【時代を生き抜いた鉄道車両特集Vol.2】東急3600形・「戦災国電から生まれ変わった私鉄電車」
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1945年。
終戦を迎えた日本には、焼けた街だけでなく、無数の鉄道車両も傷ついた姿で残されていました。
空襲で焼損した国鉄電車。
本来なら、そのまま役目を終えていても不思議ではありません。
しかし当時の日本には、新しい車両を大量に造る余裕などありませんでした。
資材もない。
車両も足りない。
それでも、人は動かなければならない。
ならば知恵を振り絞り、
残ったものを、もう一度使う。
そんな戦後の鉄道事情から生まれた車両のひとつが、
「東急3600形」です。
元を辿れば「戦災国電」
東急3600系は、第二次世界大戦で被災した省線電車、つまり国鉄の前身である鉄道省・運輸省の電車を払い下げてもらい、復旧して誕生した車両群でした。
1948年から1950年代初頭にかけて登場し、デハ3600形16両、クハ3670形9両、クハ3770形12両。
合計37両という大所帯になります。
特筆すべきは、その「復旧方法」。
すべてが同じように造られたわけではありません。
比較的損傷の少なかった車両は、焼け残った鋼製車体を修復して再利用。
一方、損傷が激しかった車両では、使える台枠などを残し、その上に新しい車体を載せる方法も採られました。
37両のうち、14両は戦災車の鋼体を修復して使用し、
残る23両は主に台枠を利用して新たな車体を構築したとされています。
つまり同じ「3600系」と呼ばれていても、
その生い立ちは一両一両違ったのです。
「大きく被災した国電が、東急の電車になる。」
ここが、この車両の特筆すべきところ。
戦争中は国の鉄道を走っていた車両が、
戦後は私鉄、東急の電車として再び走り始めました。
現在でも鉄道会社間で車両が譲渡される例はありますが、
戦災車の焼け残った車体や台枠まで活用し、
別会社の営業車として大量に復旧するという成り立ちは、
戦後直後ならではのものでした。
「まだ走れるか」
その一点が特に重要だった時代です。
東急3600形は、東横線や目蒲線、池上線などで使用され、戦後の東京近郊輸送を支えていきました。
後年には車体更新を受けた車両もあり、戦災復旧車だった面影を大きく変えながら走り続けます。
そして東急での役目を終えた後、一部はまた新たな会社へ渡り、さらに第二の土地でも活躍しました。
同じ車両」とは、何なのか。
焼け残った車体を叩き直した車両。
台枠だけを残し、新しい車体を載せた車両。
さらに、その後もう一度車体を更新された車両。
ここまでくると、
果たしてどこまでが「元の車両」なのか。
そんな疑問さえ浮かんできます。
それでも、その台枠や部品の一部には確かに戦前の時間が流れていました。
戦火を受け、
捨てるわけにもいかず、
別の姿となり、
再び人々を運んだ。
東急3600形。
それは華やかな名車というより、
「走れるものは、もう一度走らせる」
そんな戦後日本の鉄道が持っていた、
凄まじいまでの現実主義から生まれた電車でした。
戦災国電から、私鉄電車へ。
姿を変えても、その鉄路は続いた。
東急3600形は、
焼け跡から始まった戦後復興を、日々の輸送で支え続けた車両だったのです。
(マイミー)

