【一夜にして4両消えた】EF62・EF63脱線事故、その後の碓氷峠はどう回したのか

【一夜にして4両消えた】EF62・EF63脱線事故、その後の碓氷峠はどう回したのか

マイミー

1975年10月28日、早朝の碓氷峠。
軽井沢から横川へ向かっていた回送列車「単5462列車」が、66.7‰の下り勾配で制御を失いました。

編成はEF63 5号機・9号機、そしてEF62 12号機・35号機。4両の電気機関車だけで組まれた回送列車でした。
列車は上り線第1トンネル付近で脱線し、築堤下へ転落。4両はいずれも大破し、復旧されることなく現地で解体されました。

ここで、一つの疑問が残ります。
「横軽は、その後どうやって回したのか」

この事故で失われたのは、単に「機関車4両」ではありません。
とりわけ深刻だったのがEF63です。
当時、横川機関区にはEF63が23両在籍していました。

EF63は原則として2両1組。

横川―軽井沢間を通過する電車、客車、貨物列車、機関車列車に至るまで、峠を越える列車には欠かすことのできない専用機でした。

その23両から、5号機と9号機が一気に消えた。
23両から21両へ。
数字だけ見れば2両です。

しかし運用単位で見れば、ほぼ「1組」を丸ごと失ったことになります。

しかもEF63には代役がいません。

双頭連結器を備え、協調運転に対応し、急勾配を安全に下るための特殊な装備を持つEF63だからこそ、横軽の運転は成立していました。

事故後、国鉄が取れる方法は、残された21両をやり繰りすることでした。

単純計算なら、23両時代は11組を組んでも1両が残ります。
事故後の21両では10組+1両。
もちろん実際には検査や整備があり、全車を同時に営業へ出せるわけではありません。

だから「たった2両減った」では済まない。
事故で消えた2両は、横川機関区が持っていた運用上の余裕そのものでもあったのです。
それでも国鉄は横軽の運行を維持しました。

残存車をやり繰りしながら、同時にEF63の補充を進めます。

そして1976年7月。
EF63 24号機と25号機が新製されました。

実はEF63の増備は、
1974年に登場した22・23号機で終了する予定でした。
ところが5・9号機が事故廃車となったため、その代替として24・25号機が追加製造されたのです。

つまり現在、碓氷峠鉄道文化むらで動態保存されている24号機と25号機は、あの事故がなければ誕生していなかった可能性が高い機関車なのです。

では、同時に失われたEF62はどうしたのでしょうか。
こちらはEF63とは事情が違いました。

EF62は碓氷峠を越える列車の本務機として設計された機関車ですが、横軽だけでしか使えない専用機ではありません。
高崎第二機関区や篠ノ井機関区に配置され、信越本線を広く走っていました。

そのため国鉄は、EF63のように同数の新車を作るのではなく、既存車の配置を動かすことで穴を埋めることができました。

事故から約1年後の1976年10月。
篠ノ井機関区にいたEF62 38号機が、高崎第二機関区へ転属しています。

これは事故で失われた12号機・35号機の穴を埋めるための転配とされています。

EF63は「新製」。

EF62は「転配」。

同じ事故で2両ずつ失いながら、その後の補充方法はまったく違ったのです。

そして考えてみれば、恐ろしい話です。

1975年10月28日。
横川機関区は、横軽専用のEF63を一度に2両失いました。
しかし事故後も、
横軽を越える列車は走らせ続けなければならない。
「あさま」も「白山」も、急行も普通列車も貨物列車も、碓氷峠を越えていきます。

事故が起きたからといって、
この区間そのものを長期間止めるわけにはいきません。
残った機関車で組み合わせを作り、検査や整備との兼ね合いを取りながら、24・25号機が来るまでおよそ8か月。

横川機関区は21両のEF63で峠を守り続けました。

碓氷峠の歴史というと、
66.7‰やEF63の特殊装備が語られます。
しかし、その特殊なシステムが一度大きく傷ついたあとも、残された機関車と現場の運用で列車を走らせ続けたことも忘れてはいけません。

一度に4両を失っても、碓氷峠は止まらなかった。
それもまた、
「峠の番人」EF63の歴史に残る、もう一つの物語なのです。

(マイミー)

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