Mr.DIMER Journal

【一夜にして4両消えた】EF62・EF63脱線事故、その後の碓氷峠はどう回したのか

【一夜にして4両消えた】EF62・EF63脱線事故、その後の碓氷峠はどう回したのか

1975年10月28日、早朝の碓氷峠。軽井沢から横川へ向かっていた回送列車「単5462列車」が、66.7‰の下り勾配で制御を失いました。 編成はEF63 5号機・9号機、そしてEF62 12号機・35号機。4両の電気機関車だけで組まれた回送列車でした。列車は上り線第1トンネル付近で脱線し、築堤下へ転落。4両はいずれも大破し、復旧されることなく現地で解体されました。 ここで、一つの疑問が残ります。「横軽は、その後どうやって回したのか」 この事故で失われたのは、単に「機関車4両」ではありません。とりわけ深刻だったのがEF63です。当時、横川機関区にはEF63が23両在籍していました。 EF63は原則として2両1組。 横川―軽井沢間を通過する電車、客車、貨物列車、機関車列車に至るまで、峠を越える列車には欠かすことのできない専用機でした。 その23両から、5号機と9号機が一気に消えた。23両から21両へ。数字だけ見れば2両です。 しかし運用単位で見れば、ほぼ「1組」を丸ごと失ったことになります。 しかもEF63には代役がいません。 双頭連結器を備え、協調運転に対応し、急勾配を安全に下るための特殊な装備を持つEF63だからこそ、横軽の運転は成立していました。 事故後、国鉄が取れる方法は、残された21両をやり繰りすることでした。 単純計算なら、23両時代は11組を組んでも1両が残ります。事故後の21両では10組+1両。もちろん実際には検査や整備があり、全車を同時に営業へ出せるわけではありません。 だから「たった2両減った」では済まない。事故で消えた2両は、横川機関区が持っていた運用上の余裕そのものでもあったのです。それでも国鉄は横軽の運行を維持しました。 残存車をやり繰りしながら、同時にEF63の補充を進めます。 そして1976年7月。EF63 24号機と25号機が新製されました。 実はEF63の増備は、1974年に登場した22・23号機で終了する予定でした。ところが5・9号機が事故廃車となったため、その代替として24・25号機が追加製造されたのです。 つまり現在、碓氷峠鉄道文化むらで動態保存されている24号機と25号機は、あの事故がなければ誕生していなかった可能性が高い機関車なのです。 では、同時に失われたEF62はどうしたのでしょうか。こちらはEF63とは事情が違いました。 EF62は碓氷峠を越える列車の本務機として設計された機関車ですが、横軽だけでしか使えない専用機ではありません。高崎第二機関区や篠ノ井機関区に配置され、信越本線を広く走っていました。 そのため国鉄は、EF63のように同数の新車を作るのではなく、既存車の配置を動かすことで穴を埋めることができました。 事故から約1年後の1976年10月。篠ノ井機関区にいたEF62 38号機が、高崎第二機関区へ転属しています。 これは事故で失われた12号機・35号機の穴を埋めるための転配とされています。 EF63は「新製」。 EF62は「転配」。 同じ事故で2両ずつ失いながら、その後の補充方法はまったく違ったのです。 そして考えてみれば、恐ろしい話です。...

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【一夜にして4両消えた】EF62・EF63脱線事故、その後の碓氷峠はどう回したのか

1975年10月28日、早朝の碓氷峠。軽井沢から横川へ向かっていた回送列車「単5462列車」が、66.7‰の下り勾配で制御を失いました。 編成はEF63 5号機・9号機、そしてEF62 12号機・35号機。4両の電気機関車だけで組まれた回送列車でした。列車は上り線第1トンネル付近で脱線し、築堤下へ転落。4両はいずれも大破し、復旧されることなく現地で解体されました。 ここで、一つの疑問が残ります。「横軽は、その後どうやって回したのか」 この事故で失われたのは、単に「機関車4両」ではありません。とりわけ深刻だったのがEF63です。当時、横川機関区にはEF63が23両在籍していました。 EF63は原則として2両1組。 横川―軽井沢間を通過する電車、客車、貨物列車、機関車列車に至るまで、峠を越える列車には欠かすことのできない専用機でした。 その23両から、5号機と9号機が一気に消えた。23両から21両へ。数字だけ見れば2両です。 しかし運用単位で見れば、ほぼ「1組」を丸ごと失ったことになります。 しかもEF63には代役がいません。 双頭連結器を備え、協調運転に対応し、急勾配を安全に下るための特殊な装備を持つEF63だからこそ、横軽の運転は成立していました。 事故後、国鉄が取れる方法は、残された21両をやり繰りすることでした。 単純計算なら、23両時代は11組を組んでも1両が残ります。事故後の21両では10組+1両。もちろん実際には検査や整備があり、全車を同時に営業へ出せるわけではありません。 だから「たった2両減った」では済まない。事故で消えた2両は、横川機関区が持っていた運用上の余裕そのものでもあったのです。それでも国鉄は横軽の運行を維持しました。 残存車をやり繰りしながら、同時にEF63の補充を進めます。 そして1976年7月。EF63 24号機と25号機が新製されました。 実はEF63の増備は、1974年に登場した22・23号機で終了する予定でした。ところが5・9号機が事故廃車となったため、その代替として24・25号機が追加製造されたのです。 つまり現在、碓氷峠鉄道文化むらで動態保存されている24号機と25号機は、あの事故がなければ誕生していなかった可能性が高い機関車なのです。 では、同時に失われたEF62はどうしたのでしょうか。こちらはEF63とは事情が違いました。 EF62は碓氷峠を越える列車の本務機として設計された機関車ですが、横軽だけでしか使えない専用機ではありません。高崎第二機関区や篠ノ井機関区に配置され、信越本線を広く走っていました。 そのため国鉄は、EF63のように同数の新車を作るのではなく、既存車の配置を動かすことで穴を埋めることができました。 事故から約1年後の1976年10月。篠ノ井機関区にいたEF62 38号機が、高崎第二機関区へ転属しています。 これは事故で失われた12号機・35号機の穴を埋めるための転配とされています。 EF63は「新製」。 EF62は「転配」。 同じ事故で2両ずつ失いながら、その後の補充方法はまったく違ったのです。 そして考えてみれば、恐ろしい話です。...

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【なぜ電車だけでは越えられなかった】169系・189系・489系へ受け継がれた「協調運転」、碓氷峠最後の答え

【なぜ電車だけでは越えられなかった】169系・189系・489系へ受け継がれた「協調運転」、碓...

前回、EF63という碓氷峠専用機関車が、なぜあれほど特殊な装備を必要としたのかを追いました。そして、今回が碓氷峠編の最終回。最後に追うのは、EF63と電車が一体となって峠を越えた、この特殊な仕組み。「協調運転」です。 では実際、横川でEF63を連結すると、電車には何が起きていたのか。 ここを見ていくと、「協調運転」が単に機関車と電車が一緒に力を出すだけの仕組みではなかったことが分かります。まず横川でEF63重連を連結。密着連結器だけでなく、協調運転用のジャンパ連結器も接続されます。 そして電車側で「横軽協調スイッチ」を投入する。ここから、普段の169系や189系、489系とは違う状態に入ります。 まず行われるのが、空気ばねの”パンク”です。 台車の空気ばねから空気を抜き、車体をストッパゴムで支える状態にする。乗り心地のためにある空気ばねを、わざわざ殺して峠へ入るのです。 理由は66.7‰での「座屈」。 EF63が最後尾から強大な力で押すと、編成には大きな圧縮力が掛かります。空気ばねが柔らかいままだと車体が浮き上がる方向へ力が逃げ、脱線につながる恐れがある。そこで空気ばねをパンクさせ、車体と台車の動きを抑えます。 さらに非常ブレーキ回路にも細工が入ります。通常の非常ブレーキが一気に作用すると、急勾配上では編成内に大きな衝撃が生じます。そこで協調運転時には非常ブレーキの作用を絞り、急激な制動による連結器や車両への衝撃、浮き上がりを抑える仕組みが用意されていました。 ここで一つ大事なのは、空気ばねをパンクさせる処置自体は「協調運転」の機能そのものではなく、碓氷峠を安全に通過するための「横軽対策」だったことです。 協調運転に対応しない115系や185系200番台などにも横軽対策は施されました。しかし、EF63と力行・抑速まで一体で制御し、12両編成を可能にしたのが169系、489系、189系でした。 さらに編成の組み方まで峠仕様です。押し上げ時の座屈を抑えるため、重量のある電動車ユニットを峠の下側、つまり横川側に配置する。 そのため信越線用の一部電車は、他線区の同系列とは電動車ユニットの向きまで異なっていました。つまり「横軽を越えられる電車」は、制御回路だけが特殊だったわけではありません。 足回りも、ブレーキも、編成の組み方も、66.7‰に合わせ込まれていたのです。 そして、ここからが本当の「協調」です。電車側の運転士は、通常のマスコンやブレーキ操作を行いません。力行も、抑速も、EF63側から指令されます。 EF63の機関士がノッチを進めれば、EF63だけでなく電車側の主電動機も力を出す。峠を下るときは、EF63の発電ブレーキに合わせて電車側も抑速ブレーキを働かせる。 つまり12両の電車とEF63重連が、別々に走っていたのではありません。電気的につながれた、一つの巨大な「動力・制動システム」になっていたのです。 これによって、それまで最大8両だった電車は12両まで編成を延ばせました。増えた4両分の負担を、電車自身の動力にも分担させる。だから169系が必要だった。そして同じ考え方が489系、189系へ受け継がれます。 しかも横川から軽井沢へ登る列車では、EF63は最後尾。列車を操作する機関士は最後尾にいるため、前方の信号を見ることができません。そこで先頭の電車運転士が前方の信号や進路を監視し、その情報をEF63の機関士へ伝える。 「前を見ている人」と「列車を動かしている人」が別の場所にいる。 これも横軽ならではでした。169系、489系、189系。この3系列が特別だった理由は、単に「EF63と連結できた」からではありません。 横川に着くと空気ばねを落とし、制動回路を峠仕様に切り替え、ジャンパ線でEF63とつながり、自らの主電動機までEF63の指令下に入る。普段の電車が、横川で「碓氷峠を越えるための車両」へ変わっていたのです。 1893年、ラックレールと歯車で始まった碓氷峠。やがて電化され、新線が造られ、アプト式を捨て、EF63が生まれた。そして最後には、機関車だけではなく電車の足回り、制動、制御まで峠に合わせた。 1997年9月30日、横川―軽井沢間は104年の歴史に幕を下ろします。 地形を変えられないなら、鉄道の方を変える。 169系、489系、189系、そしてEF63による「協調運転」は、その104年間の試行錯誤が最後に辿り着いた、一つの完成形だったのです。 (マイミー)

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【なぜ電車だけでは越えられなかった】169系・189系・489系へ受け継がれた「協調運転」、碓...

前回、EF63という碓氷峠専用機関車が、なぜあれほど特殊な装備を必要としたのかを追いました。そして、今回が碓氷峠編の最終回。最後に追うのは、EF63と電車が一体となって峠を越えた、この特殊な仕組み。「協調運転」です。 では実際、横川でEF63を連結すると、電車には何が起きていたのか。 ここを見ていくと、「協調運転」が単に機関車と電車が一緒に力を出すだけの仕組みではなかったことが分かります。まず横川でEF63重連を連結。密着連結器だけでなく、協調運転用のジャンパ連結器も接続されます。 そして電車側で「横軽協調スイッチ」を投入する。ここから、普段の169系や189系、489系とは違う状態に入ります。 まず行われるのが、空気ばねの”パンク”です。 台車の空気ばねから空気を抜き、車体をストッパゴムで支える状態にする。乗り心地のためにある空気ばねを、わざわざ殺して峠へ入るのです。 理由は66.7‰での「座屈」。 EF63が最後尾から強大な力で押すと、編成には大きな圧縮力が掛かります。空気ばねが柔らかいままだと車体が浮き上がる方向へ力が逃げ、脱線につながる恐れがある。そこで空気ばねをパンクさせ、車体と台車の動きを抑えます。 さらに非常ブレーキ回路にも細工が入ります。通常の非常ブレーキが一気に作用すると、急勾配上では編成内に大きな衝撃が生じます。そこで協調運転時には非常ブレーキの作用を絞り、急激な制動による連結器や車両への衝撃、浮き上がりを抑える仕組みが用意されていました。 ここで一つ大事なのは、空気ばねをパンクさせる処置自体は「協調運転」の機能そのものではなく、碓氷峠を安全に通過するための「横軽対策」だったことです。 協調運転に対応しない115系や185系200番台などにも横軽対策は施されました。しかし、EF63と力行・抑速まで一体で制御し、12両編成を可能にしたのが169系、489系、189系でした。 さらに編成の組み方まで峠仕様です。押し上げ時の座屈を抑えるため、重量のある電動車ユニットを峠の下側、つまり横川側に配置する。 そのため信越線用の一部電車は、他線区の同系列とは電動車ユニットの向きまで異なっていました。つまり「横軽を越えられる電車」は、制御回路だけが特殊だったわけではありません。 足回りも、ブレーキも、編成の組み方も、66.7‰に合わせ込まれていたのです。 そして、ここからが本当の「協調」です。電車側の運転士は、通常のマスコンやブレーキ操作を行いません。力行も、抑速も、EF63側から指令されます。 EF63の機関士がノッチを進めれば、EF63だけでなく電車側の主電動機も力を出す。峠を下るときは、EF63の発電ブレーキに合わせて電車側も抑速ブレーキを働かせる。 つまり12両の電車とEF63重連が、別々に走っていたのではありません。電気的につながれた、一つの巨大な「動力・制動システム」になっていたのです。 これによって、それまで最大8両だった電車は12両まで編成を延ばせました。増えた4両分の負担を、電車自身の動力にも分担させる。だから169系が必要だった。そして同じ考え方が489系、189系へ受け継がれます。 しかも横川から軽井沢へ登る列車では、EF63は最後尾。列車を操作する機関士は最後尾にいるため、前方の信号を見ることができません。そこで先頭の電車運転士が前方の信号や進路を監視し、その情報をEF63の機関士へ伝える。 「前を見ている人」と「列車を動かしている人」が別の場所にいる。 これも横軽ならではでした。169系、489系、189系。この3系列が特別だった理由は、単に「EF63と連結できた」からではありません。 横川に着くと空気ばねを落とし、制動回路を峠仕様に切り替え、ジャンパ線でEF63とつながり、自らの主電動機までEF63の指令下に入る。普段の電車が、横川で「碓氷峠を越えるための車両」へ変わっていたのです。 1893年、ラックレールと歯車で始まった碓氷峠。やがて電化され、新線が造られ、アプト式を捨て、EF63が生まれた。そして最後には、機関車だけではなく電車の足回り、制動、制御まで峠に合わせた。 1997年9月30日、横川―軽井沢間は104年の歴史に幕を下ろします。 地形を変えられないなら、鉄道の方を変える。 169系、489系、189系、そしてEF63による「協調運転」は、その104年間の試行錯誤が最後に辿り着いた、一つの完成形だったのです。 (マイミー)

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【なぜここまで重装備だった】碓氷峠専用機EF63、66.7‰への国鉄の答え

【なぜここまで重装備だった】碓氷峠専用機EF63、66.7‰への国鉄の答え

【なぜここまで重装備だった】碓氷峠専用機EF63、66.7‰への国鉄の答え 1963年9月30日。碓氷峠から、70年間使われたアプト式が消えました。 線路中央のラックレールと機関車の歯車を噛み合わせて登る方式から、普通の鉄道と同じ、車輪とレールの粘着力だけで走る方式へ。 しかし、最大66.7‰という勾配まで消えたわけではありません。むしろ国鉄はここから、もっと難しい問題に向き合います。 どうやって登るか。 そして、それ以上にどうやって確実に止めるか。その答えとして生まれたのが、碓氷峠専用機EF63でした。 EF63の試作1号機が登場したのは1962年。翌1963年の粘着新線開業に合わせ、本格運用が始まります。 アプト式なら、機関車の歯車とラックレールが機械的に噛み合う。しかし粘着運転では、それがありません。頼れるのは鉄の車輪と鉄のレール、その接触面だけです。 雨、油、落葉、空転、滑走。 平坦線なら小さな問題でも、66.7‰では列車の安全そのものに直結します。 だからEF63は、単に「力の強い機関車」では足りませんでした。登れなければ困る。しかし、下りで止まれなければもっと危ない。 EF63は原則2両一組。そして進行方向に関係なく、常に横川側へ連結されました。 軽井沢へ向かう列車では最後尾から押し上げ、横川へ下る列車では先頭に立って列車を受け止める。ここに、この機関車の性格が表れています。 EF63には強力な"発電ブレーキ"が搭載されました。主電動機を発電機として使い、その抵抗で速度を抑える。 さらに、レールへ電磁石を吸着させ制動力を得る電磁吸着ブレーキ、速度上昇を監視する過速度検知装置など、碓氷峠だからこそ必要になった特殊装備が積み込まれました。ひとつの装置が駄目でも、次がある。 「止まらなかったら終わり」。 66.7‰を粘着運転で走るには、それほどの備えが必要だったのです。 車体重量も108t。普通なら重い車両は線路への負担になります。しかし碓氷峠では、その重さも武器でした。車輪をレールへ強く押し付け、粘着力を確保する。重量さえ性能の一部だったのです。 しかもEF63は、勾配上で停車した列車が動き出すことまで警戒していました。 転動防止ブレーキ、空転・滑走への対策、そして非常時の制動。 「走る」「止める」「止まり続ける」。平坦線では別々に考えられることまで、碓氷峠ではすべてがひとつの安全設計として結び付いていました。 ところが… ここまで安全装備を重ねたEF63でも、66.7‰の恐ろしさを完全に封じ込めることはできませんでした。 1975年10月28日。軽井沢から横川へ下っていたEF63形2両とEF62形2両の回送列車が、下り勾配で速度を抑えられなくなり暴走。列車は上り線第1トンネル付近で脱線し、4両すべてが大破しました。 営業列車ではなかったため乗客はおらず、死者も出ませんでした。しかし、「峠の番人」と呼ばれるほどの装備を持つEF63ですら、一度条件が崩れれば止められない。 この事故は、66.7‰を粘着運転で下ることの厳しさを突き付けました。事故後、安全対策はさらに強化されます。 大破したEF63 5号機・9号機は廃車となり、その補充として翌1976年に24号機・25号機が新製されました。事故は、EF63そのものの歴史にも直接刻み込まれることになります。 EF63が重装備だったのは、設計者が慎重すぎたからではありません。実際に、それだけの装備を必要とする峠だったのです。 そして特殊なのは、ブレーキだけではありません。軽井沢側には、自動連結器と密着連結器の双方に対応する双頭連結器を装備。...

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【なぜここまで重装備だった】碓氷峠専用機EF63、66.7‰への国鉄の答え

【なぜここまで重装備だった】碓氷峠専用機EF63、66.7‰への国鉄の答え 1963年9月30日。碓氷峠から、70年間使われたアプト式が消えました。 線路中央のラックレールと機関車の歯車を噛み合わせて登る方式から、普通の鉄道と同じ、車輪とレールの粘着力だけで走る方式へ。 しかし、最大66.7‰という勾配まで消えたわけではありません。むしろ国鉄はここから、もっと難しい問題に向き合います。 どうやって登るか。 そして、それ以上にどうやって確実に止めるか。その答えとして生まれたのが、碓氷峠専用機EF63でした。 EF63の試作1号機が登場したのは1962年。翌1963年の粘着新線開業に合わせ、本格運用が始まります。 アプト式なら、機関車の歯車とラックレールが機械的に噛み合う。しかし粘着運転では、それがありません。頼れるのは鉄の車輪と鉄のレール、その接触面だけです。 雨、油、落葉、空転、滑走。 平坦線なら小さな問題でも、66.7‰では列車の安全そのものに直結します。 だからEF63は、単に「力の強い機関車」では足りませんでした。登れなければ困る。しかし、下りで止まれなければもっと危ない。 EF63は原則2両一組。そして進行方向に関係なく、常に横川側へ連結されました。 軽井沢へ向かう列車では最後尾から押し上げ、横川へ下る列車では先頭に立って列車を受け止める。ここに、この機関車の性格が表れています。 EF63には強力な"発電ブレーキ"が搭載されました。主電動機を発電機として使い、その抵抗で速度を抑える。 さらに、レールへ電磁石を吸着させ制動力を得る電磁吸着ブレーキ、速度上昇を監視する過速度検知装置など、碓氷峠だからこそ必要になった特殊装備が積み込まれました。ひとつの装置が駄目でも、次がある。 「止まらなかったら終わり」。 66.7‰を粘着運転で走るには、それほどの備えが必要だったのです。 車体重量も108t。普通なら重い車両は線路への負担になります。しかし碓氷峠では、その重さも武器でした。車輪をレールへ強く押し付け、粘着力を確保する。重量さえ性能の一部だったのです。 しかもEF63は、勾配上で停車した列車が動き出すことまで警戒していました。 転動防止ブレーキ、空転・滑走への対策、そして非常時の制動。 「走る」「止める」「止まり続ける」。平坦線では別々に考えられることまで、碓氷峠ではすべてがひとつの安全設計として結び付いていました。 ところが… ここまで安全装備を重ねたEF63でも、66.7‰の恐ろしさを完全に封じ込めることはできませんでした。 1975年10月28日。軽井沢から横川へ下っていたEF63形2両とEF62形2両の回送列車が、下り勾配で速度を抑えられなくなり暴走。列車は上り線第1トンネル付近で脱線し、4両すべてが大破しました。 営業列車ではなかったため乗客はおらず、死者も出ませんでした。しかし、「峠の番人」と呼ばれるほどの装備を持つEF63ですら、一度条件が崩れれば止められない。 この事故は、66.7‰を粘着運転で下ることの厳しさを突き付けました。事故後、安全対策はさらに強化されます。 大破したEF63 5号機・9号機は廃車となり、その補充として翌1976年に24号機・25号機が新製されました。事故は、EF63そのものの歴史にも直接刻み込まれることになります。 EF63が重装備だったのは、設計者が慎重すぎたからではありません。実際に、それだけの装備を必要とする峠だったのです。 そして特殊なのは、ブレーキだけではありません。軽井沢側には、自動連結器と密着連結器の双方に対応する双頭連結器を装備。...

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【なぜこんな坂を選んだ】最大66.7‰、碓氷峠に残された唯一の答え

【なぜこんな坂を選んだ】最大66.7‰、碓氷峠に残された唯一の答え

前回、横川―軽井沢間を104年間走り続けた「横軽」の歴史を辿りました。 その中で、何度も出てきた数字があります。 最大66.7‰。 では、なぜ碓氷峠は、これほど極端な急勾配になったのでしょうか。 ■鉄道は、本来「坂を避ける」 鉄道は急な坂を嫌います。 勾配がきつくなれば、機関車が引ける列車の重量は減り、速度も落ちる。下りでは逆に、その重い列車を確実に止めなければならない。 だから山を越える鉄道では、距離を伸ばしてでも勾配を緩くするのが基本です。 山肌を回り込み、谷を避け、必要ならスイッチバックやループ線を使う。 それなのに碓氷峠は、最大66.7‰。 なぜ、こんな坂を選んだのか。 調べていくと、技術者たちが好んで急勾配を選んだわけではないことが見えてきます。 むしろ逆でした。 碓氷峠には、線路を「逃がす場所」がほとんどなかったのです。 ■勾配を緩くしたくても、線路を置けない 横川から軽井沢へ向かう碓氷峠は、深い谷と急斜面が連続します。 勾配を緩くするなら、線路を長く引き回せばいい。 理屈ではそうです。 実際、スイッチバックやループ線によって高度を稼ぐ方法も検討されました。 しかし、そのためには線路を折り返したり、大きく回り込ませたりする場所が必要になります。 碓氷峠では、それが難しかった。 右へ逃げても山。左へ逃げても谷。 距離を稼ぎたくても、その線路を置く場所そのものが限られていました。 ならば、考え方を変えるしかありません。 坂を緩くするのではなく、 「急な坂を登れる鉄道を造る」。 ここで、碓氷峠の方向性が決まります。 ■66.7‰を「消す」のではなく「登る」 採用されたのがアプト式でした。 線路中央にラックレールを敷き、機関車側の歯車を噛み合わせる。...

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【なぜこんな坂を選んだ】最大66.7‰、碓氷峠に残された唯一の答え

前回、横川―軽井沢間を104年間走り続けた「横軽」の歴史を辿りました。 その中で、何度も出てきた数字があります。 最大66.7‰。 では、なぜ碓氷峠は、これほど極端な急勾配になったのでしょうか。 ■鉄道は、本来「坂を避ける」 鉄道は急な坂を嫌います。 勾配がきつくなれば、機関車が引ける列車の重量は減り、速度も落ちる。下りでは逆に、その重い列車を確実に止めなければならない。 だから山を越える鉄道では、距離を伸ばしてでも勾配を緩くするのが基本です。 山肌を回り込み、谷を避け、必要ならスイッチバックやループ線を使う。 それなのに碓氷峠は、最大66.7‰。 なぜ、こんな坂を選んだのか。 調べていくと、技術者たちが好んで急勾配を選んだわけではないことが見えてきます。 むしろ逆でした。 碓氷峠には、線路を「逃がす場所」がほとんどなかったのです。 ■勾配を緩くしたくても、線路を置けない 横川から軽井沢へ向かう碓氷峠は、深い谷と急斜面が連続します。 勾配を緩くするなら、線路を長く引き回せばいい。 理屈ではそうです。 実際、スイッチバックやループ線によって高度を稼ぐ方法も検討されました。 しかし、そのためには線路を折り返したり、大きく回り込ませたりする場所が必要になります。 碓氷峠では、それが難しかった。 右へ逃げても山。左へ逃げても谷。 距離を稼ぎたくても、その線路を置く場所そのものが限られていました。 ならば、考え方を変えるしかありません。 坂を緩くするのではなく、 「急な坂を登れる鉄道を造る」。 ここで、碓氷峠の方向性が決まります。 ■66.7‰を「消す」のではなく「登る」 採用されたのがアプト式でした。 線路中央にラックレールを敷き、機関車側の歯車を噛み合わせる。...

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【なぜここに鉄道を通した】最大66.7‰、碓氷峠「横軽」104年の闘い

【なぜここに鉄道を通した】最大66.7‰、碓氷峠「横軽」104年の闘い

横川から軽井沢まで、わずか11kmあまり。地図だけ見れば短い距離です。 でも、実際に碓氷峠へ行くと、「よくここに鉄道を通したな」と思います。 山は深く、谷は急。横川と軽井沢の標高差は500mを超え、最大勾配は66.7‰。 鉄道にとっては、あまりにも急です。それでも1893年、横川と軽井沢の間に線路がつながりました。 ここを越えなければ、東京側から延びてきた鉄道と、長野、直江津方面へ続く鉄道が一本につながらない。 避けて通れない。なら、越えるしかない。 そのために採用されたのがアプト式でした。線路の中央に歯形のラックレールを置き、機関車側の歯車を噛ませて登る。 今見れば特殊な仕組みですが、当時はそこまでしなければ、この峠を越えることができませんでした。 26本のトンネル。18の橋梁。 今も残る「めがね橋」も、最初から観光名所として造られたわけではありません。列車を通すために必要だった。ただ、それだけです。 ところが、線路ができても苦労は終わりませんでした。蒸気機関車で峠を登れば、連続するトンネルの中に煙と煤がこもる。時間もかかる。輸送力にも限界がある。 そこで1912年には電化。さらに戦後、列車が増えれば、今度はアプト式そのものが輸送の壁になっていきました。 そして1963年。 国鉄はアプト式をやめ、新線による粘着運転へ切り替えます。 ここで登場したのがEF63でした。碓氷峠専用。ただ列車を押すための機関車ではありません。 66.7‰を登らせ、そして下り坂では、何があっても列車を止める。 横川側に連結されたEF63は、この峠を越える列車の命を預かりました。 「あさま」が横川に着く。EF63が近づいてくる。連結する。確認する。そして、峠へ向かう。 特急も、急行も、普通列車も、ここを越える列車は、横川でひと手間かけなければ先へ進めませんでした。今の感覚なら、非効率です。でも、それが横軽でした。 ホームではEF63の連結を待ち、釜めしを買う乗客がいて、やがて列車は軽井沢へ向けて動き出す。 そんな光景が、何十年も当たり前のように続いていました。 そして1997年9月30日。その日常が終わります。 最後の日も、横川ではいつものようにEF63が連結され、列車は峠へ向かいました。昨日までと同じ動き。昨日までと同じ音。 でも、その一つひとつが最後でした。 多くの人が横川に集まり、見慣れたはずの連結作業を見つめ、峠へ消えていく列車を見送りました。 翌日には長野新幹線が開業。信越本線・横川―軽井沢間は廃止されました。 1893年から104年。 最初は歯車で山に食らいつき、次に電気の力を使い、最後はEF63が列車を押し上げた。方式は何度も変わりました。 でも、横軽がやってきたことは最初から最後まで同じです。横川と軽井沢の間にある、この険しい山を越える。そのためだけに、鉄道は何度も姿を変えました。 普通なら、廃線になれば痕跡は少しずつ消えていきます。線路が剥がされ、建物がなくなり、車両も姿を消していく。でも横川は違いました。...

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【なぜここに鉄道を通した】最大66.7‰、碓氷峠「横軽」104年の闘い

横川から軽井沢まで、わずか11kmあまり。地図だけ見れば短い距離です。 でも、実際に碓氷峠へ行くと、「よくここに鉄道を通したな」と思います。 山は深く、谷は急。横川と軽井沢の標高差は500mを超え、最大勾配は66.7‰。 鉄道にとっては、あまりにも急です。それでも1893年、横川と軽井沢の間に線路がつながりました。 ここを越えなければ、東京側から延びてきた鉄道と、長野、直江津方面へ続く鉄道が一本につながらない。 避けて通れない。なら、越えるしかない。 そのために採用されたのがアプト式でした。線路の中央に歯形のラックレールを置き、機関車側の歯車を噛ませて登る。 今見れば特殊な仕組みですが、当時はそこまでしなければ、この峠を越えることができませんでした。 26本のトンネル。18の橋梁。 今も残る「めがね橋」も、最初から観光名所として造られたわけではありません。列車を通すために必要だった。ただ、それだけです。 ところが、線路ができても苦労は終わりませんでした。蒸気機関車で峠を登れば、連続するトンネルの中に煙と煤がこもる。時間もかかる。輸送力にも限界がある。 そこで1912年には電化。さらに戦後、列車が増えれば、今度はアプト式そのものが輸送の壁になっていきました。 そして1963年。 国鉄はアプト式をやめ、新線による粘着運転へ切り替えます。 ここで登場したのがEF63でした。碓氷峠専用。ただ列車を押すための機関車ではありません。 66.7‰を登らせ、そして下り坂では、何があっても列車を止める。 横川側に連結されたEF63は、この峠を越える列車の命を預かりました。 「あさま」が横川に着く。EF63が近づいてくる。連結する。確認する。そして、峠へ向かう。 特急も、急行も、普通列車も、ここを越える列車は、横川でひと手間かけなければ先へ進めませんでした。今の感覚なら、非効率です。でも、それが横軽でした。 ホームではEF63の連結を待ち、釜めしを買う乗客がいて、やがて列車は軽井沢へ向けて動き出す。 そんな光景が、何十年も当たり前のように続いていました。 そして1997年9月30日。その日常が終わります。 最後の日も、横川ではいつものようにEF63が連結され、列車は峠へ向かいました。昨日までと同じ動き。昨日までと同じ音。 でも、その一つひとつが最後でした。 多くの人が横川に集まり、見慣れたはずの連結作業を見つめ、峠へ消えていく列車を見送りました。 翌日には長野新幹線が開業。信越本線・横川―軽井沢間は廃止されました。 1893年から104年。 最初は歯車で山に食らいつき、次に電気の力を使い、最後はEF63が列車を押し上げた。方式は何度も変わりました。 でも、横軽がやってきたことは最初から最後まで同じです。横川と軽井沢の間にある、この険しい山を越える。そのためだけに、鉄道は何度も姿を変えました。 普通なら、廃線になれば痕跡は少しずつ消えていきます。線路が剥がされ、建物がなくなり、車両も姿を消していく。でも横川は違いました。...

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【鉄道を通す場所じゃない】それでも人々は碓氷峠に線路を敷いた

【鉄道を通す場所じゃない】それでも人々は碓氷峠に線路を敷いた

群馬県・横川と長野県・軽井沢。 その間、わずか11.2km。 いま地図だけを見れば、「そんな短い区間が、なぜ日本の鉄道史にこれほど名を残したのか」と思うかもしれません。 理由は単純です。ここは、鉄道を通すにはあまりにも険しかった。 横川と軽井沢の標高差は約553m。最大勾配は66.7‰。 1000m進む間に66.7m上る。 現在の鉄道でも強烈な数字ですが、これを明治の鉄道技術で越えようとしたのです。 しかも、「少し遠回りして緩い坂にしよう」では済まなかった。 東京と信越地方、さらに日本海側を結ぶ幹線を一本につなぐため、どうしても碓氷峠を越えなければならなかったのです。 1885年、鉄道は上野から横川まで到達。一方、長野側からも鉄道建設は進みました。 最後に残った壁が、横川―軽井沢間でした。 普通の機関車では、車輪とレールの摩擦だけで66.7‰を安全に上り下りするのは難しい。 そこで採用されたのが「アプト式」。線路中央に歯形のラックレールを敷き、機関車側の歯車を噛み合わせ、文字通り山をよじ登る方式です。 1893年4月1日。 ついに横川―軽井沢間が開通しました。 しかし、「開通した」の四文字では、この工事の凄まじさは伝わりません。約11.2kmの山中に、26か所のトンネルと18基の橋梁。 それまで日本の鉄道建設は、比較的平坦な場所を中心に進められていました。 碓氷峠は違った。 山を削り、岩盤を穿ち、谷を越え、レンガを積み、線路が通る場所そのものを新たに造らなければならない。 日本が、本格的な山岳鉄道建設へ踏み込んだ場所の一つでした。 象徴が、現在も残る碓氷第三橋梁、通称「めがね橋」です。 高さ約31m。4連のレンガアーチ。使用されたレンガは200万個以上ともいわれます。 今では美しい鉄道遺産として眺められるこの橋も、もともとは観光のための建造物ではありません。列車を峠の向こうへ通す。 ただそのために、明治の人々が山の中へ築いた巨大なインフラでした。 そして、苦労は線路を造ったところで終わりません。66.7‰では、登ること以上に「安全に下る」ことも難しい。 列車が加速しすぎれば、止められない。 さらに、蒸気機関車で長いトンネルを抜ければ、煤煙が乗務員を苦しめる。 線路だけではなく、「どう走らせるか」まで考えなければ、この峠は越えられなかったのです。 そのため碓氷峠では、機関車、ブレーキ、運転方法、電力設備まで、峠を越えるための独自の技術が積み重ねられていきます。 1912年には横川―軽井沢間を電化。...

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【鉄道を通す場所じゃない】それでも人々は碓氷峠に線路を敷いた

群馬県・横川と長野県・軽井沢。 その間、わずか11.2km。 いま地図だけを見れば、「そんな短い区間が、なぜ日本の鉄道史にこれほど名を残したのか」と思うかもしれません。 理由は単純です。ここは、鉄道を通すにはあまりにも険しかった。 横川と軽井沢の標高差は約553m。最大勾配は66.7‰。 1000m進む間に66.7m上る。 現在の鉄道でも強烈な数字ですが、これを明治の鉄道技術で越えようとしたのです。 しかも、「少し遠回りして緩い坂にしよう」では済まなかった。 東京と信越地方、さらに日本海側を結ぶ幹線を一本につなぐため、どうしても碓氷峠を越えなければならなかったのです。 1885年、鉄道は上野から横川まで到達。一方、長野側からも鉄道建設は進みました。 最後に残った壁が、横川―軽井沢間でした。 普通の機関車では、車輪とレールの摩擦だけで66.7‰を安全に上り下りするのは難しい。 そこで採用されたのが「アプト式」。線路中央に歯形のラックレールを敷き、機関車側の歯車を噛み合わせ、文字通り山をよじ登る方式です。 1893年4月1日。 ついに横川―軽井沢間が開通しました。 しかし、「開通した」の四文字では、この工事の凄まじさは伝わりません。約11.2kmの山中に、26か所のトンネルと18基の橋梁。 それまで日本の鉄道建設は、比較的平坦な場所を中心に進められていました。 碓氷峠は違った。 山を削り、岩盤を穿ち、谷を越え、レンガを積み、線路が通る場所そのものを新たに造らなければならない。 日本が、本格的な山岳鉄道建設へ踏み込んだ場所の一つでした。 象徴が、現在も残る碓氷第三橋梁、通称「めがね橋」です。 高さ約31m。4連のレンガアーチ。使用されたレンガは200万個以上ともいわれます。 今では美しい鉄道遺産として眺められるこの橋も、もともとは観光のための建造物ではありません。列車を峠の向こうへ通す。 ただそのために、明治の人々が山の中へ築いた巨大なインフラでした。 そして、苦労は線路を造ったところで終わりません。66.7‰では、登ること以上に「安全に下る」ことも難しい。 列車が加速しすぎれば、止められない。 さらに、蒸気機関車で長いトンネルを抜ければ、煤煙が乗務員を苦しめる。 線路だけではなく、「どう走らせるか」まで考えなければ、この峠は越えられなかったのです。 そのため碓氷峠では、機関車、ブレーキ、運転方法、電力設備まで、峠を越えるための独自の技術が積み重ねられていきます。 1912年には横川―軽井沢間を電化。...

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