Mr.DIMER Journal

【国鉄名車列伝】JR唯一の"旧性能"新形式、クモハ84形

【国鉄名車列伝】JR唯一の"旧性能"新形式、クモハ84形

クモハ123形を国鉄屈指の魔改造車として取り上げると、この車を忘れてはならないでしょう。 1987年の国鉄分割民営化以降、JRグループ各社は数多の新形式を世に送り出しました。 そのほとんどが、新しい制御方式を備えた最新鋭の車両であったことは、言うまでもありません。 最も、たった一形式だけ。 JRになってから誕生したにもかかわらず、吊り掛け駆動の"旧性能電車"として生を受けた形式が存在します。 クモハ84形。 本日は、この妙な車両のお話を先日お届けした、クモハ123形に続けて。 ■瀬戸大橋が生んだ、ローカル線瀬戸大橋線が開業したのは、1988年3月。 それまで、本四連絡を担う鉄路を担っていたのは宇野線。 宇高連絡船と接続する本州・四国連絡の大動脈でした。 ここで本四備讃線の開通により、茶屋町~宇野間は連絡ルートから外れ、一夜にしてローカル区間へと転じます。 短距離、少輸送量に最適な車両の充当を検討することとなり、ならば1両で走れる1M方式の電車を、ということになりました。 ■種車が無かった当時、この用途にうってつけの形式がありました。 新性能荷物電車を改造した、クモハ123形。 荷物輸送廃止で余剰となった車両を旅客車に仕立て直す手法は、既に確立されていたのです。 ところが、 瀬戸大橋線開業の時点で、クモハ123形へ改造できる余剰車が無かった。 そこでJR西日本が目を付けたのが、荷物輸送廃止後も保留車として残されていた、旧性能荷物電車クモニ83形0番台。 しかもこのクモニ83形、元を辿れば72系からの改造車。 さらに遡れば、戦後の混乱期に大量投入されたあの63系に行き着きます。 63系から72系へ、72系からクモニ83形へ、そしてクモニ83形からクモハ84形へ。 実に三度の生まれ変わりを経た、筋金入りの古豪であります。 ■1988年生まれの、吊り掛け電車1988年、幡生車両所にて3両が改造。クモハ84001~003を名乗りました。 主電動機はMT40B、142kW。台車はDT13。制御方式は、当然のごとく吊り掛け駆動。 冷房装置は無く、屋根上には種車と同じグローブ型通風器が4基。 最高運転速度95km/h。 平成の足音が聞こえる時代に、これほど古風な新形式が誕生した。 JRグループにおいて、旧性能電車の新形式が起こされたのは、後にも先にもこの一例のみです。 ■装いは新しく種車の経歴を聞くに、古めかしい見た目になろうかと予測できるところ、新生・クモハ84は、それを良い意味で裏切ります。 車体塗装は黄6号を基調に、213系で採用された青26号・青23号の濃淡帯を配し、前面の帯にはV字のアクセント。...

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【国鉄名車列伝】JR唯一の"旧性能"新形式、クモハ84形

クモハ123形を国鉄屈指の魔改造車として取り上げると、この車を忘れてはならないでしょう。 1987年の国鉄分割民営化以降、JRグループ各社は数多の新形式を世に送り出しました。 そのほとんどが、新しい制御方式を備えた最新鋭の車両であったことは、言うまでもありません。 最も、たった一形式だけ。 JRになってから誕生したにもかかわらず、吊り掛け駆動の"旧性能電車"として生を受けた形式が存在します。 クモハ84形。 本日は、この妙な車両のお話を先日お届けした、クモハ123形に続けて。 ■瀬戸大橋が生んだ、ローカル線瀬戸大橋線が開業したのは、1988年3月。 それまで、本四連絡を担う鉄路を担っていたのは宇野線。 宇高連絡船と接続する本州・四国連絡の大動脈でした。 ここで本四備讃線の開通により、茶屋町~宇野間は連絡ルートから外れ、一夜にしてローカル区間へと転じます。 短距離、少輸送量に最適な車両の充当を検討することとなり、ならば1両で走れる1M方式の電車を、ということになりました。 ■種車が無かった当時、この用途にうってつけの形式がありました。 新性能荷物電車を改造した、クモハ123形。 荷物輸送廃止で余剰となった車両を旅客車に仕立て直す手法は、既に確立されていたのです。 ところが、 瀬戸大橋線開業の時点で、クモハ123形へ改造できる余剰車が無かった。 そこでJR西日本が目を付けたのが、荷物輸送廃止後も保留車として残されていた、旧性能荷物電車クモニ83形0番台。 しかもこのクモニ83形、元を辿れば72系からの改造車。 さらに遡れば、戦後の混乱期に大量投入されたあの63系に行き着きます。 63系から72系へ、72系からクモニ83形へ、そしてクモニ83形からクモハ84形へ。 実に三度の生まれ変わりを経た、筋金入りの古豪であります。 ■1988年生まれの、吊り掛け電車1988年、幡生車両所にて3両が改造。クモハ84001~003を名乗りました。 主電動機はMT40B、142kW。台車はDT13。制御方式は、当然のごとく吊り掛け駆動。 冷房装置は無く、屋根上には種車と同じグローブ型通風器が4基。 最高運転速度95km/h。 平成の足音が聞こえる時代に、これほど古風な新形式が誕生した。 JRグループにおいて、旧性能電車の新形式が起こされたのは、後にも先にもこの一例のみです。 ■装いは新しく種車の経歴を聞くに、古めかしい見た目になろうかと予測できるところ、新生・クモハ84は、それを良い意味で裏切ります。 車体塗装は黄6号を基調に、213系で採用された青26号・青23号の濃淡帯を配し、前面の帯にはV字のアクセント。...

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【お盆特別連載】時代を生き抜いた鉄道車両

【お盆特別連載】時代を生き抜いた鉄道車両

みなさま、第二次世界大戦の終結から、80余年。 あの戦争では、日本の鉄道にも容赦なく戦火が降り注ぎました。 駅が焼けた。線路が断たれた。そして、毎日のように人々を運んでいた鉄道車両もまた、戦火の中に置かれました。 それでも...生き残った車両があります。 傷を負いながら修復され、再び鉄路へ戻った車両。 焼け残った台枠や部品を利用し、姿を変えながら戦後の輸送を支えた車両。 そして、戦火を生き抜き、80余年を経た現在まで、その歴史を私たちに伝えている車両。 Mr.DIMERでは、このお盆期間。いつもとは少し違った角度から、あの時代の鉄道に目を向けます。マイミーのお盆連載特集。 「時代を生き抜いた鉄道車両」 史実をもとに、一両一両の車両が戦時下で何を経験し、終戦後の混乱と復興の中で、日本の鉄道がどのように姿を変えていったのか。鉄道という視点から、80余年前の日本を3部作で辿っていきます。 本連載の執筆にあたっては、戦災によって被害を受けられた多くの先人の方々に、改めて敬意と感謝を捧げるとともに、犠牲となられた方々へ深い哀悼の意を込めて、筆を進めてまいります。 そして、戦争を賛美することも、特定の思想や立場に寄ることもありません。 残された記録と史実。そして、鉄道車両が辿ったその後の歩み。それらを通して、あの時代に何が起きていたのかを、静かに見つめていきたいと思います。 (マイミー)

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【お盆特別連載】時代を生き抜いた鉄道車両

みなさま、第二次世界大戦の終結から、80余年。 あの戦争では、日本の鉄道にも容赦なく戦火が降り注ぎました。 駅が焼けた。線路が断たれた。そして、毎日のように人々を運んでいた鉄道車両もまた、戦火の中に置かれました。 それでも...生き残った車両があります。 傷を負いながら修復され、再び鉄路へ戻った車両。 焼け残った台枠や部品を利用し、姿を変えながら戦後の輸送を支えた車両。 そして、戦火を生き抜き、80余年を経た現在まで、その歴史を私たちに伝えている車両。 Mr.DIMERでは、このお盆期間。いつもとは少し違った角度から、あの時代の鉄道に目を向けます。マイミーのお盆連載特集。 「時代を生き抜いた鉄道車両」 史実をもとに、一両一両の車両が戦時下で何を経験し、終戦後の混乱と復興の中で、日本の鉄道がどのように姿を変えていったのか。鉄道という視点から、80余年前の日本を3部作で辿っていきます。 本連載の執筆にあたっては、戦災によって被害を受けられた多くの先人の方々に、改めて敬意と感謝を捧げるとともに、犠牲となられた方々へ深い哀悼の意を込めて、筆を進めてまいります。 そして、戦争を賛美することも、特定の思想や立場に寄ることもありません。 残された記録と史実。そして、鉄道車両が辿ったその後の歩み。それらを通して、あの時代に何が起きていたのかを、静かに見つめていきたいと思います。 (マイミー)

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【新幹線を作った昭和日本の心意気 Vol.3】それでも造ると言った人々

【新幹線を作った昭和日本の心意気 Vol.3】それでも造ると言った人々

新幹線を語る上で、避けて通れぬ二人の名があります。 十河信二氏と、島秀雄氏。 第3回は、この二人のお話。 ■七十一歳の、総裁十河信二氏が国鉄総裁に就任したのは、1955年(昭和30年)。 このとき、七十一歳。 およそ新規事業を興す年齢ではありません。 されど十河氏は、就任するや、東海道の抜本的輸送力増強、すなわち広軌新線の建設へと動き出します。 ■招かれた技師長十河氏がまず行ったのが、島秀雄氏の招聘でした。 島氏は国鉄出身の卓越した技術者ながら、1951年、事情あって国鉄を離れた民間人。 十河氏はこれを再度招き、国鉄技師長の座に据えます。 島秀雄という人は、戦前から動力分散方式、すなわち編成の各車に動力を持たせる"電車方式"の優位を理解していた、当時としては例外的な技術者でした。 1950年に開発された80系は、短距離向けと見られていた電車が長距離運転にも適することを実証し、その後の国鉄の方向性を決定づけています。 十河氏が政治を、島氏が技術を担う。 新幹線計画は、この分業によって進みます。 ■世界銀行という"外堀"もっとも、最大の難関は資金と、政治でした。 1961年5月1日、国鉄は世界銀行より8,000万ドルの融資を受けます。 当時は1ドル360円の固定相場制。 この融資には、資金調達以上の意味がありました。 国際的な借款を得たことで、新幹線計画は日本の国家的プロジェクトとなり、国内の事情によって中断することが許されなくなったのです。 "外堀を、自ら埋めた" なお、この借款は1981年、完済されています。 ■そして、二人は開業を見なかった総工費は、当初の見積もりから膨れ上がり、最終的に3,800億円。 そもそも国会での承認を得るため安く見積もっていたこと、地価の高騰、そして新幹線に集中するため地方路線建設の陳情を蹴り、議員の不興を買っていたことも重なり、国会で責任問題へと発展します。 十河氏は、新幹線開業を前に、国鉄総裁を退任。 島氏もまた、十河氏に殉じる形で、国鉄を去りました。 1964年10月1日。 開業の日、二人は、その場にいなかったのです。 されど、あの日走った0系電車は、紛れもなく島秀雄が構想した動力分散方式であり、その線路は、十河信二が政治生命を賭して通したものでした。 次回Vol.4は、「安全という思想」。 なぜ新幹線は、これほど安全なのか。その設計思想を辿ります。...

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【新幹線を作った昭和日本の心意気 Vol.3】それでも造ると言った人々

新幹線を語る上で、避けて通れぬ二人の名があります。 十河信二氏と、島秀雄氏。 第3回は、この二人のお話。 ■七十一歳の、総裁十河信二氏が国鉄総裁に就任したのは、1955年(昭和30年)。 このとき、七十一歳。 およそ新規事業を興す年齢ではありません。 されど十河氏は、就任するや、東海道の抜本的輸送力増強、すなわち広軌新線の建設へと動き出します。 ■招かれた技師長十河氏がまず行ったのが、島秀雄氏の招聘でした。 島氏は国鉄出身の卓越した技術者ながら、1951年、事情あって国鉄を離れた民間人。 十河氏はこれを再度招き、国鉄技師長の座に据えます。 島秀雄という人は、戦前から動力分散方式、すなわち編成の各車に動力を持たせる"電車方式"の優位を理解していた、当時としては例外的な技術者でした。 1950年に開発された80系は、短距離向けと見られていた電車が長距離運転にも適することを実証し、その後の国鉄の方向性を決定づけています。 十河氏が政治を、島氏が技術を担う。 新幹線計画は、この分業によって進みます。 ■世界銀行という"外堀"もっとも、最大の難関は資金と、政治でした。 1961年5月1日、国鉄は世界銀行より8,000万ドルの融資を受けます。 当時は1ドル360円の固定相場制。 この融資には、資金調達以上の意味がありました。 国際的な借款を得たことで、新幹線計画は日本の国家的プロジェクトとなり、国内の事情によって中断することが許されなくなったのです。 "外堀を、自ら埋めた" なお、この借款は1981年、完済されています。 ■そして、二人は開業を見なかった総工費は、当初の見積もりから膨れ上がり、最終的に3,800億円。 そもそも国会での承認を得るため安く見積もっていたこと、地価の高騰、そして新幹線に集中するため地方路線建設の陳情を蹴り、議員の不興を買っていたことも重なり、国会で責任問題へと発展します。 十河氏は、新幹線開業を前に、国鉄総裁を退任。 島氏もまた、十河氏に殉じる形で、国鉄を去りました。 1964年10月1日。 開業の日、二人は、その場にいなかったのです。 されど、あの日走った0系電車は、紛れもなく島秀雄が構想した動力分散方式であり、その線路は、十河信二が政治生命を賭して通したものでした。 次回Vol.4は、「安全という思想」。 なぜ新幹線は、これほど安全なのか。その設計思想を辿ります。...

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【灯火類の位置は同じだけど…】5cm腰高な711系を113系と比較します

【灯火類の位置は同じだけど…】5cm腰高な711系を113系と比較します

【特集、去り行く東海顔 vol.19】"日本初の量産交流近郊形電車"711系の中でお伝えした、 "711系は5cm腰高"の件。 本回では、ベースとなる東海顔の基本、113系と711系の正面を比較してみることにしました。 確かに、床面が上がっている分、前面窓、幌枠、種別表示器がかさ上げされている一方で、前照灯、尾灯は、それまでの東海顔の規定と同様。 これにより、北海道唯一の東海顔は、北海道唯一にして、北海道独自仕様の"東海顔"となっていることが分かります。 (Mr.DIMER編集長)

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【灯火類の位置は同じだけど…】5cm腰高な711系を113系と比較します

【特集、去り行く東海顔 vol.19】"日本初の量産交流近郊形電車"711系の中でお伝えした、 "711系は5cm腰高"の件。 本回では、ベースとなる東海顔の基本、113系と711系の正面を比較してみることにしました。 確かに、床面が上がっている分、前面窓、幌枠、種別表示器がかさ上げされている一方で、前照灯、尾灯は、それまでの東海顔の規定と同様。 これにより、北海道唯一の東海顔は、北海道唯一にして、北海道独自仕様の"東海顔"となっていることが分かります。 (Mr.DIMER編集長)

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【JR九州特集・D&S列車編 Vol.5】キハ185系気動車・特急「A列車で行こう」

【JR九州特集・D&S列車編 Vol.5】キハ185系気動車・特急「A列車で行こう」

ジャズを聴きながら、天草へ。国鉄型キハ185系が纏う“大人の旅” 特急「A列車で行こう」 列車の中に、バーがある。窓の向こうには有明海。車内にはジャズ。 そして、その洒落た空間を走らせているのは ”国鉄生まれのキハ185系”です。 熊本から三角へ。 黒と金を纏った観光特急「A列車で行こう」。 派手な速さも、長い走行距離もありません。でも、この列車には、乗った瞬間から旅を変えてしまう“空気”があります。 「国鉄型が、大人の観光列車へ。」 ベースとなったキハ185系は、1986年に国鉄が四国向けに投入した特急形気動車。分割民営化を目前に、軽量なステンレス車体を採用して登場した、国鉄末期を象徴する形式のひとつです。その後、一部がJR九州へ渡り、九州横断特急などで活躍。 そして2011年。まさかの“大変身”を遂げます。 黒とゴールドの車体。木をふんだんに使った車内。ステンドグラス。そして、バーカウンター。 あの合理的な国鉄型気動車が、ここまで色気のある列車になるとは。鉄道車両の第二の人生って、本当に面白いですね。 「“A”に込められた意味。」 列車名は、ジャズの名曲「A列車で行こう」にちなんだもの。 さらに「A」には、Amakusa――天草。Adult――大人。2つの意味が込められています。 列車のテーマは「大人の旅」。 外観は、16世紀の大航海時代のヨーロッパ文化と、古き良き天草をイメージしたもの。かつて南蛮文化が渡来した天草へ向かう列車だからこそ、この少し異国情緒のある世界観がよく似合います。 「列車の中に、“BAR”。」 1号車に設けられているのが、「A-TRAIN BAR」。 飲み物を片手に、ジャズを聴きながら車窓を眺める。御輿来海岸をはじめ、海沿いの景色が流れていく。 特急列車なのに、急いで目的地へ着いてほしいとは思わない。 むしろ、「もう少し、このまま走っていてほしい。」そんな気分になる列車です。 「熊本から、その先の天草へ。」 列車は熊本を出発し、宇土から三角線へ。終点は三角駅。 でも、A列車の旅はここで終わりではありません。 駅の先には三角港。そこから船へ乗り継ぎ、海を越えて天草を目指す。 「列車から船へ。」 単なる“移動”ではなく、乗り継ぐ時間まで旅にしてしまう。...

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【JR九州特集・D&S列車編 Vol.5】キハ185系気動車・特急「A列車で行こう」

ジャズを聴きながら、天草へ。国鉄型キハ185系が纏う“大人の旅” 特急「A列車で行こう」 列車の中に、バーがある。窓の向こうには有明海。車内にはジャズ。 そして、その洒落た空間を走らせているのは ”国鉄生まれのキハ185系”です。 熊本から三角へ。 黒と金を纏った観光特急「A列車で行こう」。 派手な速さも、長い走行距離もありません。でも、この列車には、乗った瞬間から旅を変えてしまう“空気”があります。 「国鉄型が、大人の観光列車へ。」 ベースとなったキハ185系は、1986年に国鉄が四国向けに投入した特急形気動車。分割民営化を目前に、軽量なステンレス車体を採用して登場した、国鉄末期を象徴する形式のひとつです。その後、一部がJR九州へ渡り、九州横断特急などで活躍。 そして2011年。まさかの“大変身”を遂げます。 黒とゴールドの車体。木をふんだんに使った車内。ステンドグラス。そして、バーカウンター。 あの合理的な国鉄型気動車が、ここまで色気のある列車になるとは。鉄道車両の第二の人生って、本当に面白いですね。 「“A”に込められた意味。」 列車名は、ジャズの名曲「A列車で行こう」にちなんだもの。 さらに「A」には、Amakusa――天草。Adult――大人。2つの意味が込められています。 列車のテーマは「大人の旅」。 外観は、16世紀の大航海時代のヨーロッパ文化と、古き良き天草をイメージしたもの。かつて南蛮文化が渡来した天草へ向かう列車だからこそ、この少し異国情緒のある世界観がよく似合います。 「列車の中に、“BAR”。」 1号車に設けられているのが、「A-TRAIN BAR」。 飲み物を片手に、ジャズを聴きながら車窓を眺める。御輿来海岸をはじめ、海沿いの景色が流れていく。 特急列車なのに、急いで目的地へ着いてほしいとは思わない。 むしろ、「もう少し、このまま走っていてほしい。」そんな気分になる列車です。 「熊本から、その先の天草へ。」 列車は熊本を出発し、宇土から三角線へ。終点は三角駅。 でも、A列車の旅はここで終わりではありません。 駅の先には三角港。そこから船へ乗り継ぎ、海を越えて天草を目指す。 「列車から船へ。」 単なる“移動”ではなく、乗り継ぐ時間まで旅にしてしまう。...

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【新幹線を作った昭和日本の心意気 Vol.2】鉄道は斜陽である、と言われた時代

【新幹線を作った昭和日本の心意気 Vol.2】鉄道は斜陽である、と言われた時代

前回、新幹線計画が決して歓迎されたものではなかった、と言うことをお伝えしました。 第2回は、その逆風の実像を描写します。 ■世界の常識は「鉄道は終わった」1950年代。 欧米において、"将来の大量輸送を担うのは航空機と高速道路網であり、鉄道はそれらに取って代わられる時代遅れの乗り物である" そうした見解が、広く共有されていました。 いわゆる、鉄道斜陽論。 日本もまた、これを範としようとする向きが一般的な見立てでした。 "在来線とは別規格の高速新線を建設する" そのような計画は、国鉄の内部においてすら、疑問視する者が多かったのです。 ■限界を迎える、"東海道本線"もっとも、現場には切実な事情がありました。 戦後復興と経済成長により、東海道本線の貨客輸送量は激増。 1956年、東海道本線全線電化が完成しますが、需要の増加に対しては、焼け石に水であったと申せましょう。 1957年、国鉄内部の「幹線調査会」は、東海道本線の輸送力飽和は早晩必至であり、線路増設が不可欠であると答申します。 ■三つの選択肢このとき、検討された案は三つ。 一、現在線に沿って線路を増設し、複々線とする二、別ルートで狭軌新線を建設する三、別ルートで広軌新線を建設する 従来の常道であれば、一の複々線案が採られたところ。 されど国鉄幹部は、最も困難な"三、広軌新線建設"を選びました。 明治以来、日本の鉄道は狭軌1,067mmで敷かれ、標準軌への改軌論は政争の中で幾度も潰えてきた経緯があります。 その悲願を、新線という形で果たそうというわけです。 ■「東京-大阪間3時間への可能性」決断を後押しした出来事が、同じ1957年5月30日にありました。 鉄道技術研究所の創立50周年記念講演。 篠原武司所長らが、「東京-大阪間3時間への可能性」と題し、広軌新線であれば3時間運転は技術的に可能である、と報告したのです。 当時の在来線特急は、東京-大阪間6時間30分。 それを、半分に。 十河総裁はこの話を聞くや強い関心を示し、国鉄幹部を集めて、研究所員に詳細を語らせたと言われています。 斜陽と言われた鉄道が、技術によって反転しうる。 その可能性に賭けた人々がいた、ということになります。 次回Vol.3は、「それでも造ると言った人々」。 十河信二と島秀雄。二人の男の物語です。 (Mr.DIMER編集長)...

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【新幹線を作った昭和日本の心意気 Vol.2】鉄道は斜陽である、と言われた時代

前回、新幹線計画が決して歓迎されたものではなかった、と言うことをお伝えしました。 第2回は、その逆風の実像を描写します。 ■世界の常識は「鉄道は終わった」1950年代。 欧米において、"将来の大量輸送を担うのは航空機と高速道路網であり、鉄道はそれらに取って代わられる時代遅れの乗り物である" そうした見解が、広く共有されていました。 いわゆる、鉄道斜陽論。 日本もまた、これを範としようとする向きが一般的な見立てでした。 "在来線とは別規格の高速新線を建設する" そのような計画は、国鉄の内部においてすら、疑問視する者が多かったのです。 ■限界を迎える、"東海道本線"もっとも、現場には切実な事情がありました。 戦後復興と経済成長により、東海道本線の貨客輸送量は激増。 1956年、東海道本線全線電化が完成しますが、需要の増加に対しては、焼け石に水であったと申せましょう。 1957年、国鉄内部の「幹線調査会」は、東海道本線の輸送力飽和は早晩必至であり、線路増設が不可欠であると答申します。 ■三つの選択肢このとき、検討された案は三つ。 一、現在線に沿って線路を増設し、複々線とする二、別ルートで狭軌新線を建設する三、別ルートで広軌新線を建設する 従来の常道であれば、一の複々線案が採られたところ。 されど国鉄幹部は、最も困難な"三、広軌新線建設"を選びました。 明治以来、日本の鉄道は狭軌1,067mmで敷かれ、標準軌への改軌論は政争の中で幾度も潰えてきた経緯があります。 その悲願を、新線という形で果たそうというわけです。 ■「東京-大阪間3時間への可能性」決断を後押しした出来事が、同じ1957年5月30日にありました。 鉄道技術研究所の創立50周年記念講演。 篠原武司所長らが、「東京-大阪間3時間への可能性」と題し、広軌新線であれば3時間運転は技術的に可能である、と報告したのです。 当時の在来線特急は、東京-大阪間6時間30分。 それを、半分に。 十河総裁はこの話を聞くや強い関心を示し、国鉄幹部を集めて、研究所員に詳細を語らせたと言われています。 斜陽と言われた鉄道が、技術によって反転しうる。 その可能性に賭けた人々がいた、ということになります。 次回Vol.3は、「それでも造ると言った人々」。 十河信二と島秀雄。二人の男の物語です。 (Mr.DIMER編集長)...

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