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【国鉄名車列伝】185系・特急にも普通にもなる、国鉄が生んだ万能電車

【国鉄名車列伝】185系・特急にも普通にもなる、国鉄が生んだ万能電車

<特急にも普通にも。国鉄が生んだ実用本位の名車> 1981年。国鉄は東海道本線に、それまでの特急形電車とは少し違う車両を送り込みました。 "185系" 白い車体に、緑の斜めストライプ。 見た目こそ鮮烈でしたが、本当に特徴的だったのは、その設計思想です。 この電車、特急形でありながら "普通列車で使うことまで考えて造られていました。" 153系の仕事を丸ごと引き継ぐ 185系誕生の背景には、東海道本線で急行「伊豆」や普通列車に使われていた153系の老朽化がありました。国鉄が必要としていたのは、単純な特急専用車ではありません。 急行にも普通列車にも使え、さらに特急運用にも対応できる車両。いわば153系が担っていた仕事を幅広く引き継ぐ、「実用本位の万能車」でした。 特急形なのに“普通列車にも使える” 185系の客用扉は片側2か所、幅1,000mmの片開き扉。従来の特急形より乗降性を高めながら、車内にはデッキを設置。普通列車としての使いやすさと、特急としての居住性を両立させました。 さらに登場時の普通車は"転換クロスシート"窓も固定式ではなく開閉可能。183系や485系と比べれば、かなり異質な特急形です。 しかし、これは決して中途半端なのではありません。 185系は最初から、「特急だけを走る電車」ではなかったのです。 本当に普通列車として走った。 1981年3月、185系は急行「伊豆」などで営業運転を開始。同年10月には特急「踊り子」が誕生し、185系は伊豆特急の顔となっていきます。 その一方、間合い運用では東海道本線の普通列車にも投入されました。特急として走る同じ車両に、今度は普通乗車券だけで乗れる。現在では珍しい使い方ですが、これこそ185系の本領でした。 新時代なのに、あえて「抵抗制御」 185系が登場した1981年には、鉄道車両の制御方式も次の時代へ進み始めていました。 国鉄では同年、電機子チョッパ制御を採用した201系の量産が開始。 私鉄でも”界磁チョッパ制御”など、省エネルギー型の方式が広がっていました。 そんな時代に185系は、実績ある「抵抗制御」を採用します。 最新技術よりも、普通列車から特急まで毎日確実に走れること。整備しやすく、安定して使えること。国鉄は185系に、新しさより実用性と信頼性を求めたのです。 200番台と「新幹線リレー号」 東海道・伊豆方面向けの0番台に続き、耐寒耐雪構造を強化した「200番台」も登場。 1982年の東北新幹線開業後には、上野―大宮間を結んだ「新幹線リレー号」でも活躍しました。 その後は「草津」「谷川」「あかぎ」などにも充当され、185系の活躍範囲は関東一円へ広がっていきます。 JR東日本最後の「絵幕特急」 185系の魅力を語るうえで忘れられないのが、前面中央の”幕式ヘッドマーク”です。「踊り子」「草津」「あかぎ」など、列車ごとに異なる愛称と図柄を掲げて走りました。...

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【国鉄名車列伝】185系・特急にも普通にもなる、国鉄が生んだ万能電車

<特急にも普通にも。国鉄が生んだ実用本位の名車> 1981年。国鉄は東海道本線に、それまでの特急形電車とは少し違う車両を送り込みました。 "185系" 白い車体に、緑の斜めストライプ。 見た目こそ鮮烈でしたが、本当に特徴的だったのは、その設計思想です。 この電車、特急形でありながら "普通列車で使うことまで考えて造られていました。" 153系の仕事を丸ごと引き継ぐ 185系誕生の背景には、東海道本線で急行「伊豆」や普通列車に使われていた153系の老朽化がありました。国鉄が必要としていたのは、単純な特急専用車ではありません。 急行にも普通列車にも使え、さらに特急運用にも対応できる車両。いわば153系が担っていた仕事を幅広く引き継ぐ、「実用本位の万能車」でした。 特急形なのに“普通列車にも使える” 185系の客用扉は片側2か所、幅1,000mmの片開き扉。従来の特急形より乗降性を高めながら、車内にはデッキを設置。普通列車としての使いやすさと、特急としての居住性を両立させました。 さらに登場時の普通車は"転換クロスシート"窓も固定式ではなく開閉可能。183系や485系と比べれば、かなり異質な特急形です。 しかし、これは決して中途半端なのではありません。 185系は最初から、「特急だけを走る電車」ではなかったのです。 本当に普通列車として走った。 1981年3月、185系は急行「伊豆」などで営業運転を開始。同年10月には特急「踊り子」が誕生し、185系は伊豆特急の顔となっていきます。 その一方、間合い運用では東海道本線の普通列車にも投入されました。特急として走る同じ車両に、今度は普通乗車券だけで乗れる。現在では珍しい使い方ですが、これこそ185系の本領でした。 新時代なのに、あえて「抵抗制御」 185系が登場した1981年には、鉄道車両の制御方式も次の時代へ進み始めていました。 国鉄では同年、電機子チョッパ制御を採用した201系の量産が開始。 私鉄でも”界磁チョッパ制御”など、省エネルギー型の方式が広がっていました。 そんな時代に185系は、実績ある「抵抗制御」を採用します。 最新技術よりも、普通列車から特急まで毎日確実に走れること。整備しやすく、安定して使えること。国鉄は185系に、新しさより実用性と信頼性を求めたのです。 200番台と「新幹線リレー号」 東海道・伊豆方面向けの0番台に続き、耐寒耐雪構造を強化した「200番台」も登場。 1982年の東北新幹線開業後には、上野―大宮間を結んだ「新幹線リレー号」でも活躍しました。 その後は「草津」「谷川」「あかぎ」などにも充当され、185系の活躍範囲は関東一円へ広がっていきます。 JR東日本最後の「絵幕特急」 185系の魅力を語るうえで忘れられないのが、前面中央の”幕式ヘッドマーク”です。「踊り子」「草津」「あかぎ」など、列車ごとに異なる愛称と図柄を掲げて走りました。...

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【国鉄名車列伝】キハ391系気動車・気動車の高速化を夢見た幻のガスタービン気動車

【国鉄名車列伝】キハ391系気動車・気動車の高速化を夢見た幻のガスタービン気動車

1972年。国鉄に、これまでの気動車とはまったく違う車両が誕生しました。 その名は「キハ391系気動車」 "ディーゼルエンジン"ではありません。 その心臓部に搭載されたのは、ガスタービンエンジン。航空機などにも使われるガスタービンを、鉄道車両の動力にしてしまおう。 今から半世紀以上も前。国鉄は、本気でそんな未来を描いていました。「非電化だから遅い」を変えたい。当時の国鉄にとって、大きな課題のひとつだったのが、非電化区間の高速化。 すでにキハ181系のような高出力の特急形気動車は登場していました。しかし、ディーゼルエンジンは出力を大きくすれば、それだけ重量も増えていきます。 もっと軽く。もっと大きな力を。 そこで国鉄が目を付けたのが、ガスタービンでした。 小型・軽量でありながら、大出力を得られる。これなら非電化区間でも、電車に負けない高速運転ができるのではないか。 そんな期待を背負って誕生したのが、キハ391系だったのです。 見た目からして、普通じゃない。キハ391系は、一見すると3両編成のように見えます。しかし実際には、3つの車体で1両を構成する連接構造。 中央の短い車体にガスタービンを搭載し、前後の車体を客室としました。車体にはアルミ合金を採用。 さらに、曲線区間を高速で通過するための車体傾斜機構まで備えていました。設計最高速度は、130km/h。 軽くして、大きな力を与えて、カーブも速く走る。 言ってしまえばキハ391系は、国鉄が考えた“非電化高速鉄道の走る実験室” だったのです。 そして、本当に走った。キハ391系は、単なる展示用の試作車ではありません。伯備線や山陰本線、田沢湖線などで実際に走行試験が行われました。 ガスタービンの性能。高速走行時の特性。そして車体傾斜。 国鉄は、この異色の気動車を使って、次世代の非電化特急を本気で模索していました。もし、この技術が実用化されていたら。全国の非電化幹線を、ガスタービン特急が130km/hで駆け抜けていた。 そんな未来も、あったのかもしれません。 しかし時代がそれを許しませんでした。 1973年、オイルショック。ガスタービンには、大きな弱点がありました。 燃費です。 小型・軽量で大出力。その反面、特に部分負荷では燃料消費が大きい。発車して、加速して、減速して、停車する。 それを繰り返す鉄道では、ガスタービンの長所を十分に生かしにくかったのです。そこへ追い打ちをかけたのが、 第一次オイルショック。燃料価格が高騰し、時代は一気に省エネルギーへ。燃料を大量に消費するガスタービン気動車にとって、あまりにも悪いタイミングでした。 結局キハ391系が量産されることはありませんでした。営業列車として乗客を運ぶこともありませんでした。 たった1両。営業運転、ゼロ。 それだけを見れば、「失敗した試作車」なのかもしれません。 でも本当に、そうでしょうか。...

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【国鉄名車列伝】キハ391系気動車・気動車の高速化を夢見た幻のガスタービン気動車

1972年。国鉄に、これまでの気動車とはまったく違う車両が誕生しました。 その名は「キハ391系気動車」 "ディーゼルエンジン"ではありません。 その心臓部に搭載されたのは、ガスタービンエンジン。航空機などにも使われるガスタービンを、鉄道車両の動力にしてしまおう。 今から半世紀以上も前。国鉄は、本気でそんな未来を描いていました。「非電化だから遅い」を変えたい。当時の国鉄にとって、大きな課題のひとつだったのが、非電化区間の高速化。 すでにキハ181系のような高出力の特急形気動車は登場していました。しかし、ディーゼルエンジンは出力を大きくすれば、それだけ重量も増えていきます。 もっと軽く。もっと大きな力を。 そこで国鉄が目を付けたのが、ガスタービンでした。 小型・軽量でありながら、大出力を得られる。これなら非電化区間でも、電車に負けない高速運転ができるのではないか。 そんな期待を背負って誕生したのが、キハ391系だったのです。 見た目からして、普通じゃない。キハ391系は、一見すると3両編成のように見えます。しかし実際には、3つの車体で1両を構成する連接構造。 中央の短い車体にガスタービンを搭載し、前後の車体を客室としました。車体にはアルミ合金を採用。 さらに、曲線区間を高速で通過するための車体傾斜機構まで備えていました。設計最高速度は、130km/h。 軽くして、大きな力を与えて、カーブも速く走る。 言ってしまえばキハ391系は、国鉄が考えた“非電化高速鉄道の走る実験室” だったのです。 そして、本当に走った。キハ391系は、単なる展示用の試作車ではありません。伯備線や山陰本線、田沢湖線などで実際に走行試験が行われました。 ガスタービンの性能。高速走行時の特性。そして車体傾斜。 国鉄は、この異色の気動車を使って、次世代の非電化特急を本気で模索していました。もし、この技術が実用化されていたら。全国の非電化幹線を、ガスタービン特急が130km/hで駆け抜けていた。 そんな未来も、あったのかもしれません。 しかし時代がそれを許しませんでした。 1973年、オイルショック。ガスタービンには、大きな弱点がありました。 燃費です。 小型・軽量で大出力。その反面、特に部分負荷では燃料消費が大きい。発車して、加速して、減速して、停車する。 それを繰り返す鉄道では、ガスタービンの長所を十分に生かしにくかったのです。そこへ追い打ちをかけたのが、 第一次オイルショック。燃料価格が高騰し、時代は一気に省エネルギーへ。燃料を大量に消費するガスタービン気動車にとって、あまりにも悪いタイミングでした。 結局キハ391系が量産されることはありませんでした。営業列車として乗客を運ぶこともありませんでした。 たった1両。営業運転、ゼロ。 それだけを見れば、「失敗した試作車」なのかもしれません。 でも本当に、そうでしょうか。...

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【国鉄名車列伝】JR唯一の"旧性能"新形式、クモハ84形

【国鉄名車列伝】JR唯一の"旧性能"新形式、クモハ84形

クモハ123形を国鉄屈指の魔改造車として取り上げると、この車を忘れてはならないでしょう。 1987年の国鉄分割民営化以降、JRグループ各社は数多の新形式を世に送り出しました。 そのほとんどが、新しい制御方式を備えた最新鋭の車両であったことは、言うまでもありません。 最も、たった一形式だけ。 JRになってから誕生したにもかかわらず、吊り掛け駆動の"旧性能電車"として生を受けた形式が存在します。 クモハ84形。 本日は、この妙な車両のお話を先日お届けした、クモハ123形に続けて。 ■瀬戸大橋が生んだ、ローカル線瀬戸大橋線が開業したのは、1988年3月。 それまで、本四連絡を担う鉄路を担っていたのは宇野線。 宇高連絡船と接続する本州・四国連絡の大動脈でした。 ここで本四備讃線の開通により、茶屋町~宇野間は連絡ルートから外れ、一夜にしてローカル区間へと転じます。 短距離、少輸送量に最適な車両の充当を検討することとなり、ならば1両で走れる1M方式の電車を、ということになりました。 ■種車が無かった当時、この用途にうってつけの形式がありました。 新性能荷物電車を改造した、クモハ123形。 荷物輸送廃止で余剰となった車両を旅客車に仕立て直す手法は、既に確立されていたのです。 ところが、 瀬戸大橋線開業の時点で、クモハ123形へ改造できる余剰車が無かった。 そこでJR西日本が目を付けたのが、荷物輸送廃止後も保留車として残されていた、旧性能荷物電車クモニ83形0番台。 しかもこのクモニ83形、元を辿れば72系からの改造車。 さらに遡れば、戦後の混乱期に大量投入されたあの63系に行き着きます。 63系から72系へ、72系からクモニ83形へ、そしてクモニ83形からクモハ84形へ。 実に三度の生まれ変わりを経た、筋金入りの古豪であります。 ■1988年生まれの、吊り掛け電車1988年、幡生車両所にて3両が改造。クモハ84001~003を名乗りました。 主電動機はMT40B、142kW。台車はDT13。制御方式は、当然のごとく吊り掛け駆動。 冷房装置は無く、屋根上には種車と同じグローブ型通風器が4基。 最高運転速度95km/h。 平成の足音が聞こえる時代に、これほど古風な新形式が誕生した。 JRグループにおいて、旧性能電車の新形式が起こされたのは、後にも先にもこの一例のみです。 ■装いは新しく種車の経歴を聞くに、古めかしい見た目になろうかと予測できるところ、新生・クモハ84は、それを良い意味で裏切ります。 車体塗装は黄6号を基調に、213系で採用された青26号・青23号の濃淡帯を配し、前面の帯にはV字のアクセント。...

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【国鉄名車列伝】JR唯一の"旧性能"新形式、クモハ84形

クモハ123形を国鉄屈指の魔改造車として取り上げると、この車を忘れてはならないでしょう。 1987年の国鉄分割民営化以降、JRグループ各社は数多の新形式を世に送り出しました。 そのほとんどが、新しい制御方式を備えた最新鋭の車両であったことは、言うまでもありません。 最も、たった一形式だけ。 JRになってから誕生したにもかかわらず、吊り掛け駆動の"旧性能電車"として生を受けた形式が存在します。 クモハ84形。 本日は、この妙な車両のお話を先日お届けした、クモハ123形に続けて。 ■瀬戸大橋が生んだ、ローカル線瀬戸大橋線が開業したのは、1988年3月。 それまで、本四連絡を担う鉄路を担っていたのは宇野線。 宇高連絡船と接続する本州・四国連絡の大動脈でした。 ここで本四備讃線の開通により、茶屋町~宇野間は連絡ルートから外れ、一夜にしてローカル区間へと転じます。 短距離、少輸送量に最適な車両の充当を検討することとなり、ならば1両で走れる1M方式の電車を、ということになりました。 ■種車が無かった当時、この用途にうってつけの形式がありました。 新性能荷物電車を改造した、クモハ123形。 荷物輸送廃止で余剰となった車両を旅客車に仕立て直す手法は、既に確立されていたのです。 ところが、 瀬戸大橋線開業の時点で、クモハ123形へ改造できる余剰車が無かった。 そこでJR西日本が目を付けたのが、荷物輸送廃止後も保留車として残されていた、旧性能荷物電車クモニ83形0番台。 しかもこのクモニ83形、元を辿れば72系からの改造車。 さらに遡れば、戦後の混乱期に大量投入されたあの63系に行き着きます。 63系から72系へ、72系からクモニ83形へ、そしてクモニ83形からクモハ84形へ。 実に三度の生まれ変わりを経た、筋金入りの古豪であります。 ■1988年生まれの、吊り掛け電車1988年、幡生車両所にて3両が改造。クモハ84001~003を名乗りました。 主電動機はMT40B、142kW。台車はDT13。制御方式は、当然のごとく吊り掛け駆動。 冷房装置は無く、屋根上には種車と同じグローブ型通風器が4基。 最高運転速度95km/h。 平成の足音が聞こえる時代に、これほど古風な新形式が誕生した。 JRグループにおいて、旧性能電車の新形式が起こされたのは、後にも先にもこの一例のみです。 ■装いは新しく種車の経歴を聞くに、古めかしい見た目になろうかと予測できるところ、新生・クモハ84は、それを良い意味で裏切ります。 車体塗装は黄6号を基調に、213系で採用された青26号・青23号の濃淡帯を配し、前面の帯にはV字のアクセント。...

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【国鉄名車列伝】国鉄屈指の魔改造車・クモハ123形

【国鉄名車列伝】国鉄屈指の魔改造車・クモハ123形

カネはない。新車を造る余裕もない。しかし、ローカル線を走らせる車両は必要だった。 そんな国鉄末期に誕生したのが、クモハ123形です。その正体は、最初から旅客輸送のために造られた電車ではありません。 荷物を運んでいたクモニ143形。郵便物と荷物を運んでいたクモユニ147形。そして、車両基地で電車を牽引していたクモヤ145形。 本来なら、その役目を終えた時点で廃車になっていても不思議ではなかった事業用電車たちでした。ところが国鉄は、彼らを簡単には捨てませんでした。 「荷物を運ばなくなったのなら、人を乗せればいい。」 1986年11月、国鉄の鉄道荷物輸送が大幅に廃止されると、それまで全国を走っていた荷物電車が一気に余剰となりました。 一方で、利用者の少ない電化ローカル線では、長い編成を走らせるほどの需要はない。かといって、電車を走らせなければ路線そのものが成り立たない。そこで国鉄が目を付けたのが、1両だけで走ることのできる荷物電車でした。 荷物室を撤去する。窓を開ける。乗降用の扉を取り付ける。座席、つり革、荷棚、照明を設置する。そして形式名の「クモニ」や「クモユニ」から、旅客車を示す「クモハ」へ。 こうして、昨日まで荷物を運んでいた電車は、突然ローカル線の普通列車として走り始めたのです。クモハ123形は、1986年から1988年にかけて13両が改造されました。 ■同じ形式なのに、顔も扉も窓も違うクモハ123形のおもしろさは、単なる改造車で終わらないところにあります。同じ「クモハ123形」を名乗りながら、種車が統一されていないのです。 クモニ143形から生まれた車両。クモユニ147形から生まれた車両。クモヤ145形から生まれた車両。 当然、元の車体構造も性能も異なります。そのため、前面が貫通形の車両もあれば、非貫通形の車両もある。片開き扉もあれば、両開き扉もある。窓の大きさも、扉の位置も、冷房装置も違う。もはや一つの形式というより、 「1両で走れる余剰車両を、旅客車に改造してまとめた集団」 と表現したほうが近いかもしれません。国鉄の標準化思想はどこへ行ったのか。そんな疑問さえ吹き飛ばすほど、クモハ123形は個性の塊でした。しかし、そのバラバラさこそが、この車両最大の魅力なのです。 ■元荷物電車の面影側面を眺めると、どこか普通の電車とは違う。窓が妙に少ない。扉の配置が不自然。車体の一部が埋められ、後から切り開いたような跡が残る。 旅客車として美しく整えられたというより、荷物電車の骨格を残したまま、必要な設備だけを取り付けた姿。それはまるで、作業着の上から無理やり制服を着せられた電車。けれども、決して粗末な車両だったわけではありません。 単行運転が可能な電動車であることを生かし、輸送量の少ない路線を1両で走る。必要に応じて連結し、ラッシュ時には乗客を運ぶ。 余剰車両を活用しながら、新車を投入するよりも少ない費用でローカル線の近代化を進める。見た目は強引ですが、一方で、その発想は極めて合理的でした。 ■103系のクハまで引き連れた異端児なかでも異彩を放ったのが、阪和線の羽衣支線に投入されたクモハ123-5・6です。 この2両はクモニ143形から改造され、ラッシュ時には103系の制御車を連結して運転するという、極めて珍しい運用にも対応していました。そのため、103系との連結に必要なジャンパ連結器を装備し、相手となる制御車へ冷房用電源を供給する機能まで備えていました。元荷物電車が旅客車へ改造され、さらに通勤電車の先頭車を引き連れて走る。 ここまで来ると、もはや魔改造という言葉だけでは足りません。 使えるものは、何でも使う。つなげられるものは、つないで走らせる。国鉄末期の技術者たちの執念が、そこには詰まっていました。 クモハ123形は、特急列車のように脚光を浴びた車両ではありません。 最高速度を競ったわけでもない。豪華な座席があるわけでもない。華やかな愛称もない。ただ、1両で淡々とローカル線を走り続けました。 中央本線の辰野支線。身延線。羽衣支線。可部線。宇野線。そして、宇部線・小野田線。配置された線区も、塗装も、改造内容も異なりながら、それぞれの土地で日常の足を支えてきました。2026年現在も、JR西日本に継承された車両が宇部線・小野田線で運用されています。 国鉄が消滅してから、すでに長い年月が過ぎました。それでも、かつて荷物を運んだ車体は、今も人を乗せて走っています。 ■国鉄一の魔改造車国鉄には、とんでもない経歴を持つ車両が数多く存在しました。しかし、クモハ123形ほど国鉄末期の事情を、その車体すべてで語っている車両はないのではないでしょうか。 種車はバラバラ。外観もバラバラ。扉も窓もバラバラ。けれど、その目的だけは共通していました。 ■余った車両を、もう一度走らせること昨日まで荷物を運んでいた電車に座席を置き、「今日から君は普通列車だ」と、再び本線へ送り出す。 そこにあるのは、優雅な設計思想ではありません。あるのは、カネのない国鉄が生き残るために絞り出した知恵と、車両を簡単には捨てなかった技術者たちの意地です。...

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【国鉄名車列伝】国鉄屈指の魔改造車・クモハ123形

カネはない。新車を造る余裕もない。しかし、ローカル線を走らせる車両は必要だった。 そんな国鉄末期に誕生したのが、クモハ123形です。その正体は、最初から旅客輸送のために造られた電車ではありません。 荷物を運んでいたクモニ143形。郵便物と荷物を運んでいたクモユニ147形。そして、車両基地で電車を牽引していたクモヤ145形。 本来なら、その役目を終えた時点で廃車になっていても不思議ではなかった事業用電車たちでした。ところが国鉄は、彼らを簡単には捨てませんでした。 「荷物を運ばなくなったのなら、人を乗せればいい。」 1986年11月、国鉄の鉄道荷物輸送が大幅に廃止されると、それまで全国を走っていた荷物電車が一気に余剰となりました。 一方で、利用者の少ない電化ローカル線では、長い編成を走らせるほどの需要はない。かといって、電車を走らせなければ路線そのものが成り立たない。そこで国鉄が目を付けたのが、1両だけで走ることのできる荷物電車でした。 荷物室を撤去する。窓を開ける。乗降用の扉を取り付ける。座席、つり革、荷棚、照明を設置する。そして形式名の「クモニ」や「クモユニ」から、旅客車を示す「クモハ」へ。 こうして、昨日まで荷物を運んでいた電車は、突然ローカル線の普通列車として走り始めたのです。クモハ123形は、1986年から1988年にかけて13両が改造されました。 ■同じ形式なのに、顔も扉も窓も違うクモハ123形のおもしろさは、単なる改造車で終わらないところにあります。同じ「クモハ123形」を名乗りながら、種車が統一されていないのです。 クモニ143形から生まれた車両。クモユニ147形から生まれた車両。クモヤ145形から生まれた車両。 当然、元の車体構造も性能も異なります。そのため、前面が貫通形の車両もあれば、非貫通形の車両もある。片開き扉もあれば、両開き扉もある。窓の大きさも、扉の位置も、冷房装置も違う。もはや一つの形式というより、 「1両で走れる余剰車両を、旅客車に改造してまとめた集団」 と表現したほうが近いかもしれません。国鉄の標準化思想はどこへ行ったのか。そんな疑問さえ吹き飛ばすほど、クモハ123形は個性の塊でした。しかし、そのバラバラさこそが、この車両最大の魅力なのです。 ■元荷物電車の面影側面を眺めると、どこか普通の電車とは違う。窓が妙に少ない。扉の配置が不自然。車体の一部が埋められ、後から切り開いたような跡が残る。 旅客車として美しく整えられたというより、荷物電車の骨格を残したまま、必要な設備だけを取り付けた姿。それはまるで、作業着の上から無理やり制服を着せられた電車。けれども、決して粗末な車両だったわけではありません。 単行運転が可能な電動車であることを生かし、輸送量の少ない路線を1両で走る。必要に応じて連結し、ラッシュ時には乗客を運ぶ。 余剰車両を活用しながら、新車を投入するよりも少ない費用でローカル線の近代化を進める。見た目は強引ですが、一方で、その発想は極めて合理的でした。 ■103系のクハまで引き連れた異端児なかでも異彩を放ったのが、阪和線の羽衣支線に投入されたクモハ123-5・6です。 この2両はクモニ143形から改造され、ラッシュ時には103系の制御車を連結して運転するという、極めて珍しい運用にも対応していました。そのため、103系との連結に必要なジャンパ連結器を装備し、相手となる制御車へ冷房用電源を供給する機能まで備えていました。元荷物電車が旅客車へ改造され、さらに通勤電車の先頭車を引き連れて走る。 ここまで来ると、もはや魔改造という言葉だけでは足りません。 使えるものは、何でも使う。つなげられるものは、つないで走らせる。国鉄末期の技術者たちの執念が、そこには詰まっていました。 クモハ123形は、特急列車のように脚光を浴びた車両ではありません。 最高速度を競ったわけでもない。豪華な座席があるわけでもない。華やかな愛称もない。ただ、1両で淡々とローカル線を走り続けました。 中央本線の辰野支線。身延線。羽衣支線。可部線。宇野線。そして、宇部線・小野田線。配置された線区も、塗装も、改造内容も異なりながら、それぞれの土地で日常の足を支えてきました。2026年現在も、JR西日本に継承された車両が宇部線・小野田線で運用されています。 国鉄が消滅してから、すでに長い年月が過ぎました。それでも、かつて荷物を運んだ車体は、今も人を乗せて走っています。 ■国鉄一の魔改造車国鉄には、とんでもない経歴を持つ車両が数多く存在しました。しかし、クモハ123形ほど国鉄末期の事情を、その車体すべてで語っている車両はないのではないでしょうか。 種車はバラバラ。外観もバラバラ。扉も窓もバラバラ。けれど、その目的だけは共通していました。 ■余った車両を、もう一度走らせること昨日まで荷物を運んでいた電車に座席を置き、「今日から君は普通列車だ」と、再び本線へ送り出す。 そこにあるのは、優雅な設計思想ではありません。あるのは、カネのない国鉄が生き残るために絞り出した知恵と、車両を簡単には捨てなかった技術者たちの意地です。...

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【名脇役】キハ17

【名脇役】キハ17

急行でもない。特急でもない。それでも、日本中のローカル線には、いつもこの気動車がいました。 "国鉄キハ17形" 1953年、国鉄初の本格的な液体式気動車「キハ10系」の一員として誕生したこの車両は、華々しいデビューを飾ったスターではありません。 しかし、その功績は計り知れないものがあります。それまで非電化路線の主役だった蒸気機関車を少しずつ置き換え、全国各地で無煙化を推し進めた立役者と言えるのではないでしょうか。 朝は学生を学校へ送り、昼は買い物客を町へ運び、夕方には仕事を終えた人々を家へと帰す。観光列車ではなく、毎日の「当たり前」を支え続けた列車でした。 細身の車体に170馬力のDMH17エンジン。 決して力持ちではありません。 勾配では懸命にエンジンを唸らせ、夏は窓を全開にして風を受けながら走る。全国どこへ行っても朱色のキハ17が走っていた時代がありました。 液体変速機の採用、総括制御の実用化。 後に登場するキハ20系、キハ58系、そしてキハ80系へと受け継がれていく技術の礎を築いたのも、このキハ17形でした。 言ってみれば、後の名車たちが活躍できたのは、この車両が道を切り開いたから。 スターではない。記念列車として脚光を浴びる機会も少ない。保存車も決して多くありません。 だからこそ、忘れてはいけない車両だと思うのです。 国鉄には、華やかな名車が数多く存在します。 しかし、その陰で日本中の暮らしを支え、地方の鉄道を変えた車両がいました。誰よりも働き、誰よりも人々の日常に寄り添った気動車。 "気動車の名脇役" この言葉ほど、キハ17形に似合う称号はないのではないでしょうか。 (マイミー)

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【名脇役】キハ17

急行でもない。特急でもない。それでも、日本中のローカル線には、いつもこの気動車がいました。 "国鉄キハ17形" 1953年、国鉄初の本格的な液体式気動車「キハ10系」の一員として誕生したこの車両は、華々しいデビューを飾ったスターではありません。 しかし、その功績は計り知れないものがあります。それまで非電化路線の主役だった蒸気機関車を少しずつ置き換え、全国各地で無煙化を推し進めた立役者と言えるのではないでしょうか。 朝は学生を学校へ送り、昼は買い物客を町へ運び、夕方には仕事を終えた人々を家へと帰す。観光列車ではなく、毎日の「当たり前」を支え続けた列車でした。 細身の車体に170馬力のDMH17エンジン。 決して力持ちではありません。 勾配では懸命にエンジンを唸らせ、夏は窓を全開にして風を受けながら走る。全国どこへ行っても朱色のキハ17が走っていた時代がありました。 液体変速機の採用、総括制御の実用化。 後に登場するキハ20系、キハ58系、そしてキハ80系へと受け継がれていく技術の礎を築いたのも、このキハ17形でした。 言ってみれば、後の名車たちが活躍できたのは、この車両が道を切り開いたから。 スターではない。記念列車として脚光を浴びる機会も少ない。保存車も決して多くありません。 だからこそ、忘れてはいけない車両だと思うのです。 国鉄には、華やかな名車が数多く存在します。 しかし、その陰で日本中の暮らしを支え、地方の鉄道を変えた車両がいました。誰よりも働き、誰よりも人々の日常に寄り添った気動車。 "気動車の名脇役" この言葉ほど、キハ17形に似合う称号はないのではないでしょうか。 (マイミー)

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