Mr.DIMER Journal
【今日は何の日】産業用ワイパーの日(381系くろしお)
「ワ(8)イ(1)パ(8)ー」と読む語呂合わせから、文字通り"産業ワイパー"の日。 産業用ワイパー開発・製造・販売を行う、日本製紙クレシア株式会社により制定。 日本製紙クレシアの産業用ワイパーと言えば…キムワイプが有名ですが、本日は、その製品ラインナップにある、「JKワイパー」のパッケージデザインに類似している381系「くろしお」をご紹介。 (Mr.DIMER編集長)
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「ワ(8)イ(1)パ(8)ー」と読む語呂合わせから、文字通り"産業ワイパー"の日。 産業用ワイパー開発・製造・販売を行う、日本製紙クレシア株式会社により制定。 日本製紙クレシアの産業用ワイパーと言えば…キムワイプが有名ですが、本日は、その製品ラインナップにある、「JKワイパー」のパッケージデザインに類似している381系「くろしお」をご紹介。 (Mr.DIMER編集長)
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【国鉄名車列伝】キハ391系気動車・気動車の高速化を夢見た幻のガスタービン気動車
1972年。国鉄に、これまでの気動車とはまったく違う車両が誕生しました。 その名は「キハ391系気動車」 "ディーゼルエンジン"ではありません。 その心臓部に搭載されたのは、ガスタービンエンジン。航空機などにも使われるガスタービンを、鉄道車両の動力にしてしまおう。 今から半世紀以上も前。国鉄は、本気でそんな未来を描いていました。「非電化だから遅い」を変えたい。当時の国鉄にとって、大きな課題のひとつだったのが、非電化区間の高速化。 すでにキハ181系のような高出力の特急形気動車は登場していました。しかし、ディーゼルエンジンは出力を大きくすれば、それだけ重量も増えていきます。 もっと軽く。もっと大きな力を。 そこで国鉄が目を付けたのが、ガスタービンでした。 小型・軽量でありながら、大出力を得られる。これなら非電化区間でも、電車に負けない高速運転ができるのではないか。 そんな期待を背負って誕生したのが、キハ391系だったのです。 見た目からして、普通じゃない。キハ391系は、一見すると3両編成のように見えます。しかし実際には、3つの車体で1両を構成する連接構造。 中央の短い車体にガスタービンを搭載し、前後の車体を客室としました。車体にはアルミ合金を採用。 さらに、曲線区間を高速で通過するための車体傾斜機構まで備えていました。設計最高速度は、130km/h。 軽くして、大きな力を与えて、カーブも速く走る。 言ってしまえばキハ391系は、国鉄が考えた“非電化高速鉄道の走る実験室” だったのです。 そして、本当に走った。キハ391系は、単なる展示用の試作車ではありません。伯備線や山陰本線、田沢湖線などで実際に走行試験が行われました。 ガスタービンの性能。高速走行時の特性。そして車体傾斜。 国鉄は、この異色の気動車を使って、次世代の非電化特急を本気で模索していました。もし、この技術が実用化されていたら。全国の非電化幹線を、ガスタービン特急が130km/hで駆け抜けていた。 そんな未来も、あったのかもしれません。 しかし時代がそれを許しませんでした。 1973年、オイルショック。ガスタービンには、大きな弱点がありました。 燃費です。 小型・軽量で大出力。その反面、特に部分負荷では燃料消費が大きい。発車して、加速して、減速して、停車する。 それを繰り返す鉄道では、ガスタービンの長所を十分に生かしにくかったのです。そこへ追い打ちをかけたのが、 第一次オイルショック。燃料価格が高騰し、時代は一気に省エネルギーへ。燃料を大量に消費するガスタービン気動車にとって、あまりにも悪いタイミングでした。 結局キハ391系が量産されることはありませんでした。営業列車として乗客を運ぶこともありませんでした。 たった1両。営業運転、ゼロ。 それだけを見れば、「失敗した試作車」なのかもしれません。 でも本当に、そうでしょうか。...
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1972年。国鉄に、これまでの気動車とはまったく違う車両が誕生しました。 その名は「キハ391系気動車」 "ディーゼルエンジン"ではありません。 その心臓部に搭載されたのは、ガスタービンエンジン。航空機などにも使われるガスタービンを、鉄道車両の動力にしてしまおう。 今から半世紀以上も前。国鉄は、本気でそんな未来を描いていました。「非電化だから遅い」を変えたい。当時の国鉄にとって、大きな課題のひとつだったのが、非電化区間の高速化。 すでにキハ181系のような高出力の特急形気動車は登場していました。しかし、ディーゼルエンジンは出力を大きくすれば、それだけ重量も増えていきます。 もっと軽く。もっと大きな力を。 そこで国鉄が目を付けたのが、ガスタービンでした。 小型・軽量でありながら、大出力を得られる。これなら非電化区間でも、電車に負けない高速運転ができるのではないか。 そんな期待を背負って誕生したのが、キハ391系だったのです。 見た目からして、普通じゃない。キハ391系は、一見すると3両編成のように見えます。しかし実際には、3つの車体で1両を構成する連接構造。 中央の短い車体にガスタービンを搭載し、前後の車体を客室としました。車体にはアルミ合金を採用。 さらに、曲線区間を高速で通過するための車体傾斜機構まで備えていました。設計最高速度は、130km/h。 軽くして、大きな力を与えて、カーブも速く走る。 言ってしまえばキハ391系は、国鉄が考えた“非電化高速鉄道の走る実験室” だったのです。 そして、本当に走った。キハ391系は、単なる展示用の試作車ではありません。伯備線や山陰本線、田沢湖線などで実際に走行試験が行われました。 ガスタービンの性能。高速走行時の特性。そして車体傾斜。 国鉄は、この異色の気動車を使って、次世代の非電化特急を本気で模索していました。もし、この技術が実用化されていたら。全国の非電化幹線を、ガスタービン特急が130km/hで駆け抜けていた。 そんな未来も、あったのかもしれません。 しかし時代がそれを許しませんでした。 1973年、オイルショック。ガスタービンには、大きな弱点がありました。 燃費です。 小型・軽量で大出力。その反面、特に部分負荷では燃料消費が大きい。発車して、加速して、減速して、停車する。 それを繰り返す鉄道では、ガスタービンの長所を十分に生かしにくかったのです。そこへ追い打ちをかけたのが、 第一次オイルショック。燃料価格が高騰し、時代は一気に省エネルギーへ。燃料を大量に消費するガスタービン気動車にとって、あまりにも悪いタイミングでした。 結局キハ391系が量産されることはありませんでした。営業列車として乗客を運ぶこともありませんでした。 たった1両。営業運転、ゼロ。 それだけを見れば、「失敗した試作車」なのかもしれません。 でも本当に、そうでしょうか。...
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【Insta Thanks 7000 follow】「相鉄7000系・新7000系」(Vol.5)
<相鉄アルミ車の集大成、7000系> 新6000系の設計を基に、軽量性に優れるアルミ製車体を採用した、相鉄7000系。 1975年から1985年にかけて、80両が製造されました。 構体重量はわずか3.6t。大型通勤電車としては、空前の軽量化を実現しています。 1986年以降に投入された、前面デザインを一新したモデルチェンジ車は、「新7000系」と呼ばれ、相鉄の車両として初めてブラックフェイスを採用。 一部編成にはVVVFインバータ制御も導入されました。 2019年に7000系、2020年に新7000系がそれぞれ運用を終了。 これにより、相鉄から昭和生まれの車両は、姿を消しています。 <車両データ>運用開始:1975年運用終了:2020年(新7000系)製造両数:140両(7000系80両・新7000系60両) *************************************************Instagramのフォロワー数が7,400名を超えました。ありがとうございます。今後ともよろしくお願い致します。Mr.DIMER*************************************************
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<相鉄アルミ車の集大成、7000系> 新6000系の設計を基に、軽量性に優れるアルミ製車体を採用した、相鉄7000系。 1975年から1985年にかけて、80両が製造されました。 構体重量はわずか3.6t。大型通勤電車としては、空前の軽量化を実現しています。 1986年以降に投入された、前面デザインを一新したモデルチェンジ車は、「新7000系」と呼ばれ、相鉄の車両として初めてブラックフェイスを採用。 一部編成にはVVVFインバータ制御も導入されました。 2019年に7000系、2020年に新7000系がそれぞれ運用を終了。 これにより、相鉄から昭和生まれの車両は、姿を消しています。 <車両データ>運用開始:1975年運用終了:2020年(新7000系)製造両数:140両(7000系80両・新7000系60両) *************************************************Instagramのフォロワー数が7,400名を超えました。ありがとうございます。今後ともよろしくお願い致します。Mr.DIMER*************************************************
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【鉄道会社名鑑】<地方鉄道Vol.2>島原鉄道
"鉄道会社名鑑"連載、第2回は長崎県の"島原鉄道"。通称、「島鉄(しまてつ)」です。 1908年(明治41年)5月5日設立。1911年6月20日、本諫早~愛野村間の開業を以て、島原半島に鉄路を通しました。 現在の路線は、諫早~島原港間43.2km、24駅。このほかバス事業、そして口之津~鬼池間のフェリーも手掛けています。 ■社名変わらぬ、明治の私鉄明治期に発足した日本の私鉄のうち、創立以来、社名を一度も変えずに存続している会社は、わずか3社。 東武鉄道、近江鉄道。そして、この島原鉄道。 118年、「島原鉄道株式会社」を守り続けています。 ■重要文化財となった1号機島原鉄道線の開業にあっては、鉄道院より譲り受けた150形蒸気機関車が活躍しました。 当機関車の出自は言わずもがな。 1871年、英バルカン・ファウンドリー製。明治5年(1872年)、新橋~横浜間を走った日本で最初の鉄道「1号機関車」そのもの。 島鉄でも「1号機関車」と呼ばれました。 1930年、保存のため鉄道省へ返還。現在は埼玉県の鉄道博物館にて、鉄道記念物・重要文化財としてその姿を留めています。 ■「おどみゃ島鉄」同社を語る上で外せぬ人物が、元常務取締役の宮崎康平氏。 『まぼろしの邪馬台国』の著者であり、『島原の子守唄』の作曲者。 失明しながら経営に携わったその半生は、城山三郎『盲人重役』にも描かれました。 島鉄の全車両に記された「おどみゃ島鉄」の文字。 これは子守唄の一節にちなむ島原方言で、「私は島鉄」の意。 ■力強く生き残る島原鉄道1943年には口之津鉄道を吸収合併し、諫早~加津佐間78.5kmまで路線を延ばした島鉄。 ところが、1991年6月の雲仙普賢岳の噴火災害により、島原外港~深江間が長期不通に。運行再開は1997年4月1日でした。 2008年4月1日には島原外港~加津佐間35.3kmを廃止。鉄路は43.2kmまで縮みました。 2018年には長崎自動車の傘下へ。 人口減少、輸送人員の減少にあえぐ島原鉄道。しかしながら、2026年3月期決算は、経常黒字を達成。 本業以外での収益増加や、親会社長崎バスグループとの燃料共同購入などのスケールメリットが業績に寄与した形です。 118年目の島鉄は、静かに、着実に、その歩を進めています。 (Mr.DIMER編集長)
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"鉄道会社名鑑"連載、第2回は長崎県の"島原鉄道"。通称、「島鉄(しまてつ)」です。 1908年(明治41年)5月5日設立。1911年6月20日、本諫早~愛野村間の開業を以て、島原半島に鉄路を通しました。 現在の路線は、諫早~島原港間43.2km、24駅。このほかバス事業、そして口之津~鬼池間のフェリーも手掛けています。 ■社名変わらぬ、明治の私鉄明治期に発足した日本の私鉄のうち、創立以来、社名を一度も変えずに存続している会社は、わずか3社。 東武鉄道、近江鉄道。そして、この島原鉄道。 118年、「島原鉄道株式会社」を守り続けています。 ■重要文化財となった1号機島原鉄道線の開業にあっては、鉄道院より譲り受けた150形蒸気機関車が活躍しました。 当機関車の出自は言わずもがな。 1871年、英バルカン・ファウンドリー製。明治5年(1872年)、新橋~横浜間を走った日本で最初の鉄道「1号機関車」そのもの。 島鉄でも「1号機関車」と呼ばれました。 1930年、保存のため鉄道省へ返還。現在は埼玉県の鉄道博物館にて、鉄道記念物・重要文化財としてその姿を留めています。 ■「おどみゃ島鉄」同社を語る上で外せぬ人物が、元常務取締役の宮崎康平氏。 『まぼろしの邪馬台国』の著者であり、『島原の子守唄』の作曲者。 失明しながら経営に携わったその半生は、城山三郎『盲人重役』にも描かれました。 島鉄の全車両に記された「おどみゃ島鉄」の文字。 これは子守唄の一節にちなむ島原方言で、「私は島鉄」の意。 ■力強く生き残る島原鉄道1943年には口之津鉄道を吸収合併し、諫早~加津佐間78.5kmまで路線を延ばした島鉄。 ところが、1991年6月の雲仙普賢岳の噴火災害により、島原外港~深江間が長期不通に。運行再開は1997年4月1日でした。 2008年4月1日には島原外港~加津佐間35.3kmを廃止。鉄路は43.2kmまで縮みました。 2018年には長崎自動車の傘下へ。 人口減少、輸送人員の減少にあえぐ島原鉄道。しかしながら、2026年3月期決算は、経常黒字を達成。 本業以外での収益増加や、親会社長崎バスグループとの燃料共同購入などのスケールメリットが業績に寄与した形です。 118年目の島鉄は、静かに、着実に、その歩を進めています。 (Mr.DIMER編集長)
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車内でのWebミーティングはなかなか難しそう…273系 やくも
お盆休みも今日で終わりの方は多いはず…明日からまた頑張りましょう。 次の連休は…9月19日(土)から9月23日(水)までの5連休(シルバーウィーク)です。 #VIVANT
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お盆休みも今日で終わりの方は多いはず…明日からまた頑張りましょう。 次の連休は…9月19日(土)から9月23日(水)までの5連休(シルバーウィーク)です。 #VIVANT
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【時代を生き抜いた鉄道車両特集Vol.3】広島電鉄650形・「あの日を生き抜き、再び広島を走っ...
昭和17年、1942年。広島の街に、5両の新しい路面電車が登場しました。 その名は・・・ 「広島電鉄650形」 651号から655号までの5両。戦時下の輸送を支えるために生まれたこの電車は、わずか3年後、想像を絶する一日を迎えることになります。 "1945年8月6日午前8時15分" 広島に原子爆弾が投下されました。街は一瞬にして姿を変え、広島電鉄も甚大な被害を受けます。 当時、市内にあった電車108両が被災。 650形もまた、その戦火の中にいました。なかでも653号は江波付近で被爆し、大破。 本来なら、そのまま廃車となっていても不思議ではないほどの被害でした。 しかし、この電車の物語は、ここでは終わりません。 「それでも、電車は走った。」 原爆投下から、わずか3日後。広島電鉄は西天満町―己斐間で運転を再開します。 電気も水道も十分ではない。街には瓦礫が残り、多くの人々が家族を探していた時代です。そんな広島の街を、再び電車が走った。それは単なる交通機関の復旧ではありませんでした。 「街は、まだ生きている。」 電車の姿は、そんなことを人々に伝えていたのかもしれません。そして大破した653号も修復され、 "被爆から約4か月後には復旧"再び広島の街へ戻りました。 「被爆電車が、日常の電車へ。」 650形の特筆すべきは、保存するためだけに残されたことではありません。戦後も、ごく普通の営業車として人々を乗せ続けたことです。 学校へ向かう人。仕事へ向かう人。買い物へ出かける人。 かつて戦火を浴びた電車が、戦後の何気ない日常を運び続けました。現在も650形は3両が残されています。 651号と652号は、主に朝のラッシュ時などに営業運転。653号は2006年に一度引退しましたが、2015年に被爆当時の塗装へ復刻され、特別運行などで再び走るようになりました。そして654号も、現在は広島市交通科学館で保存されています。 「"被爆電車"という言葉の向こう側」 650形を前にすると、どうしても「被爆電車」という言葉が先に来ます。けれど、この車両が歩んだ80余年は、それだけではありません。 戦時中に生まれ、原爆を経験し、焼けた街へ戻り、戦後復興を支え、そして平和な時代の日常まで走り続けた。 一両の電車の時間の中に、戦前、戦争、復興、そして現代までの広島がつながっています。 その歴史を、美談だけにしてはいけないと思います。 ただ、あの日を実際に経験した鉄道車両が、いまも私たちの前に存在している。その事実には、やはり大きな意味があると思います。 "あの日を生き抜き、再び広島を走った被爆電車" 「広島電鉄650形」 戦火から復興へと歩んだ、広島の80余年そのものなのかもしれません。...
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昭和17年、1942年。広島の街に、5両の新しい路面電車が登場しました。 その名は・・・ 「広島電鉄650形」 651号から655号までの5両。戦時下の輸送を支えるために生まれたこの電車は、わずか3年後、想像を絶する一日を迎えることになります。 "1945年8月6日午前8時15分" 広島に原子爆弾が投下されました。街は一瞬にして姿を変え、広島電鉄も甚大な被害を受けます。 当時、市内にあった電車108両が被災。 650形もまた、その戦火の中にいました。なかでも653号は江波付近で被爆し、大破。 本来なら、そのまま廃車となっていても不思議ではないほどの被害でした。 しかし、この電車の物語は、ここでは終わりません。 「それでも、電車は走った。」 原爆投下から、わずか3日後。広島電鉄は西天満町―己斐間で運転を再開します。 電気も水道も十分ではない。街には瓦礫が残り、多くの人々が家族を探していた時代です。そんな広島の街を、再び電車が走った。それは単なる交通機関の復旧ではありませんでした。 「街は、まだ生きている。」 電車の姿は、そんなことを人々に伝えていたのかもしれません。そして大破した653号も修復され、 "被爆から約4か月後には復旧"再び広島の街へ戻りました。 「被爆電車が、日常の電車へ。」 650形の特筆すべきは、保存するためだけに残されたことではありません。戦後も、ごく普通の営業車として人々を乗せ続けたことです。 学校へ向かう人。仕事へ向かう人。買い物へ出かける人。 かつて戦火を浴びた電車が、戦後の何気ない日常を運び続けました。現在も650形は3両が残されています。 651号と652号は、主に朝のラッシュ時などに営業運転。653号は2006年に一度引退しましたが、2015年に被爆当時の塗装へ復刻され、特別運行などで再び走るようになりました。そして654号も、現在は広島市交通科学館で保存されています。 「"被爆電車"という言葉の向こう側」 650形を前にすると、どうしても「被爆電車」という言葉が先に来ます。けれど、この車両が歩んだ80余年は、それだけではありません。 戦時中に生まれ、原爆を経験し、焼けた街へ戻り、戦後復興を支え、そして平和な時代の日常まで走り続けた。 一両の電車の時間の中に、戦前、戦争、復興、そして現代までの広島がつながっています。 その歴史を、美談だけにしてはいけないと思います。 ただ、あの日を実際に経験した鉄道車両が、いまも私たちの前に存在している。その事実には、やはり大きな意味があると思います。 "あの日を生き抜き、再び広島を走った被爆電車" 「広島電鉄650形」 戦火から復興へと歩んだ、広島の80余年そのものなのかもしれません。...
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