。
当時は1ドル360円の固定相場制。
この融資には、
資金調達以上の意味がありました。
国際的な借款を得たことで、
新幹線計画は日本の国家的プロジェクトとなり、
国内の事情によって中断することが
許されなくなったのです。
"外堀を、自ら埋めた"
なお、この借款は1981年、
完済されています。
■そして、二人は開業を見なかった
総工費は、当初の見積もりから膨れ上がり、
最終的に3,800億円。
そもそも国会での承認を得るため
安く見積もっていたこと、
地価の高騰、
そして新幹線に集中するため
地方路線建設の陳情を蹴り、
議員の不興を買っていたことも重なり、
国会で責任問題へと発展します。
十河氏は、新幹線開業を前に、
国鉄総裁を退任。
島氏もまた、十河氏に殉じる形で、
国鉄を去りました。
1964年10月1日。
開業の日、
二人は、その場にいなかったのです。
されど、
あの日走った0系電車は、
紛れもなく島秀雄が構想した動力分散方式であり、
その線路は、
十河信二が政治生命を賭して通したものでした。
次回Vol.4は、
「安全という思想」。
なぜ新幹線は、これほど安全なのか。
その設計思想を辿ります。
(Mr.DIMER編集長)

