Mr.DIMER Journal

【片や引退、片や現役】キハN183系とキハ185系の分かれ道

【片や引退、片や現役】キハN183系とキハ185系の分かれ道

<同じ日に走り始めた国鉄最後期の特急型気動車、北と南で別れた運命> 1986年11月1日。 国鉄最後の全国ダイヤ改正に合わせ、北海道ではキハ183系500・1500番台、いわゆる「N183系」が営業運転を開始。 そして同じ日、遠く離れた四国でも新型特急形気動車が営業運転を開始しています。 キハ185系です。 同じ国鉄。同じ1986年製。そして、奇しくも営業運転開始日まで同じ。 ところが約40年後、両者の運命には少なからぬ差が生じました。 ※本稿でいうキハ183系は北海道向けの500・1500番台を中心とし、JR九州が後年新製したキハ183系1000番台は除きます。 ■北海道へ渡った「N183系」キハ183系そのものは、1979年に試作車が登場した形式です。 しかし1986年に登場した500・1500番台は、従来車から大幅に設計を変更。 前面は貫通型となり、側面には連続窓風の処理を採用。 機関出力も引き上げられ、短編成化と高速化へ対応するなど、事実上のモデルチェンジ車となりました。 対するキハ185系も、同じく貫通型前面と連続窓風の側面を採用。 外観だけを見ても、同じ時代に生まれた車両であることが感じられます。 しかし、その設計思想には大きな違いがありました。 ■「高性能」の183、「軽量・簡素」の185北海道のキハ183系に求められたのは、広大な北海道を高速で走り抜ける性能と、厳冬期にも耐える耐寒・耐雪性能でした。 一方のキハ185系は、分割民営化後の経営基盤が弱いと予想されたJR四国を見据えて投入された車両。 製造費、燃料費、保守費を抑えることが強く意識されています。 国鉄の特急形気動車として初めて軽量ステンレス車体を採用。 短編成運転を前提として先頭車を主体とした構成とし、普通列車への転用まで考慮して1両2か所の乗降扉を備えました。 豪華さや絶対的な走行性能を追求するというより、「安く造り、安く走らせ、幅広く使える」。 後に訪れる時代を、かなり正確に先取りした車両だったと言えます。 ■そして、40年後。北海道のキハ183系は、長距離・高速運転を繰り返しながら使用されました。 加えて北海道という環境は、車両にとって決して穏やかなものではありません。 JR北海道では183系の老朽化に伴い、腐食や機器類の劣化が問題となり、後継となるキハ261系などへの置き換えを進めました。 1986年に登場したN183系も、2023年3月に定期運用を終了。 同年4月10日のラストランをもって、北海道での運行を終えています。 営業開始から約36年5か月でした。 ところが―― 同じ1986年11月1日に走り始めたキハ185系はというと、...

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【片や引退、片や現役】キハN183系とキハ185系の分かれ道

<同じ日に走り始めた国鉄最後期の特急型気動車、北と南で別れた運命> 1986年11月1日。 国鉄最後の全国ダイヤ改正に合わせ、北海道ではキハ183系500・1500番台、いわゆる「N183系」が営業運転を開始。 そして同じ日、遠く離れた四国でも新型特急形気動車が営業運転を開始しています。 キハ185系です。 同じ国鉄。同じ1986年製。そして、奇しくも営業運転開始日まで同じ。 ところが約40年後、両者の運命には少なからぬ差が生じました。 ※本稿でいうキハ183系は北海道向けの500・1500番台を中心とし、JR九州が後年新製したキハ183系1000番台は除きます。 ■北海道へ渡った「N183系」キハ183系そのものは、1979年に試作車が登場した形式です。 しかし1986年に登場した500・1500番台は、従来車から大幅に設計を変更。 前面は貫通型となり、側面には連続窓風の処理を採用。 機関出力も引き上げられ、短編成化と高速化へ対応するなど、事実上のモデルチェンジ車となりました。 対するキハ185系も、同じく貫通型前面と連続窓風の側面を採用。 外観だけを見ても、同じ時代に生まれた車両であることが感じられます。 しかし、その設計思想には大きな違いがありました。 ■「高性能」の183、「軽量・簡素」の185北海道のキハ183系に求められたのは、広大な北海道を高速で走り抜ける性能と、厳冬期にも耐える耐寒・耐雪性能でした。 一方のキハ185系は、分割民営化後の経営基盤が弱いと予想されたJR四国を見据えて投入された車両。 製造費、燃料費、保守費を抑えることが強く意識されています。 国鉄の特急形気動車として初めて軽量ステンレス車体を採用。 短編成運転を前提として先頭車を主体とした構成とし、普通列車への転用まで考慮して1両2か所の乗降扉を備えました。 豪華さや絶対的な走行性能を追求するというより、「安く造り、安く走らせ、幅広く使える」。 後に訪れる時代を、かなり正確に先取りした車両だったと言えます。 ■そして、40年後。北海道のキハ183系は、長距離・高速運転を繰り返しながら使用されました。 加えて北海道という環境は、車両にとって決して穏やかなものではありません。 JR北海道では183系の老朽化に伴い、腐食や機器類の劣化が問題となり、後継となるキハ261系などへの置き換えを進めました。 1986年に登場したN183系も、2023年3月に定期運用を終了。 同年4月10日のラストランをもって、北海道での運行を終えています。 営業開始から約36年5か月でした。 ところが―― 同じ1986年11月1日に走り始めたキハ185系はというと、...

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【逝っとけダイヤ】京急、ダイヤが乱れてからが本番です。信号テコと爆速増結の裏側

【逝っとけダイヤ】京急、ダイヤが乱れてからが本番です。信号テコと爆速増結の裏側

「え?この電車、行先変わった?」 ダイヤが大きく乱れた京急。途中駅で折り返す。行先が変わる。運転区間まで変わる。 そして、動かせる区間はできるだけ動かす。そんな独特の運転整理を、鉄道ファンはいつしか 「逝っとけダイヤ」と呼ぶようになりました。 もちろん、これは京急の正式名称ではありません。ただ、この言葉だけを見ると、 「京急って豪快だなぁ」で終わってしまう。 でも、その裏側を追っていくと見えてくるのは、むしろ逆。京急は昔から、 「どうすれば安全を確保しながら、列車を止めずに済むのか」を徹底的に考えてきた会社なのです。 時は1966年。京急は浦賀駅に、日本初となるプログラム式列車運行制御装置「PTC」を導入。 1968年には運転司令所を設置し、ATSの使用も始めました。 つまり京急は、「機械より人」だけを貫いてきた会社ではありません。 むしろ早い時期から、運行管理や保安装置の機械化を進めていました。それでも一部の重要拠点では、人間による信号扱いを長く残した。 その象徴が、金沢文庫です。車庫を併設し、列車の入出庫、増結、解結が頻繁に行われる京急屈指の運転拠点。 2016年の取材では、金沢文庫での信号テコ操作は1日約7000回と紹介されました。 では、なぜそこまで人の手を残したのか。京急側が説明した理由は明快です。 事故や輸送障害が発生した場合、「人間の柔軟な対応の方が、早期に正常運行へ戻せる」という考え方でした。 さらに、異常時だけ突然手動に戻してもダメ。日常から扱っていなければ、いざという時に十分な対応はできない。 つまり、普段の仕事そのものが、異常時にも使える技能を維持する場になっていたわけです。 そして金沢文庫には、もうひとつ京急らしい光景があります。 「増結・解結」です。 8両編成がホームに入る。そこへ4両編成が近づく。 連結。 確認。 そして12両になった列車は、何事もなかったように再び走り出す。 これが、とにかく速い。 現在の平日ダイヤでも、金沢文庫で4両を増結する列車が設定されており、列車によっては到着から発車まで2〜3分程度。 初めて見ると、「いや、もう行くんかい!」となります。 でも、もちろん勢いでやっているわけではありません。増結・解結を担う「運転主任」は、長期間運転士を経験した高い技能を持つ社員。 京急自身も、増結・解結、入換、信号扱いなどを担う存在として紹介しています。 さらに車両には電気連結器など、短時間で連結作業を行うための設備もある。人が速い。車両も応える。駅設備も、その運転を前提に整えられている。...

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【逝っとけダイヤ】京急、ダイヤが乱れてからが本番です。信号テコと爆速増結の裏側

「え?この電車、行先変わった?」 ダイヤが大きく乱れた京急。途中駅で折り返す。行先が変わる。運転区間まで変わる。 そして、動かせる区間はできるだけ動かす。そんな独特の運転整理を、鉄道ファンはいつしか 「逝っとけダイヤ」と呼ぶようになりました。 もちろん、これは京急の正式名称ではありません。ただ、この言葉だけを見ると、 「京急って豪快だなぁ」で終わってしまう。 でも、その裏側を追っていくと見えてくるのは、むしろ逆。京急は昔から、 「どうすれば安全を確保しながら、列車を止めずに済むのか」を徹底的に考えてきた会社なのです。 時は1966年。京急は浦賀駅に、日本初となるプログラム式列車運行制御装置「PTC」を導入。 1968年には運転司令所を設置し、ATSの使用も始めました。 つまり京急は、「機械より人」だけを貫いてきた会社ではありません。 むしろ早い時期から、運行管理や保安装置の機械化を進めていました。それでも一部の重要拠点では、人間による信号扱いを長く残した。 その象徴が、金沢文庫です。車庫を併設し、列車の入出庫、増結、解結が頻繁に行われる京急屈指の運転拠点。 2016年の取材では、金沢文庫での信号テコ操作は1日約7000回と紹介されました。 では、なぜそこまで人の手を残したのか。京急側が説明した理由は明快です。 事故や輸送障害が発生した場合、「人間の柔軟な対応の方が、早期に正常運行へ戻せる」という考え方でした。 さらに、異常時だけ突然手動に戻してもダメ。日常から扱っていなければ、いざという時に十分な対応はできない。 つまり、普段の仕事そのものが、異常時にも使える技能を維持する場になっていたわけです。 そして金沢文庫には、もうひとつ京急らしい光景があります。 「増結・解結」です。 8両編成がホームに入る。そこへ4両編成が近づく。 連結。 確認。 そして12両になった列車は、何事もなかったように再び走り出す。 これが、とにかく速い。 現在の平日ダイヤでも、金沢文庫で4両を増結する列車が設定されており、列車によっては到着から発車まで2〜3分程度。 初めて見ると、「いや、もう行くんかい!」となります。 でも、もちろん勢いでやっているわけではありません。増結・解結を担う「運転主任」は、長期間運転士を経験した高い技能を持つ社員。 京急自身も、増結・解結、入換、信号扱いなどを担う存在として紹介しています。 さらに車両には電気連結器など、短時間で連結作業を行うための設備もある。人が速い。車両も応える。駅設備も、その運転を前提に整えられている。...

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【経営上の重荷?】3島会社に“プレゼント”された国鉄最後の新車

【経営上の重荷?】3島会社に“プレゼント”された国鉄最後の新車

<新車を貰ったのに、減価償却費で苦しんだ――は本当か> 国鉄分割民営化を目前に控えた1986~1987年。 北海道・四国・九州には、新形式車両が相次いで投入されました。 北海道・四国向けのキハ54形。九州向けのキハ31形。四国向けの121系、キハ32形。 そして、四国には特急形のキハ185系も登場しています。 キハ185系に至っては、JR四国発足のわずか5か月ほど前となる1986年11月に営業運転を開始した車両でした。 なぜ国鉄は、民営化直前になってこれほど新車を投入したのでしょうか。 背景にあったのが、分割民営化後の「三島会社」経営問題です。 北海道・四国・九州は、本州3社に比べて輸送密度の低い路線を多く抱え、発足当初から厳しい経営が予想されていました。 ただでさえ苦しい会社へ、老朽車ばかりを渡せば、JR発足後すぐに多額の車両更新費が必要となります。 ならば国鉄のうちに新車を造り、少しでも良好な状態で新会社へ引き渡しておこう――。 いわば、三島会社への“置き土産”でした。 ところが、この新車群を導入することについて、 「新車を大量に渡されたことで、三島会社は高額な固定資産を抱え、かえって減価償却費に苦しむことになった」 という言説があります。 確かに、理屈だけを考えれば成立します。 例えば製造されたばかりのキハ185系なら、未償却の資産価額は当然大きい。 それをJR四国が引き継げば、以後長期間にわたって減価償却費が計上されます。 プレゼントのつもりが、実は会計上の“重荷”だった――。 なんとも皮肉な話に見えてしまう。 しかし、国鉄改革ではそこまで単純な処理は行われていませんでした。 三島会社には、「収益調整価格」と呼ばれた特殊な資産評価が用いられていたのです。 国土交通省が後年、国鉄改革時の資産評価について確認した記録があります。 そこでは、 三島会社は収益力が低く、国鉄時代の簿価のまま資産を引き継いだのでは、減価償却費すら賄えない状況だった。 そこで、実際に必要となる管理費や将来の更新費などを勘案し、それに見合うよう資産価額を逆算した―― と説明されています。 つまり三島会社は、国鉄から渡された車両や施設を、単純に従来の帳簿価額そのままで背負ったわけではありません。 会社の収益力を考慮したうえで、減価償却負担まで含めて資産価額が調整されていたのです。 さらに三島会社には、国鉄の長期債務を原則として承継させず、経営安定基金も設定されました。...

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【経営上の重荷?】3島会社に“プレゼント”された国鉄最後の新車

<新車を貰ったのに、減価償却費で苦しんだ――は本当か> 国鉄分割民営化を目前に控えた1986~1987年。 北海道・四国・九州には、新形式車両が相次いで投入されました。 北海道・四国向けのキハ54形。九州向けのキハ31形。四国向けの121系、キハ32形。 そして、四国には特急形のキハ185系も登場しています。 キハ185系に至っては、JR四国発足のわずか5か月ほど前となる1986年11月に営業運転を開始した車両でした。 なぜ国鉄は、民営化直前になってこれほど新車を投入したのでしょうか。 背景にあったのが、分割民営化後の「三島会社」経営問題です。 北海道・四国・九州は、本州3社に比べて輸送密度の低い路線を多く抱え、発足当初から厳しい経営が予想されていました。 ただでさえ苦しい会社へ、老朽車ばかりを渡せば、JR発足後すぐに多額の車両更新費が必要となります。 ならば国鉄のうちに新車を造り、少しでも良好な状態で新会社へ引き渡しておこう――。 いわば、三島会社への“置き土産”でした。 ところが、この新車群を導入することについて、 「新車を大量に渡されたことで、三島会社は高額な固定資産を抱え、かえって減価償却費に苦しむことになった」 という言説があります。 確かに、理屈だけを考えれば成立します。 例えば製造されたばかりのキハ185系なら、未償却の資産価額は当然大きい。 それをJR四国が引き継げば、以後長期間にわたって減価償却費が計上されます。 プレゼントのつもりが、実は会計上の“重荷”だった――。 なんとも皮肉な話に見えてしまう。 しかし、国鉄改革ではそこまで単純な処理は行われていませんでした。 三島会社には、「収益調整価格」と呼ばれた特殊な資産評価が用いられていたのです。 国土交通省が後年、国鉄改革時の資産評価について確認した記録があります。 そこでは、 三島会社は収益力が低く、国鉄時代の簿価のまま資産を引き継いだのでは、減価償却費すら賄えない状況だった。 そこで、実際に必要となる管理費や将来の更新費などを勘案し、それに見合うよう資産価額を逆算した―― と説明されています。 つまり三島会社は、国鉄から渡された車両や施設を、単純に従来の帳簿価額そのままで背負ったわけではありません。 会社の収益力を考慮したうえで、減価償却負担まで含めて資産価額が調整されていたのです。 さらに三島会社には、国鉄の長期債務を原則として承継させず、経営安定基金も設定されました。...

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【なぜダボダボ?】鉄道車両の通称「ダボ幌」とは…

【なぜダボダボ?】鉄道車両の通称「ダボ幌」とは…

<鉄道車両の顔に見られる、妙に膨らんだ“アレ”> 先頭部の貫通幌が妙にダボダボと膨らんでいる車両を見かけることがあります。 きれいな蛇腹状ではなく、左右へ広がったり、一部分だけ前へ飛び出したり。 鉄道趣味の世界では、こうした幌を俗に「ダボ幌」「ダボホロ」と呼ぶことがあります。(私は"ぼわぼわの幌"と呼んでましたが) そもそも貫通幌とは、車両同士を連結した際、車両間を安全に行き来できる通路をつくるためのもの。 内部には幌の形状を保持する骨組みがあり、これを折り畳むことで、使用しない際には車体側へ収めることができます。 ところが長年使用していると、この骨組みが少しずつ変形。 幌布にも折り癖が付き、収納しても新品時のように整然とは畳まれなくなります。 その結果―― 幌が左右へ膨らみ、いかにも「ダボッ」とした姿になるというわけです。 単なる経年変化の結果ですが、しかし、くたびれて不揃いになった幌は、長年現場で使われ続けた車両ならではの表情とも言え、これもまた乙なもの。 編集長的ザ・ベストな"ダボ幌"は。 JR北海道の721系。 ダボ幌自体は、日本全国で見られる現象ですが、特に北海道車は大きく膨らんだ幌を持っている印象です。 はて、酷寒地だからこそ、幌を劣化させる要素が揃っているのか… それはそうと、整然としていないからこそ、一両一両で微妙に表情が異なる。 鉄道車両の「顔」を眺めるとき、そんな幌の形にも注目してみてはいかがでしょうか。 (Mr.DIMER編集長)

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<鉄道車両の顔に見られる、妙に膨らんだ“アレ”> 先頭部の貫通幌が妙にダボダボと膨らんでいる車両を見かけることがあります。 きれいな蛇腹状ではなく、左右へ広がったり、一部分だけ前へ飛び出したり。 鉄道趣味の世界では、こうした幌を俗に「ダボ幌」「ダボホロ」と呼ぶことがあります。(私は"ぼわぼわの幌"と呼んでましたが) そもそも貫通幌とは、車両同士を連結した際、車両間を安全に行き来できる通路をつくるためのもの。 内部には幌の形状を保持する骨組みがあり、これを折り畳むことで、使用しない際には車体側へ収めることができます。 ところが長年使用していると、この骨組みが少しずつ変形。 幌布にも折り癖が付き、収納しても新品時のように整然とは畳まれなくなります。 その結果―― 幌が左右へ膨らみ、いかにも「ダボッ」とした姿になるというわけです。 単なる経年変化の結果ですが、しかし、くたびれて不揃いになった幌は、長年現場で使われ続けた車両ならではの表情とも言え、これもまた乙なもの。 編集長的ザ・ベストな"ダボ幌"は。 JR北海道の721系。 ダボ幌自体は、日本全国で見られる現象ですが、特に北海道車は大きく膨らんだ幌を持っている印象です。 はて、酷寒地だからこそ、幌を劣化させる要素が揃っているのか… それはそうと、整然としていないからこそ、一両一両で微妙に表情が異なる。 鉄道車両の「顔」を眺めるとき、そんな幌の形にも注目してみてはいかがでしょうか。 (Mr.DIMER編集長)

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【お尋ね】JR東日本通勤電車のスカートは、なぜ”グレー”から”黒”になった?

【お尋ね】JR東日本通勤電車のスカートは、なぜ”グレー”から”黒”になった?

鉄道車両の前面下部に取り付けられている、障害物を排除するための「スカート」。 JR東日本の通勤・一般形電車を眺めていると、いつの間にやら、このスカートの”色”が変わっていることに気付きます。 E231系、E233系などでは、車体下部にグレー・シルバー系のスカートを装着していました。 ところが、2015年に登場したE235系では、これが黒色へ。 そして2021年に営業運転を開始したE131系でも、黒いスカートが採用されています。 単なるデザインの変化かと思いきや、気になる資料がありました。 2020年5月、JR東日本がE131系の投入を発表した際に掲載された完成イメージを見ると、スカートは”グレー”で表現。 ところが実際に落成したE131系では、ご存知の通り黒色となりました。 つまり少なくともE131系では、発表時点から実車の完成までの間に、スカートの色が変更されたことになります。 JR東日本はE235系について、大きな前面窓などを「情報の窓」とするデザインコンセプトを説明。 E131系についても、房総の海をイメージした青色、菜の花をイメージした黄色、波しぶきを表現した前面の水玉模様など、その意匠について細かく説明しています。 ところが―― “なぜスカートを黒くしたのか” については、調べた限り明確な説明を見つけることができませんでした。 ブラックフェイスから床下までを一体的に見せるためなのか。 汚れを目立たせないためなのか。 あるいは保守上、塗装上の理由があるのか。 それとも、E235系以降の新しい車両デザインとして、単純に黒色が選ばれているだけなのか。 とりわけ、一度は”グレー”で描かれたE131系が、なぜ実車では”黒”になったのでしょう。 この変更について、事情をご存知の諸先輩方。 是非、教えて下さい。 (Mr.DIMER編集長)

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【お尋ね】JR東日本通勤電車のスカートは、なぜ”グレー”から”黒”になった?

鉄道車両の前面下部に取り付けられている、障害物を排除するための「スカート」。 JR東日本の通勤・一般形電車を眺めていると、いつの間にやら、このスカートの”色”が変わっていることに気付きます。 E231系、E233系などでは、車体下部にグレー・シルバー系のスカートを装着していました。 ところが、2015年に登場したE235系では、これが黒色へ。 そして2021年に営業運転を開始したE131系でも、黒いスカートが採用されています。 単なるデザインの変化かと思いきや、気になる資料がありました。 2020年5月、JR東日本がE131系の投入を発表した際に掲載された完成イメージを見ると、スカートは”グレー”で表現。 ところが実際に落成したE131系では、ご存知の通り黒色となりました。 つまり少なくともE131系では、発表時点から実車の完成までの間に、スカートの色が変更されたことになります。 JR東日本はE235系について、大きな前面窓などを「情報の窓」とするデザインコンセプトを説明。 E131系についても、房総の海をイメージした青色、菜の花をイメージした黄色、波しぶきを表現した前面の水玉模様など、その意匠について細かく説明しています。 ところが―― “なぜスカートを黒くしたのか” については、調べた限り明確な説明を見つけることができませんでした。 ブラックフェイスから床下までを一体的に見せるためなのか。 汚れを目立たせないためなのか。 あるいは保守上、塗装上の理由があるのか。 それとも、E235系以降の新しい車両デザインとして、単純に黒色が選ばれているだけなのか。 とりわけ、一度は”グレー”で描かれたE131系が、なぜ実車では”黒”になったのでしょう。 この変更について、事情をご存知の諸先輩方。 是非、教えて下さい。 (Mr.DIMER編集長)

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宇野線の栄華と衰退

宇野線の栄華と衰退

<かつては本四の大動脈。瀬戸大橋が、その使命を変えた> 岡山駅から瀬戸内海に面する宇野駅へ。 現在では「宇野みなと線」の愛称を持ち、地域輸送を担う宇野線ですが、かつて、この路線には現在からは想像しにくいほどの重要な役割が与えられていました。 本州と四国を結ぶ、大動脈です。 宇野線が開業したのは1910年6月12日。 同日、宇野―高松間には国鉄の「宇高連絡船」が就航しました。 岡山から宇野まで列車で南下し、宇野から船で瀬戸内海を渡り、高松から再び列車へ。 こうして宇野線は、本州と四国を結ぶ鉄道ネットワークの一部を担うことになります。 その地位は戦後、さらに高まることとなります。 関西方面からは四国連絡急行「鷲羽」が宇野まで乗り入れ、最盛期には定期・臨時を合わせて実に11往復を数えています。 さらに東京からも、寝台特急「瀬戸」が宇野へ。 地方都市へ向かう一ローカル線ではありません。 宇野駅は「終着駅」でありながら、その先に四国全土を控えた巨大な乗換駅でもあったのです。 しかし、その栄華には二度の転機が訪れます。 まずは1972年。 山陽新幹線が岡山まで開業すると、関西方面から宇野まで直通する列車の意義が薄れ、急行「鷲羽」は大幅に縮小。 長距離輸送の主役は「大阪から宇野へ直通」する形から、「新幹線で岡山へ向かい、宇野線へ乗り換える」形へと変化しました。 そして決定打となったのが、1988年4月10日の瀬戸大橋開業です。 岡山から茶屋町を経て、児島、瀬戸大橋、坂出へ。 本州と四国は、ついに一本のレールで結ばれました。 同時に宇高連絡船はその役目を終え、東京―宇野間を走っていた寝台特急「瀬戸」も、瀬戸大橋を渡って高松へ直通。 四国へ向かう列車は茶屋町から宇野へ向かわず、児島方面へ進むようになります。 昨日まで四国への大動脈だった茶屋町―宇野間は、一夜にして本四連絡の主役から退きました。 これは、"宇野線"そのものが廃れたというよりも、「より便利な鉄道ができた結果、鉄道の役割が失われた」という、"進化の過程で生まれた"、「衰退」でもあります。 現在の宇野駅に、かつてのような、東京から寝台特急が到着することはありません。 しかし宇野線は消えず、2016年には「宇野みなと線」の愛称が与えられ、瀬戸内観光へのアクセス路線として新たな役割を担っています。 四国への玄関口から、瀬戸内の港町へ向かう路線へ。 宇野線ほど、交通網の変化によってその立場を劇的に変えた路線も、そう多くはないでしょう。 (Mr.DIMER編集長)

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<かつては本四の大動脈。瀬戸大橋が、その使命を変えた> 岡山駅から瀬戸内海に面する宇野駅へ。 現在では「宇野みなと線」の愛称を持ち、地域輸送を担う宇野線ですが、かつて、この路線には現在からは想像しにくいほどの重要な役割が与えられていました。 本州と四国を結ぶ、大動脈です。 宇野線が開業したのは1910年6月12日。 同日、宇野―高松間には国鉄の「宇高連絡船」が就航しました。 岡山から宇野まで列車で南下し、宇野から船で瀬戸内海を渡り、高松から再び列車へ。 こうして宇野線は、本州と四国を結ぶ鉄道ネットワークの一部を担うことになります。 その地位は戦後、さらに高まることとなります。 関西方面からは四国連絡急行「鷲羽」が宇野まで乗り入れ、最盛期には定期・臨時を合わせて実に11往復を数えています。 さらに東京からも、寝台特急「瀬戸」が宇野へ。 地方都市へ向かう一ローカル線ではありません。 宇野駅は「終着駅」でありながら、その先に四国全土を控えた巨大な乗換駅でもあったのです。 しかし、その栄華には二度の転機が訪れます。 まずは1972年。 山陽新幹線が岡山まで開業すると、関西方面から宇野まで直通する列車の意義が薄れ、急行「鷲羽」は大幅に縮小。 長距離輸送の主役は「大阪から宇野へ直通」する形から、「新幹線で岡山へ向かい、宇野線へ乗り換える」形へと変化しました。 そして決定打となったのが、1988年4月10日の瀬戸大橋開業です。 岡山から茶屋町を経て、児島、瀬戸大橋、坂出へ。 本州と四国は、ついに一本のレールで結ばれました。 同時に宇高連絡船はその役目を終え、東京―宇野間を走っていた寝台特急「瀬戸」も、瀬戸大橋を渡って高松へ直通。 四国へ向かう列車は茶屋町から宇野へ向かわず、児島方面へ進むようになります。 昨日まで四国への大動脈だった茶屋町―宇野間は、一夜にして本四連絡の主役から退きました。 これは、"宇野線"そのものが廃れたというよりも、「より便利な鉄道ができた結果、鉄道の役割が失われた」という、"進化の過程で生まれた"、「衰退」でもあります。 現在の宇野駅に、かつてのような、東京から寝台特急が到着することはありません。 しかし宇野線は消えず、2016年には「宇野みなと線」の愛称が与えられ、瀬戸内観光へのアクセス路線として新たな役割を担っています。 四国への玄関口から、瀬戸内の港町へ向かう路線へ。 宇野線ほど、交通網の変化によってその立場を劇的に変えた路線も、そう多くはないでしょう。 (Mr.DIMER編集長)

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