Mr.DIMER Journal
ATO車に混ざって“手動運転”で切り抜けた103系のお話(後編)
<切り抜けられなかった老朽化> ■地下鉄線内で発生した車両故障 2012年7月、唐人町駅に停車した103系1500番台で車両故障が発生しました。 4号車の床下から火花と煙が出ているとの通報があり、乗客を降ろして営業運転を打ち切りました。 調査の結果、主制御器内のタイマーリレーが誤作動し、減流抵抗器が焦損したことが判明。 JR九州は、103系18両の関係部品を交換する対策を実施しました。 列車を容易に退避させられない地下鉄では、一編成の故障が路線全体へ波及しかねません。 この一件は、地下鉄へ乗り入れる経年車の信頼性という問題を浮き彫りにすることとなりました。 ■305系投入で地下鉄から撤退 その後JR九州は、バリアフリー性や快適性、環境性能の向上を掲げ、新型車両305系の投入を発表します。 305系は2015年に営業運転を開始。 ATOを搭載し、地下鉄線内でのワンマン運転やホームドアとの連動に対応しました。 同年3月までに6両編成6本が揃い、103系1500番台は地下鉄直通運用から撤退しました。 ■103系の現在 ただし、103系1500番台そのものが全廃されたわけではありません。 3両編成は筑前前原―西唐津間に残り、地下鉄へ乗り入れない地域輸送へ活路を移しました。 103系は、ATOを持たないという装備上の見劣りを抱えながらも、およそ30年間にわたり直通運転を続けました。 しかし、東京臨海高速鉄道70-000形の譲受車による置換えが決まり、103系1500番台はいよいよ終幕へ向かいつつあります。 一方、2023年には登場40周年を記念し、デビュー当時の国鉄色を復刻した編成も登場、話題を集めていますが引退は必至。 ときに。実現が“難しいこと”は重々承知していますが。 最後に一度、福岡市地下鉄線内を走る姿を見たいところ。 (Mr.DIMER編集長)
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<切り抜けられなかった老朽化> ■地下鉄線内で発生した車両故障 2012年7月、唐人町駅に停車した103系1500番台で車両故障が発生しました。 4号車の床下から火花と煙が出ているとの通報があり、乗客を降ろして営業運転を打ち切りました。 調査の結果、主制御器内のタイマーリレーが誤作動し、減流抵抗器が焦損したことが判明。 JR九州は、103系18両の関係部品を交換する対策を実施しました。 列車を容易に退避させられない地下鉄では、一編成の故障が路線全体へ波及しかねません。 この一件は、地下鉄へ乗り入れる経年車の信頼性という問題を浮き彫りにすることとなりました。 ■305系投入で地下鉄から撤退 その後JR九州は、バリアフリー性や快適性、環境性能の向上を掲げ、新型車両305系の投入を発表します。 305系は2015年に営業運転を開始。 ATOを搭載し、地下鉄線内でのワンマン運転やホームドアとの連動に対応しました。 同年3月までに6両編成6本が揃い、103系1500番台は地下鉄直通運用から撤退しました。 ■103系の現在 ただし、103系1500番台そのものが全廃されたわけではありません。 3両編成は筑前前原―西唐津間に残り、地下鉄へ乗り入れない地域輸送へ活路を移しました。 103系は、ATOを持たないという装備上の見劣りを抱えながらも、およそ30年間にわたり直通運転を続けました。 しかし、東京臨海高速鉄道70-000形の譲受車による置換えが決まり、103系1500番台はいよいよ終幕へ向かいつつあります。 一方、2023年には登場40周年を記念し、デビュー当時の国鉄色を復刻した編成も登場、話題を集めていますが引退は必至。 ときに。実現が“難しいこと”は重々承知していますが。 最後に一度、福岡市地下鉄線内を走る姿を見たいところ。 (Mr.DIMER編集長)
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ATO車に混ざって“手動運転”で切り抜けた103系のお話(前編)
<最新鋭の地下鉄に現れた“旧世代”の新車> ■“型落ち”だった新製車 1983年、筑肥線は姪浜―唐津間の電化と同時に、福岡市地下鉄との相互直通運転を開始しました。 これに合わせて国鉄が投入したのが、103系1500番台です。 当時はすでに201系が登場し、地下鉄直通用の203系も営業運転を始めていた時代。 それでも国鉄は、実績のある103系を新製しました。 筑肥線では高価な省エネルギー車を投入しても、首都圏ほど大きな効果を得にくかったことに加え、当時の国鉄は深刻な財政難にありました。 1500番台は、車体こそ201系に近い新設計とされたものの、走行機器には従来の103系を踏襲。 抵抗制御やコイルばね台車を採用しました。 また、福岡市1000系とは異なり、ATOも搭載されませんでした。 対する福岡市交通局の1000系は、電機子チョッパ制御、空気ばね台車、ATOを備えた最新鋭車。 同じ直通運転のために用意された両者には、登場時から明確な技術格差があったのです。 ■103系だけが“手動運転” 福岡市地下鉄では、筑肥線との直通開始から約10か月後となる1984年1月20日、ATOを使用したワンマン運転が始まりました。 ところがATOを持たない103系は、地下鉄線内でも運転士が手動で操縦。 さらに車掌も乗務するツーマン運転を続けました。 2000年に登場したJR九州303系もATOを搭載していたため、やがて地下鉄へ乗り入れる車両のなかで、103系だけが手動運転という異質な存在となります。 ■地下鉄側が抱えた“例外” ホームドアの設置後も、103系は車両扉とホームドアの連動に対応できませんでした。 そこで空港線ではホームドアの開口幅を広く取り、手動運転による停止位置の許容範囲を拡大。 103系の列車では、車掌がホームドアを個別に操作しました。 つまり、103系が最新の地下鉄システムへ適応したのではなく、地下鉄側が手動運転、ツーマン乗務、個別のホームドア操作という例外を設け、ATOを持たない103系を受け入れたのです。 こうして103系1500番台は、ATO車に混ざりながら、手動運転のまま地下鉄直通を続けました。 しかし、運転方式の違いは補えても、車両に進行する老朽化までは補い切れませんでした。 <後編>に続きます。 (Mr.DIMER編集長)
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<最新鋭の地下鉄に現れた“旧世代”の新車> ■“型落ち”だった新製車 1983年、筑肥線は姪浜―唐津間の電化と同時に、福岡市地下鉄との相互直通運転を開始しました。 これに合わせて国鉄が投入したのが、103系1500番台です。 当時はすでに201系が登場し、地下鉄直通用の203系も営業運転を始めていた時代。 それでも国鉄は、実績のある103系を新製しました。 筑肥線では高価な省エネルギー車を投入しても、首都圏ほど大きな効果を得にくかったことに加え、当時の国鉄は深刻な財政難にありました。 1500番台は、車体こそ201系に近い新設計とされたものの、走行機器には従来の103系を踏襲。 抵抗制御やコイルばね台車を採用しました。 また、福岡市1000系とは異なり、ATOも搭載されませんでした。 対する福岡市交通局の1000系は、電機子チョッパ制御、空気ばね台車、ATOを備えた最新鋭車。 同じ直通運転のために用意された両者には、登場時から明確な技術格差があったのです。 ■103系だけが“手動運転” 福岡市地下鉄では、筑肥線との直通開始から約10か月後となる1984年1月20日、ATOを使用したワンマン運転が始まりました。 ところがATOを持たない103系は、地下鉄線内でも運転士が手動で操縦。 さらに車掌も乗務するツーマン運転を続けました。 2000年に登場したJR九州303系もATOを搭載していたため、やがて地下鉄へ乗り入れる車両のなかで、103系だけが手動運転という異質な存在となります。 ■地下鉄側が抱えた“例外” ホームドアの設置後も、103系は車両扉とホームドアの連動に対応できませんでした。 そこで空港線ではホームドアの開口幅を広く取り、手動運転による停止位置の許容範囲を拡大。 103系の列車では、車掌がホームドアを個別に操作しました。 つまり、103系が最新の地下鉄システムへ適応したのではなく、地下鉄側が手動運転、ツーマン乗務、個別のホームドア操作という例外を設け、ATOを持たない103系を受け入れたのです。 こうして103系1500番台は、ATO車に混ざりながら、手動運転のまま地下鉄直通を続けました。 しかし、運転方式の違いは補えても、車両に進行する老朽化までは補い切れませんでした。 <後編>に続きます。 (Mr.DIMER編集長)
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2つの"1500番台"引退への足音(103系/415系)
JR九州には現在、国鉄時代に生まれた2つの「1500番台」が残っています。 103系1500番台と、415系1500番台です。 両者の「1500」に直接の関係はありません。 しかし偶然にも、いずれも国鉄末期に登場し、JR九州へ継承され、そして今、相次いで終幕を迎えようとしています。 103系1500番台が製造されたのは1982年。 翌1983年に実施される筑肥線電化と福岡市地下鉄への直通運転に備え、6両編成9本、計54両が新製されました。 「103系」とはいうものの、従来車とは大きく異なる前面形状を持ち、地下鉄直通にも対応。 後年は303系、305系の登場によって地下鉄乗り入れから撤退し、現在は3両編成5本が筑前前原-西唐津間を中心に最後の活躍を続けています。 一方の415系1500番台は1986年に登場。 鋼製車体だった従来の415系から一転、211系に類似したステンレス車体を採用した、いわば415系の最終進化形でした。 九州にも国鉄時代から配置され、鋼製の415系が次々と姿を消していくなか、最後まで生き残ったのが、この1500番台です。 そんな2形式にも、ついに明確な「後継車」が示されました。 103系を置き換えるのは、東京臨海高速鉄道70-000形を改造する「307系」。 2027年春から2両編成5本が筑肥線へ投入され、103系5編成は定期運行を終了します。 そして415系には、JR東日本から譲り受けたE501系を改造した「501系」が登場。 2028年春から下関-小倉間へ投入され、415系を置き換える計画です。 昭和に生まれた2つの「1500番台」を送り出すのは、平成に生まれ、別の土地で一度役目を終えた車両たちです。 103系1500番台は車齢40年を超え、415系1500番台も間もなく40年。 偶然同じ番号を与えられ、国鉄からJR九州へ渡った2つの「1500番台」。 その長い歴史が、わずか1年違いで相次いで閉じられようとしています。 (Mr.DIMER編集長)
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JR九州には現在、国鉄時代に生まれた2つの「1500番台」が残っています。 103系1500番台と、415系1500番台です。 両者の「1500」に直接の関係はありません。 しかし偶然にも、いずれも国鉄末期に登場し、JR九州へ継承され、そして今、相次いで終幕を迎えようとしています。 103系1500番台が製造されたのは1982年。 翌1983年に実施される筑肥線電化と福岡市地下鉄への直通運転に備え、6両編成9本、計54両が新製されました。 「103系」とはいうものの、従来車とは大きく異なる前面形状を持ち、地下鉄直通にも対応。 後年は303系、305系の登場によって地下鉄乗り入れから撤退し、現在は3両編成5本が筑前前原-西唐津間を中心に最後の活躍を続けています。 一方の415系1500番台は1986年に登場。 鋼製車体だった従来の415系から一転、211系に類似したステンレス車体を採用した、いわば415系の最終進化形でした。 九州にも国鉄時代から配置され、鋼製の415系が次々と姿を消していくなか、最後まで生き残ったのが、この1500番台です。 そんな2形式にも、ついに明確な「後継車」が示されました。 103系を置き換えるのは、東京臨海高速鉄道70-000形を改造する「307系」。 2027年春から2両編成5本が筑肥線へ投入され、103系5編成は定期運行を終了します。 そして415系には、JR東日本から譲り受けたE501系を改造した「501系」が登場。 2028年春から下関-小倉間へ投入され、415系を置き換える計画です。 昭和に生まれた2つの「1500番台」を送り出すのは、平成に生まれ、別の土地で一度役目を終えた車両たちです。 103系1500番台は車齢40年を超え、415系1500番台も間もなく40年。 偶然同じ番号を与えられ、国鉄からJR九州へ渡った2つの「1500番台」。 その長い歴史が、わずか1年違いで相次いで閉じられようとしています。 (Mr.DIMER編集長)
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【片や引退、片や現役】キハN183系とキハ185系の分かれ道
<同じ日に走り始めた国鉄最後期の特急型気動車、北と南で別れた運命> 1986年11月1日。 国鉄最後の全国ダイヤ改正に合わせ、北海道ではキハ183系500・1500番台、いわゆる「N183系」が営業運転を開始。 そして同じ日、遠く離れた四国でも新型特急形気動車が営業運転を開始しています。 キハ185系です。 同じ国鉄。同じ1986年製。そして、奇しくも営業運転開始日まで同じ。 ところが約40年後、両者の運命には少なからぬ差が生じました。 ※本稿でいうキハ183系は北海道向けの500・1500番台を中心とし、JR九州が後年新製したキハ183系1000番台は除きます。 ■北海道へ渡った「N183系」キハ183系そのものは、1979年に試作車が登場した形式です。 しかし1986年に登場した500・1500番台は、従来車から大幅に設計を変更。 前面は貫通型となり、側面には連続窓風の処理を採用。 機関出力も引き上げられ、短編成化と高速化へ対応するなど、事実上のモデルチェンジ車となりました。 対するキハ185系も、同じく貫通型前面と連続窓風の側面を採用。 外観だけを見ても、同じ時代に生まれた車両であることが感じられます。 しかし、その設計思想には大きな違いがありました。 ■「高性能」の183、「軽量・簡素」の185北海道のキハ183系に求められたのは、広大な北海道を高速で走り抜ける性能と、厳冬期にも耐える耐寒・耐雪性能でした。 一方のキハ185系は、分割民営化後の経営基盤が弱いと予想されたJR四国を見据えて投入された車両。 製造費、燃料費、保守費を抑えることが強く意識されています。 国鉄の特急形気動車として初めて軽量ステンレス車体を採用。 短編成運転を前提として先頭車を主体とした構成とし、普通列車への転用まで考慮して1両2か所の乗降扉を備えました。 豪華さや絶対的な走行性能を追求するというより、「安く造り、安く走らせ、幅広く使える」。 後に訪れる時代を、かなり正確に先取りした車両だったと言えます。 ■そして、40年後。北海道のキハ183系は、長距離・高速運転を繰り返しながら使用されました。 加えて北海道という環境は、車両にとって決して穏やかなものではありません。 JR北海道では183系の老朽化に伴い、腐食や機器類の劣化が問題となり、後継となるキハ261系などへの置き換えを進めました。 1986年に登場したN183系も、2023年3月に定期運用を終了。 同年4月10日のラストランをもって、北海道での運行を終えています。 営業開始から約36年5か月でした。 ところが―― 同じ1986年11月1日に走り始めたキハ185系はというと、...
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<同じ日に走り始めた国鉄最後期の特急型気動車、北と南で別れた運命> 1986年11月1日。 国鉄最後の全国ダイヤ改正に合わせ、北海道ではキハ183系500・1500番台、いわゆる「N183系」が営業運転を開始。 そして同じ日、遠く離れた四国でも新型特急形気動車が営業運転を開始しています。 キハ185系です。 同じ国鉄。同じ1986年製。そして、奇しくも営業運転開始日まで同じ。 ところが約40年後、両者の運命には少なからぬ差が生じました。 ※本稿でいうキハ183系は北海道向けの500・1500番台を中心とし、JR九州が後年新製したキハ183系1000番台は除きます。 ■北海道へ渡った「N183系」キハ183系そのものは、1979年に試作車が登場した形式です。 しかし1986年に登場した500・1500番台は、従来車から大幅に設計を変更。 前面は貫通型となり、側面には連続窓風の処理を採用。 機関出力も引き上げられ、短編成化と高速化へ対応するなど、事実上のモデルチェンジ車となりました。 対するキハ185系も、同じく貫通型前面と連続窓風の側面を採用。 外観だけを見ても、同じ時代に生まれた車両であることが感じられます。 しかし、その設計思想には大きな違いがありました。 ■「高性能」の183、「軽量・簡素」の185北海道のキハ183系に求められたのは、広大な北海道を高速で走り抜ける性能と、厳冬期にも耐える耐寒・耐雪性能でした。 一方のキハ185系は、分割民営化後の経営基盤が弱いと予想されたJR四国を見据えて投入された車両。 製造費、燃料費、保守費を抑えることが強く意識されています。 国鉄の特急形気動車として初めて軽量ステンレス車体を採用。 短編成運転を前提として先頭車を主体とした構成とし、普通列車への転用まで考慮して1両2か所の乗降扉を備えました。 豪華さや絶対的な走行性能を追求するというより、「安く造り、安く走らせ、幅広く使える」。 後に訪れる時代を、かなり正確に先取りした車両だったと言えます。 ■そして、40年後。北海道のキハ183系は、長距離・高速運転を繰り返しながら使用されました。 加えて北海道という環境は、車両にとって決して穏やかなものではありません。 JR北海道では183系の老朽化に伴い、腐食や機器類の劣化が問題となり、後継となるキハ261系などへの置き換えを進めました。 1986年に登場したN183系も、2023年3月に定期運用を終了。 同年4月10日のラストランをもって、北海道での運行を終えています。 営業開始から約36年5か月でした。 ところが―― 同じ1986年11月1日に走り始めたキハ185系はというと、...
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【逝っとけダイヤ】京急、ダイヤが乱れてからが本番です。信号テコと爆速増結の裏側
「え?この電車、行先変わった?」 ダイヤが大きく乱れた京急。途中駅で折り返す。行先が変わる。運転区間まで変わる。 そして、動かせる区間はできるだけ動かす。そんな独特の運転整理を、鉄道ファンはいつしか 「逝っとけダイヤ」と呼ぶようになりました。 もちろん、これは京急の正式名称ではありません。ただ、この言葉だけを見ると、 「京急って豪快だなぁ」で終わってしまう。 でも、その裏側を追っていくと見えてくるのは、むしろ逆。京急は昔から、 「どうすれば安全を確保しながら、列車を止めずに済むのか」を徹底的に考えてきた会社なのです。 時は1966年。京急は浦賀駅に、日本初となるプログラム式列車運行制御装置「PTC」を導入。 1968年には運転司令所を設置し、ATSの使用も始めました。 つまり京急は、「機械より人」だけを貫いてきた会社ではありません。 むしろ早い時期から、運行管理や保安装置の機械化を進めていました。それでも一部の重要拠点では、人間による信号扱いを長く残した。 その象徴が、金沢文庫です。車庫を併設し、列車の入出庫、増結、解結が頻繁に行われる京急屈指の運転拠点。 2016年の取材では、金沢文庫での信号テコ操作は1日約7000回と紹介されました。 では、なぜそこまで人の手を残したのか。京急側が説明した理由は明快です。 事故や輸送障害が発生した場合、「人間の柔軟な対応の方が、早期に正常運行へ戻せる」という考え方でした。 さらに、異常時だけ突然手動に戻してもダメ。日常から扱っていなければ、いざという時に十分な対応はできない。 つまり、普段の仕事そのものが、異常時にも使える技能を維持する場になっていたわけです。 そして金沢文庫には、もうひとつ京急らしい光景があります。 「増結・解結」です。 8両編成がホームに入る。そこへ4両編成が近づく。 連結。 確認。 そして12両になった列車は、何事もなかったように再び走り出す。 これが、とにかく速い。 現在の平日ダイヤでも、金沢文庫で4両を増結する列車が設定されており、列車によっては到着から発車まで2〜3分程度。 初めて見ると、「いや、もう行くんかい!」となります。 でも、もちろん勢いでやっているわけではありません。増結・解結を担う「運転主任」は、長期間運転士を経験した高い技能を持つ社員。 京急自身も、増結・解結、入換、信号扱いなどを担う存在として紹介しています。 さらに車両には電気連結器など、短時間で連結作業を行うための設備もある。人が速い。車両も応える。駅設備も、その運転を前提に整えられている。...
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「え?この電車、行先変わった?」 ダイヤが大きく乱れた京急。途中駅で折り返す。行先が変わる。運転区間まで変わる。 そして、動かせる区間はできるだけ動かす。そんな独特の運転整理を、鉄道ファンはいつしか 「逝っとけダイヤ」と呼ぶようになりました。 もちろん、これは京急の正式名称ではありません。ただ、この言葉だけを見ると、 「京急って豪快だなぁ」で終わってしまう。 でも、その裏側を追っていくと見えてくるのは、むしろ逆。京急は昔から、 「どうすれば安全を確保しながら、列車を止めずに済むのか」を徹底的に考えてきた会社なのです。 時は1966年。京急は浦賀駅に、日本初となるプログラム式列車運行制御装置「PTC」を導入。 1968年には運転司令所を設置し、ATSの使用も始めました。 つまり京急は、「機械より人」だけを貫いてきた会社ではありません。 むしろ早い時期から、運行管理や保安装置の機械化を進めていました。それでも一部の重要拠点では、人間による信号扱いを長く残した。 その象徴が、金沢文庫です。車庫を併設し、列車の入出庫、増結、解結が頻繁に行われる京急屈指の運転拠点。 2016年の取材では、金沢文庫での信号テコ操作は1日約7000回と紹介されました。 では、なぜそこまで人の手を残したのか。京急側が説明した理由は明快です。 事故や輸送障害が発生した場合、「人間の柔軟な対応の方が、早期に正常運行へ戻せる」という考え方でした。 さらに、異常時だけ突然手動に戻してもダメ。日常から扱っていなければ、いざという時に十分な対応はできない。 つまり、普段の仕事そのものが、異常時にも使える技能を維持する場になっていたわけです。 そして金沢文庫には、もうひとつ京急らしい光景があります。 「増結・解結」です。 8両編成がホームに入る。そこへ4両編成が近づく。 連結。 確認。 そして12両になった列車は、何事もなかったように再び走り出す。 これが、とにかく速い。 現在の平日ダイヤでも、金沢文庫で4両を増結する列車が設定されており、列車によっては到着から発車まで2〜3分程度。 初めて見ると、「いや、もう行くんかい!」となります。 でも、もちろん勢いでやっているわけではありません。増結・解結を担う「運転主任」は、長期間運転士を経験した高い技能を持つ社員。 京急自身も、増結・解結、入換、信号扱いなどを担う存在として紹介しています。 さらに車両には電気連結器など、短時間で連結作業を行うための設備もある。人が速い。車両も応える。駅設備も、その運転を前提に整えられている。...
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【経営上の重荷?】3島会社に“プレゼント”された国鉄最後の新車
<新車を貰ったのに、減価償却費で苦しんだ――は本当か> 国鉄分割民営化を目前に控えた1986~1987年。 北海道・四国・九州には、新形式車両が相次いで投入されました。 北海道・四国向けのキハ54形。九州向けのキハ31形。四国向けの121系、キハ32形。 そして、四国には特急形のキハ185系も登場しています。 キハ185系に至っては、JR四国発足のわずか5か月ほど前となる1986年11月に営業運転を開始した車両でした。 なぜ国鉄は、民営化直前になってこれほど新車を投入したのでしょうか。 背景にあったのが、分割民営化後の「三島会社」経営問題です。 北海道・四国・九州は、本州3社に比べて輸送密度の低い路線を多く抱え、発足当初から厳しい経営が予想されていました。 ただでさえ苦しい会社へ、老朽車ばかりを渡せば、JR発足後すぐに多額の車両更新費が必要となります。 ならば国鉄のうちに新車を造り、少しでも良好な状態で新会社へ引き渡しておこう――。 いわば、三島会社への“置き土産”でした。 ところが、この新車群を導入することについて、 「新車を大量に渡されたことで、三島会社は高額な固定資産を抱え、かえって減価償却費に苦しむことになった」 という言説があります。 確かに、理屈だけを考えれば成立します。 例えば製造されたばかりのキハ185系なら、未償却の資産価額は当然大きい。 それをJR四国が引き継げば、以後長期間にわたって減価償却費が計上されます。 プレゼントのつもりが、実は会計上の“重荷”だった――。 なんとも皮肉な話に見えてしまう。 しかし、国鉄改革ではそこまで単純な処理は行われていませんでした。 三島会社には、「収益調整価格」と呼ばれた特殊な資産評価が用いられていたのです。 国土交通省が後年、国鉄改革時の資産評価について確認した記録があります。 そこでは、 三島会社は収益力が低く、国鉄時代の簿価のまま資産を引き継いだのでは、減価償却費すら賄えない状況だった。 そこで、実際に必要となる管理費や将来の更新費などを勘案し、それに見合うよう資産価額を逆算した―― と説明されています。 つまり三島会社は、国鉄から渡された車両や施設を、単純に従来の帳簿価額そのままで背負ったわけではありません。 会社の収益力を考慮したうえで、減価償却負担まで含めて資産価額が調整されていたのです。 さらに三島会社には、国鉄の長期債務を原則として承継させず、経営安定基金も設定されました。...
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<新車を貰ったのに、減価償却費で苦しんだ――は本当か> 国鉄分割民営化を目前に控えた1986~1987年。 北海道・四国・九州には、新形式車両が相次いで投入されました。 北海道・四国向けのキハ54形。九州向けのキハ31形。四国向けの121系、キハ32形。 そして、四国には特急形のキハ185系も登場しています。 キハ185系に至っては、JR四国発足のわずか5か月ほど前となる1986年11月に営業運転を開始した車両でした。 なぜ国鉄は、民営化直前になってこれほど新車を投入したのでしょうか。 背景にあったのが、分割民営化後の「三島会社」経営問題です。 北海道・四国・九州は、本州3社に比べて輸送密度の低い路線を多く抱え、発足当初から厳しい経営が予想されていました。 ただでさえ苦しい会社へ、老朽車ばかりを渡せば、JR発足後すぐに多額の車両更新費が必要となります。 ならば国鉄のうちに新車を造り、少しでも良好な状態で新会社へ引き渡しておこう――。 いわば、三島会社への“置き土産”でした。 ところが、この新車群を導入することについて、 「新車を大量に渡されたことで、三島会社は高額な固定資産を抱え、かえって減価償却費に苦しむことになった」 という言説があります。 確かに、理屈だけを考えれば成立します。 例えば製造されたばかりのキハ185系なら、未償却の資産価額は当然大きい。 それをJR四国が引き継げば、以後長期間にわたって減価償却費が計上されます。 プレゼントのつもりが、実は会計上の“重荷”だった――。 なんとも皮肉な話に見えてしまう。 しかし、国鉄改革ではそこまで単純な処理は行われていませんでした。 三島会社には、「収益調整価格」と呼ばれた特殊な資産評価が用いられていたのです。 国土交通省が後年、国鉄改革時の資産評価について確認した記録があります。 そこでは、 三島会社は収益力が低く、国鉄時代の簿価のまま資産を引き継いだのでは、減価償却費すら賄えない状況だった。 そこで、実際に必要となる管理費や将来の更新費などを勘案し、それに見合うよう資産価額を逆算した―― と説明されています。 つまり三島会社は、国鉄から渡された車両や施設を、単純に従来の帳簿価額そのままで背負ったわけではありません。 会社の収益力を考慮したうえで、減価償却負担まで含めて資産価額が調整されていたのです。 さらに三島会社には、国鉄の長期債務を原則として承継させず、経営安定基金も設定されました。...
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