【新幹線を作った昭和日本の心意気 Vol.2】鉄道は斜陽である、と言われた時代
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前回、
新幹線計画が決して歓迎されたものではなかった、
と言うことをお伝えしました。
第2回は、その逆風の実像を描写します。
■世界の常識は「鉄道は終わった」
1950年代。
欧米において、
"将来の大量輸送を担うのは
航空機と高速道路網であり、
鉄道はそれらに取って代わられる
時代遅れの乗り物である"
そうした見解が、広く共有されていました。
いわゆる、鉄道斜陽論。
日本もまた、これを範としようとする向きが
一般的な見立てでした。
"在来線とは別規格の高速新線を建設する"
そのような計画は、
国鉄の内部においてすら、
疑問視する者が多かったのです。
■限界を迎える、"東海道本線"
もっとも、
現場には切実な事情がありました。
戦後復興と経済成長により、
東海道本線の貨客輸送量は激増。
1956年、東海道本線全線電化が完成しますが、
需要の増加に対しては、
焼け石に水であったと申せましょう。
1957年、国鉄内部の「幹線調査会」は、
東海道本線の輸送力飽和は早晩必至であり、
線路増設が不可欠であると答申します。
■三つの選択肢
このとき、
検討された案は三つ。
一、現在線に沿って線路を増設し、複々線とする
二、別ルートで狭軌新線を建設する
三、別ルートで広軌新線を建設する
従来の常道であれば、
一の複々線案が採られたところ。
されど国鉄幹部は、
最も困難な"三、広軌新線建設"を選びました。
明治以来、
日本の鉄道は狭軌1,067mmで敷かれ、
標準軌への改軌論は
政争の中で幾度も潰えてきた経緯があります。
その悲願を、
新線という形で果たそうというわけです。
■「東京-大阪間3時間への可能性」
決断を後押しした出来事が、
同じ1957年5月30日にありました。
鉄道技術研究所の創立50周年記念講演。
篠原武司所長らが、
「東京-大阪間3時間への可能性」と題し、
広軌新線であれば3時間運転は技術的に可能である、
と報告したのです。
当時の在来線特急は、東京-大阪間6時間30分。
それを、半分に。
十河総裁はこの話を聞くや強い関心を示し、
国鉄幹部を集めて、
研究所員に詳細を語らせたと言われています。
斜陽と言われた鉄道が、
技術によって反転しうる。
その可能性に賭けた人々がいた、
ということになります。
次回Vol.3は、
「それでも造ると言った人々」。
十河信二と島秀雄。
二人の男の物語です。
(Mr.DIMER編集長)

