Mr.DIMER Journal
【新幹線を作った昭和日本の心意気 Vol.5】昭和が遺したもの
全5回にわたってお届けした本連載は、最終回を迎えました。 ■世界が追いかけた"新幹線"。 1964年10月1日。東海道新幹線が開業します。そして、世界の鉄道は動き出します。 鉄道先進国を自負していたフランスは、1981年、TGVを開発。 営業最高速度260km/hをもって、新幹線の最高速度記録を凌駕しました。 ドイツのICE、イタリアのディレッティシマ。 そして韓国のKTX、台湾高速鉄道、中国高速鉄道。 いずれも、1964年の東海道新幹線がその端緒であったことは、疑いようがありません。 なお台湾高速鉄道の顧問には、島秀雄の次男である島隆氏が就いています。 島安次郎、島秀雄、島隆。 三代にわたる技術者の系譜が、海を越えて続いたことになります。 ■社会の変化国内に目を転じます。 東海道新幹線 開業以前、東京-大阪間は在来線特急で日帰りこそ可能なものの、滞在可能の時間はわずか2時間あまり。 それが新幹線の開通により、十分な滞在時間を確保できるようになりました。 当初12両であった編成は、1970年の大阪万博を機に16両へ。 1976年5月25日には、新幹線の乗客数が10億人を突破しています。 日本の社会構造そのものを、この"新幹線"が書き換えたと申せましょう。 ■新幹線開通の"光と影"世界初の高速鉄道開業に至っては、脚光を浴びるばかりではありませんでした。 新幹線が開業した1964年度から、国鉄の収支は赤字に転落。 以後それは拡大の一途を辿り、"新幹線建設が国鉄破綻の一因となった"、と語られることもあります。 もっともこれについては、JR東海の葛西敬之会長が、 "東海道新幹線は内部留保と借金で建設し、運賃・料金収入のみですべて回収したものであり、新幹線建設が国鉄破綻の引き金を引いたという認識は誤りである" と著書の中で反論しておられます。 いずれの見方を採るにせよ、巨大事業には巨大な代償が伴うということは、記す価値があろうかと思います。 ■現代に生きる私たち最後に。 本連載を書きながら、私はひとつの問いを反芻しておりました。 もし今、まったく前例のない交通機関を作る、という話が持ち上がったとして。 私たちの社会は、それを是とするだろうか。 鉄道は斜陽であると言われ、第2の戦艦大和と揶揄され、それでも造ると言った人々がいた。...
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全5回にわたってお届けした本連載は、最終回を迎えました。 ■世界が追いかけた"新幹線"。 1964年10月1日。東海道新幹線が開業します。そして、世界の鉄道は動き出します。 鉄道先進国を自負していたフランスは、1981年、TGVを開発。 営業最高速度260km/hをもって、新幹線の最高速度記録を凌駕しました。 ドイツのICE、イタリアのディレッティシマ。 そして韓国のKTX、台湾高速鉄道、中国高速鉄道。 いずれも、1964年の東海道新幹線がその端緒であったことは、疑いようがありません。 なお台湾高速鉄道の顧問には、島秀雄の次男である島隆氏が就いています。 島安次郎、島秀雄、島隆。 三代にわたる技術者の系譜が、海を越えて続いたことになります。 ■社会の変化国内に目を転じます。 東海道新幹線 開業以前、東京-大阪間は在来線特急で日帰りこそ可能なものの、滞在可能の時間はわずか2時間あまり。 それが新幹線の開通により、十分な滞在時間を確保できるようになりました。 当初12両であった編成は、1970年の大阪万博を機に16両へ。 1976年5月25日には、新幹線の乗客数が10億人を突破しています。 日本の社会構造そのものを、この"新幹線"が書き換えたと申せましょう。 ■新幹線開通の"光と影"世界初の高速鉄道開業に至っては、脚光を浴びるばかりではありませんでした。 新幹線が開業した1964年度から、国鉄の収支は赤字に転落。 以後それは拡大の一途を辿り、"新幹線建設が国鉄破綻の一因となった"、と語られることもあります。 もっともこれについては、JR東海の葛西敬之会長が、 "東海道新幹線は内部留保と借金で建設し、運賃・料金収入のみですべて回収したものであり、新幹線建設が国鉄破綻の引き金を引いたという認識は誤りである" と著書の中で反論しておられます。 いずれの見方を採るにせよ、巨大事業には巨大な代償が伴うということは、記す価値があろうかと思います。 ■現代に生きる私たち最後に。 本連載を書きながら、私はひとつの問いを反芻しておりました。 もし今、まったく前例のない交通機関を作る、という話が持ち上がったとして。 私たちの社会は、それを是とするだろうか。 鉄道は斜陽であると言われ、第2の戦艦大和と揶揄され、それでも造ると言った人々がいた。...
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【新幹線を作った昭和日本の心意気 Vol.4】安全という思想
新幹線を語るとき、私たちはつい"速さ"に着目しがちです。 されど、この鉄道の本質は、むしろ"安全"の側にあるのではないか。 第4回は、その設計思想についてお届けします。 ■戦前からの、遺産まず前提として、新幹線は、ゼロから生まれたわけではありません。 1939年、鉄道省が発案した「弾丸列車計画」。 東京から下関まで、在来の東海道・山陽本線とは別に広軌1,435mmの新線を建設し、最高速度200km/h、東京-大阪間を4時間で結ぶ。 翌1940年9月に承認され、日本坂トンネル、新丹那トンネル、東山トンネルの工事が着工されますが、戦況悪化により中断します。 そして戦後。 この時に掘られたトンネルと、半ば強制的に買収されていた用地が、そのまま東海道新幹線に活用されました。 わずか5年で完成し得た理由の一端は、ここにあると申せましょう。 ちなみに「新幹線」という"言葉"も、この計画の関係者が既に用いていたものです。 ■踏切を、一切設けない安全思想の中核、新幹線は、全線にわたって踏切を一切設けていません。 全線立体交差、線路内に人が立ち入れぬ構造。 自動車との衝突という、鉄道最大の事故要因を、設計段階で排除してしまったわけです。 加えて、曲線半径は東海道新幹線で最小2,500m、山陽新幹線以降は4,000m。 勾配も原則15‰まで。 速く走るための線形が、同時に安全のための線形でもある。 ■三重系のATC高速で走る列車から地上の信号機を目視確認することは、気象条件によっては困難となる。 故に新幹線は、運転台に許容速度を表示し、超過すれば自動的にブレーキが作動するATC(自動列車制御装置)を採用しました。 しかも、同じ機能を持つ系統を三つ備え、一つが故障しても、残る二つの多数決によって運転を継続できる構造としています。 "壊れないもの"を作るのではなく、"壊れても走れるもの"を作る。 この発想の転換こそが、60年の安全を支えてきた、と考えます。 ■それでも、盲点はあった1962年、神奈川県綾瀬付近から小田原付近にモデル線が先行整備され、試作電車1000形による試験が繰り返されます。 1963年3月30日には、256km/hの国内最高速度を記録。 されど、この鴨宮の地は、相模湾に近く、冬でも比較的温暖。 降雪時の高速運転データが、十分に得られなかったのです。 結果、開業後初めての冬。 関ヶ原周辺の激しい降雪により、着雪による車両故障が頻発することとなります。 前人未到とは、そういうことなのでしょう。 想定し得たものは潰し、想定し得なかったものに叩かれ、そこからまた学ぶ。...
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新幹線を語るとき、私たちはつい"速さ"に着目しがちです。 されど、この鉄道の本質は、むしろ"安全"の側にあるのではないか。 第4回は、その設計思想についてお届けします。 ■戦前からの、遺産まず前提として、新幹線は、ゼロから生まれたわけではありません。 1939年、鉄道省が発案した「弾丸列車計画」。 東京から下関まで、在来の東海道・山陽本線とは別に広軌1,435mmの新線を建設し、最高速度200km/h、東京-大阪間を4時間で結ぶ。 翌1940年9月に承認され、日本坂トンネル、新丹那トンネル、東山トンネルの工事が着工されますが、戦況悪化により中断します。 そして戦後。 この時に掘られたトンネルと、半ば強制的に買収されていた用地が、そのまま東海道新幹線に活用されました。 わずか5年で完成し得た理由の一端は、ここにあると申せましょう。 ちなみに「新幹線」という"言葉"も、この計画の関係者が既に用いていたものです。 ■踏切を、一切設けない安全思想の中核、新幹線は、全線にわたって踏切を一切設けていません。 全線立体交差、線路内に人が立ち入れぬ構造。 自動車との衝突という、鉄道最大の事故要因を、設計段階で排除してしまったわけです。 加えて、曲線半径は東海道新幹線で最小2,500m、山陽新幹線以降は4,000m。 勾配も原則15‰まで。 速く走るための線形が、同時に安全のための線形でもある。 ■三重系のATC高速で走る列車から地上の信号機を目視確認することは、気象条件によっては困難となる。 故に新幹線は、運転台に許容速度を表示し、超過すれば自動的にブレーキが作動するATC(自動列車制御装置)を採用しました。 しかも、同じ機能を持つ系統を三つ備え、一つが故障しても、残る二つの多数決によって運転を継続できる構造としています。 "壊れないもの"を作るのではなく、"壊れても走れるもの"を作る。 この発想の転換こそが、60年の安全を支えてきた、と考えます。 ■それでも、盲点はあった1962年、神奈川県綾瀬付近から小田原付近にモデル線が先行整備され、試作電車1000形による試験が繰り返されます。 1963年3月30日には、256km/hの国内最高速度を記録。 されど、この鴨宮の地は、相模湾に近く、冬でも比較的温暖。 降雪時の高速運転データが、十分に得られなかったのです。 結果、開業後初めての冬。 関ヶ原周辺の激しい降雪により、着雪による車両故障が頻発することとなります。 前人未到とは、そういうことなのでしょう。 想定し得たものは潰し、想定し得なかったものに叩かれ、そこからまた学ぶ。...
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【新幹線を作った昭和日本の心意気 Vol.3】それでも造ると言った人々
新幹線を語る上で、避けて通れぬ二人の名があります。 十河信二氏と、島秀雄氏。 第3回は、この二人のお話。 ■七十一歳の、総裁十河信二氏が国鉄総裁に就任したのは、1955年(昭和30年)。 このとき、七十一歳。 およそ新規事業を興す年齢ではありません。 されど十河氏は、就任するや、東海道の抜本的輸送力増強、すなわち広軌新線の建設へと動き出します。 ■招かれた技師長十河氏がまず行ったのが、島秀雄氏の招聘でした。 島氏は国鉄出身の卓越した技術者ながら、1951年、事情あって国鉄を離れた民間人。 十河氏はこれを再度招き、国鉄技師長の座に据えます。 島秀雄という人は、戦前から動力分散方式、すなわち編成の各車に動力を持たせる"電車方式"の優位を理解していた、当時としては例外的な技術者でした。 1950年に開発された80系は、短距離向けと見られていた電車が長距離運転にも適することを実証し、その後の国鉄の方向性を決定づけています。 十河氏が政治を、島氏が技術を担う。 新幹線計画は、この分業によって進みます。 ■世界銀行という"外堀"もっとも、最大の難関は資金と、政治でした。 1961年5月1日、国鉄は世界銀行より8,000万ドルの融資を受けます。 当時は1ドル360円の固定相場制。 この融資には、資金調達以上の意味がありました。 国際的な借款を得たことで、新幹線計画は日本の国家的プロジェクトとなり、国内の事情によって中断することが許されなくなったのです。 "外堀を、自ら埋めた" なお、この借款は1981年、完済されています。 ■そして、二人は開業を見なかった総工費は、当初の見積もりから膨れ上がり、最終的に3,800億円。 そもそも国会での承認を得るため安く見積もっていたこと、地価の高騰、そして新幹線に集中するため地方路線建設の陳情を蹴り、議員の不興を買っていたことも重なり、国会で責任問題へと発展します。 十河氏は、新幹線開業を前に、国鉄総裁を退任。 島氏もまた、十河氏に殉じる形で、国鉄を去りました。 1964年10月1日。 開業の日、二人は、その場にいなかったのです。 されど、あの日走った0系電車は、紛れもなく島秀雄が構想した動力分散方式であり、その線路は、十河信二が政治生命を賭して通したものでした。 次回Vol.4は、「安全という思想」。 なぜ新幹線は、これほど安全なのか。その設計思想を辿ります。...
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新幹線を語る上で、避けて通れぬ二人の名があります。 十河信二氏と、島秀雄氏。 第3回は、この二人のお話。 ■七十一歳の、総裁十河信二氏が国鉄総裁に就任したのは、1955年(昭和30年)。 このとき、七十一歳。 およそ新規事業を興す年齢ではありません。 されど十河氏は、就任するや、東海道の抜本的輸送力増強、すなわち広軌新線の建設へと動き出します。 ■招かれた技師長十河氏がまず行ったのが、島秀雄氏の招聘でした。 島氏は国鉄出身の卓越した技術者ながら、1951年、事情あって国鉄を離れた民間人。 十河氏はこれを再度招き、国鉄技師長の座に据えます。 島秀雄という人は、戦前から動力分散方式、すなわち編成の各車に動力を持たせる"電車方式"の優位を理解していた、当時としては例外的な技術者でした。 1950年に開発された80系は、短距離向けと見られていた電車が長距離運転にも適することを実証し、その後の国鉄の方向性を決定づけています。 十河氏が政治を、島氏が技術を担う。 新幹線計画は、この分業によって進みます。 ■世界銀行という"外堀"もっとも、最大の難関は資金と、政治でした。 1961年5月1日、国鉄は世界銀行より8,000万ドルの融資を受けます。 当時は1ドル360円の固定相場制。 この融資には、資金調達以上の意味がありました。 国際的な借款を得たことで、新幹線計画は日本の国家的プロジェクトとなり、国内の事情によって中断することが許されなくなったのです。 "外堀を、自ら埋めた" なお、この借款は1981年、完済されています。 ■そして、二人は開業を見なかった総工費は、当初の見積もりから膨れ上がり、最終的に3,800億円。 そもそも国会での承認を得るため安く見積もっていたこと、地価の高騰、そして新幹線に集中するため地方路線建設の陳情を蹴り、議員の不興を買っていたことも重なり、国会で責任問題へと発展します。 十河氏は、新幹線開業を前に、国鉄総裁を退任。 島氏もまた、十河氏に殉じる形で、国鉄を去りました。 1964年10月1日。 開業の日、二人は、その場にいなかったのです。 されど、あの日走った0系電車は、紛れもなく島秀雄が構想した動力分散方式であり、その線路は、十河信二が政治生命を賭して通したものでした。 次回Vol.4は、「安全という思想」。 なぜ新幹線は、これほど安全なのか。その設計思想を辿ります。...
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【新幹線を作った昭和日本の心意気 Vol.2】鉄道は斜陽である、と言われた時代
前回、新幹線計画が決して歓迎されたものではなかった、と言うことをお伝えしました。 第2回は、その逆風の実像を描写します。 ■世界の常識は「鉄道は終わった」1950年代。 欧米において、"将来の大量輸送を担うのは航空機と高速道路網であり、鉄道はそれらに取って代わられる時代遅れの乗り物である" そうした見解が、広く共有されていました。 いわゆる、鉄道斜陽論。 日本もまた、これを範としようとする向きが一般的な見立てでした。 "在来線とは別規格の高速新線を建設する" そのような計画は、国鉄の内部においてすら、疑問視する者が多かったのです。 ■限界を迎える、"東海道本線"もっとも、現場には切実な事情がありました。 戦後復興と経済成長により、東海道本線の貨客輸送量は激増。 1956年、東海道本線全線電化が完成しますが、需要の増加に対しては、焼け石に水であったと申せましょう。 1957年、国鉄内部の「幹線調査会」は、東海道本線の輸送力飽和は早晩必至であり、線路増設が不可欠であると答申します。 ■三つの選択肢このとき、検討された案は三つ。 一、現在線に沿って線路を増設し、複々線とする二、別ルートで狭軌新線を建設する三、別ルートで広軌新線を建設する 従来の常道であれば、一の複々線案が採られたところ。 されど国鉄幹部は、最も困難な"三、広軌新線建設"を選びました。 明治以来、日本の鉄道は狭軌1,067mmで敷かれ、標準軌への改軌論は政争の中で幾度も潰えてきた経緯があります。 その悲願を、新線という形で果たそうというわけです。 ■「東京-大阪間3時間への可能性」決断を後押しした出来事が、同じ1957年5月30日にありました。 鉄道技術研究所の創立50周年記念講演。 篠原武司所長らが、「東京-大阪間3時間への可能性」と題し、広軌新線であれば3時間運転は技術的に可能である、と報告したのです。 当時の在来線特急は、東京-大阪間6時間30分。 それを、半分に。 十河総裁はこの話を聞くや強い関心を示し、国鉄幹部を集めて、研究所員に詳細を語らせたと言われています。 斜陽と言われた鉄道が、技術によって反転しうる。 その可能性に賭けた人々がいた、ということになります。 次回Vol.3は、「それでも造ると言った人々」。 十河信二と島秀雄。二人の男の物語です。 (Mr.DIMER編集長)...
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前回、新幹線計画が決して歓迎されたものではなかった、と言うことをお伝えしました。 第2回は、その逆風の実像を描写します。 ■世界の常識は「鉄道は終わった」1950年代。 欧米において、"将来の大量輸送を担うのは航空機と高速道路網であり、鉄道はそれらに取って代わられる時代遅れの乗り物である" そうした見解が、広く共有されていました。 いわゆる、鉄道斜陽論。 日本もまた、これを範としようとする向きが一般的な見立てでした。 "在来線とは別規格の高速新線を建設する" そのような計画は、国鉄の内部においてすら、疑問視する者が多かったのです。 ■限界を迎える、"東海道本線"もっとも、現場には切実な事情がありました。 戦後復興と経済成長により、東海道本線の貨客輸送量は激増。 1956年、東海道本線全線電化が完成しますが、需要の増加に対しては、焼け石に水であったと申せましょう。 1957年、国鉄内部の「幹線調査会」は、東海道本線の輸送力飽和は早晩必至であり、線路増設が不可欠であると答申します。 ■三つの選択肢このとき、検討された案は三つ。 一、現在線に沿って線路を増設し、複々線とする二、別ルートで狭軌新線を建設する三、別ルートで広軌新線を建設する 従来の常道であれば、一の複々線案が採られたところ。 されど国鉄幹部は、最も困難な"三、広軌新線建設"を選びました。 明治以来、日本の鉄道は狭軌1,067mmで敷かれ、標準軌への改軌論は政争の中で幾度も潰えてきた経緯があります。 その悲願を、新線という形で果たそうというわけです。 ■「東京-大阪間3時間への可能性」決断を後押しした出来事が、同じ1957年5月30日にありました。 鉄道技術研究所の創立50周年記念講演。 篠原武司所長らが、「東京-大阪間3時間への可能性」と題し、広軌新線であれば3時間運転は技術的に可能である、と報告したのです。 当時の在来線特急は、東京-大阪間6時間30分。 それを、半分に。 十河総裁はこの話を聞くや強い関心を示し、国鉄幹部を集めて、研究所員に詳細を語らせたと言われています。 斜陽と言われた鉄道が、技術によって反転しうる。 その可能性に賭けた人々がいた、ということになります。 次回Vol.3は、「それでも造ると言った人々」。 十河信二と島秀雄。二人の男の物語です。 (Mr.DIMER編集長)...
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【新幹線を作った昭和日本の心意気 Vol.1】「当たり前」の正体
--------------------------------------------暑い日々が続きますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。さて、短い"大人の夏休み"企画として、"新幹線を作った昭和日本の心意気"を5連載することと致しました。激動の昭和が生み出した"新幹線"の話。ぜひご期待下さい。-------------------------------------------- 出張で、旅行で、帰省で。 私たちは新幹線に乗ります。 改札を通り、ホームに上がり、定刻通りに滑り込んできた列車に乗る。 そして、ほぼ定刻通りに目的地へ着く。 あまりに当たり前の光景。 さて、本連載では全5回にわたり、この"当たり前"がいかにして生まれたのかを、辿ってみたいと思います。 ■世界初、という事実1964年(昭和39年)10月1日、東海道新幹線、東京~新大阪間開業。 営業最高速度210km/h。 これが、世界初の高速鉄道でした。 当時、欧州の主要幹線における最高速度はおおむね160km/h前後。 つまり新幹線は、既存の常識を一段飛ばしで超えてしまったことになります。 "高速鉄道"という概念そのものを世界に広めたのは、この東海道新幹線であったと申せましょう。 ■数字が語るもの開業から60年余。 東海道新幹線では、1日に最大400本近い列車が運転されながら、年間平均遅延時分は、わずか12秒(2019年)。 車両や設備の異常、運行側の不手際に起因する乗客の死亡事故は、一度も起きておりません。 2011年には、"最も安全な高速鉄道ネットワーク"としてギネス世界記録に認定されています。 年間利用者数、約3億6000万人。 日本の総人口の、およそ3倍。 これらの数字を前にすると、私たちの言う"当たり前"が、いかに異常な水準の上に成り立っているかが分かります。 ■もっとも、一番列車は1964年10月1日、東京駅を発った記念すべき一番列車、ひかり1号。 定員987名に対し、乗客は730名ほどであったと伝わります。 満席では、なかったのです。 世界初の高速鉄道の門出としては、いささか静かな船出。 もっともこれは、無理からぬ話でもあります。 なにせ、誰も乗ったことのない乗り物。誰も見たことのない速度。 当時の人々にとって新幹線は、"当たり前"どころか、得体の知れない挑戦だったわけです。 ■そして、忘れられていることこの計画、当初は決して歓迎されたものではありませんでした。 時代は自動車と航空機の全盛。鉄道は斜陽である、と語られた時代。 作家の阿川弘之氏曰く、莫大な投資をして新幹線を造れば"第2の戦艦大和"となり、世界の物笑いの種になる、と批判したと伝わります。...
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--------------------------------------------暑い日々が続きますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。さて、短い"大人の夏休み"企画として、"新幹線を作った昭和日本の心意気"を5連載することと致しました。激動の昭和が生み出した"新幹線"の話。ぜひご期待下さい。-------------------------------------------- 出張で、旅行で、帰省で。 私たちは新幹線に乗ります。 改札を通り、ホームに上がり、定刻通りに滑り込んできた列車に乗る。 そして、ほぼ定刻通りに目的地へ着く。 あまりに当たり前の光景。 さて、本連載では全5回にわたり、この"当たり前"がいかにして生まれたのかを、辿ってみたいと思います。 ■世界初、という事実1964年(昭和39年)10月1日、東海道新幹線、東京~新大阪間開業。 営業最高速度210km/h。 これが、世界初の高速鉄道でした。 当時、欧州の主要幹線における最高速度はおおむね160km/h前後。 つまり新幹線は、既存の常識を一段飛ばしで超えてしまったことになります。 "高速鉄道"という概念そのものを世界に広めたのは、この東海道新幹線であったと申せましょう。 ■数字が語るもの開業から60年余。 東海道新幹線では、1日に最大400本近い列車が運転されながら、年間平均遅延時分は、わずか12秒(2019年)。 車両や設備の異常、運行側の不手際に起因する乗客の死亡事故は、一度も起きておりません。 2011年には、"最も安全な高速鉄道ネットワーク"としてギネス世界記録に認定されています。 年間利用者数、約3億6000万人。 日本の総人口の、およそ3倍。 これらの数字を前にすると、私たちの言う"当たり前"が、いかに異常な水準の上に成り立っているかが分かります。 ■もっとも、一番列車は1964年10月1日、東京駅を発った記念すべき一番列車、ひかり1号。 定員987名に対し、乗客は730名ほどであったと伝わります。 満席では、なかったのです。 世界初の高速鉄道の門出としては、いささか静かな船出。 もっともこれは、無理からぬ話でもあります。 なにせ、誰も乗ったことのない乗り物。誰も見たことのない速度。 当時の人々にとって新幹線は、"当たり前"どころか、得体の知れない挑戦だったわけです。 ■そして、忘れられていることこの計画、当初は決して歓迎されたものではありませんでした。 時代は自動車と航空機の全盛。鉄道は斜陽である、と語られた時代。 作家の阿川弘之氏曰く、莫大な投資をして新幹線を造れば"第2の戦艦大和"となり、世界の物笑いの種になる、と批判したと伝わります。...
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