【鉄路を敷いた男たちVol.1】北海道――原野に鉄路を敷け
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鉄道の記事を書いていると、
どうしても車両の話が中心になります。
でも、そもそもです。
その列車が走っている線路は、
誰がつくったのでしょうか。
今なら「よくここに鉄道を通したな」と思う場所にも、
当たり前のように線路があります。
今回から少しだけ、
そんな「鉄路を敷いた人々」を追いかけてみようと思います。
最初の舞台は、北海道。
もし明治初期の北海道で、
「三笠の山奥で掘った石炭を、小樽の港まで運べ」
と言われたら…どうしますか。
もちろん高速道路はない。
トラックもない。
札幌―小樽間ですら、交通の難所を抱えている。
ところが幌内では、
これから大量の石炭を掘ろうとしている。
掘ったところで、
運べなければただの石です。
実は最初から、
小樽まで鉄道を通すつもりだったわけではありません。
考えられていたのは、
幌内から幌向太付近まで鉄道を敷き、
そこから石狩川を船で運ぶ方法。
川を「輸送路」に使おうとしたのです。
ところが、この計画に待ったをかけた人物がいました。
アメリカ人鉄道技師、
ジョセフ・U・クロフォード。
「船に積み替えるより、
小樽まで鉄道を通してしまえばいい」
発想としては単純です。
でも、それを実際にやるとなると話は別。
特に立ちはだかったのが、
札幌と小樽の間でした。
張碓付近は海と山が迫る難所。
鉄道以前に、
工事資材をまともに運び込む道すら十分ではない。
ならば、まず道を造る。
クロフォードは1879年、
難所だった張碓海岸の道路開削を成功させます。
そして翌1880年。
いよいよ手宮から札幌へ、
北海道最初の本格的な鉄道建設が始まります。
ここで現在の地図に置き換えてみましょう。
手宮から南小樽、札幌、岩見沢、
そして幌内へ。
このうち、
南小樽―札幌―岩見沢は、
現在も「函館本線」として列車が走っている区間です。
つまりこれは、
消えてしまった昔の鉄道だけの話ではありません。
私たちが今乗っている線路の「始まり」の話です。
しかも面白いのは、
北海道の鉄道が本州とは少し違うこと。
新橋―横浜がイギリスの技術を強く受けたのに対し、
北海道開拓はアメリカをモデルに進められました。
幌内鉄道もアメリカ式。
レール、客車、貨車、
そして蒸気機関車までアメリカからやってきます。
その機関車が、
後に有名になる「義経」と「弁慶」。
ただ、ここで主役にしたいのは機関車ではありません。
その機関車が走る場所を、
先に造った人たちです。
海岸を削り、
隧道を掘り、
橋を架け、
何もなかった場所へ一本ずつレールを置いていく。
そして驚くのが、その速さです。
着工から、わずか11か月。
1880年11月28日、
手宮―札幌間で汽車運転式が行われました。
しかし、まだ終わりではありません。
そもそもの目的は札幌ではない。
石炭が眠る「幌内」です。
クロフォードが北海道を離れた後も、
鉄路は止まりませんでした。
松本荘一郎、平井晴二郎ら
日本人技術者が仕事を引き継ぎます。
外国人技師に教わりながら鉄道を造っていた時代から、
日本人自身が鉄路を延ばしていく時代へ。
そして1882年11月13日。
手宮―幌内間、全通。
石炭を運ぶために造られた一本の鉄道は、
その後の北海道を大きく変えていきます。
炭鉱が開かれる。
人が集まる。
町ができる。
鉄道は「町と町を結ぶもの」だけではなく、
北海道では鉄道が延びた先に、
新しい町が生まれていったのです。
そして140年以上が経った現在。
小樽には旧手宮線の線路跡が残り、
かつての手宮駅構内には、
機関車庫や転車台も残されています。
一方、南小樽から札幌、岩見沢へ続く鉄路には、
今も列車が走っています。
何気なく乗っている函館本線。
そのルーツを遡ると、
「幌内の石炭を、小樽の港へ運ぶ」
そこから北海道の鉄道は始まりました。
北海道の鉄道の発祥の地、手宮。
小樽へ行く機会があれば、
140年以上前、ここから北海道の鉄路が始まったことを思いながら、旧手宮線を歩いてみるのも面白いと思います。
是非一度、
訪れてみてはいかがでしょう。
(マイミー)

