Mr.DIMER Journal

【新幹線を作った昭和日本の心意気 Vol.5】昭和が遺したもの

【新幹線を作った昭和日本の心意気 Vol.5】昭和が遺したもの

全5回にわたってお届けした本連載は、最終回を迎えました。 ■世界が追いかけた"新幹線"。 1964年10月1日。東海道新幹線が開業します。そして、世界の鉄道は動き出します。 鉄道先進国を自負していたフランスは、1981年、TGVを開発。 営業最高速度260km/hをもって、新幹線の最高速度記録を凌駕しました。 ドイツのICE、イタリアのディレッティシマ。 そして韓国のKTX、台湾高速鉄道、中国高速鉄道。 いずれも、1964年の東海道新幹線がその端緒であったことは、疑いようがありません。 なお台湾高速鉄道の顧問には、島秀雄の次男である島隆氏が就いています。 島安次郎、島秀雄、島隆。 三代にわたる技術者の系譜が、海を越えて続いたことになります。 ■社会の変化国内に目を転じます。 東海道新幹線 開業以前、東京-大阪間は在来線特急で日帰りこそ可能なものの、滞在可能の時間はわずか2時間あまり。 それが新幹線の開通により、十分な滞在時間を確保できるようになりました。 当初12両であった編成は、1970年の大阪万博を機に16両へ。 1976年5月25日には、新幹線の乗客数が10億人を突破しています。 日本の社会構造そのものを、この"新幹線"が書き換えたと申せましょう。 ■新幹線開通の"光と影"世界初の高速鉄道開業に至っては、脚光を浴びるばかりではありませんでした。 新幹線が開業した1964年度から、国鉄の収支は赤字に転落。 以後それは拡大の一途を辿り、"新幹線建設が国鉄破綻の一因となった"、と語られることもあります。 もっともこれについては、JR東海の葛西敬之会長が、 "東海道新幹線は内部留保と借金で建設し、運賃・料金収入のみですべて回収したものであり、新幹線建設が国鉄破綻の引き金を引いたという認識は誤りである" と著書の中で反論しておられます。 いずれの見方を採るにせよ、巨大事業には巨大な代償が伴うということは、記す価値があろうかと思います。 ■現代に生きる私たち最後に。 本連載を書きながら、私はひとつの問いを反芻しておりました。 もし今、まったく前例のない交通機関を作る、という話が持ち上がったとして。 私たちの社会は、それを是とするだろうか。 鉄道は斜陽であると言われ、第2の戦艦大和と揶揄され、それでも造ると言った人々がいた。...

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【新幹線を作った昭和日本の心意気 Vol.5】昭和が遺したもの

全5回にわたってお届けした本連載は、最終回を迎えました。 ■世界が追いかけた"新幹線"。 1964年10月1日。東海道新幹線が開業します。そして、世界の鉄道は動き出します。 鉄道先進国を自負していたフランスは、1981年、TGVを開発。 営業最高速度260km/hをもって、新幹線の最高速度記録を凌駕しました。 ドイツのICE、イタリアのディレッティシマ。 そして韓国のKTX、台湾高速鉄道、中国高速鉄道。 いずれも、1964年の東海道新幹線がその端緒であったことは、疑いようがありません。 なお台湾高速鉄道の顧問には、島秀雄の次男である島隆氏が就いています。 島安次郎、島秀雄、島隆。 三代にわたる技術者の系譜が、海を越えて続いたことになります。 ■社会の変化国内に目を転じます。 東海道新幹線 開業以前、東京-大阪間は在来線特急で日帰りこそ可能なものの、滞在可能の時間はわずか2時間あまり。 それが新幹線の開通により、十分な滞在時間を確保できるようになりました。 当初12両であった編成は、1970年の大阪万博を機に16両へ。 1976年5月25日には、新幹線の乗客数が10億人を突破しています。 日本の社会構造そのものを、この"新幹線"が書き換えたと申せましょう。 ■新幹線開通の"光と影"世界初の高速鉄道開業に至っては、脚光を浴びるばかりではありませんでした。 新幹線が開業した1964年度から、国鉄の収支は赤字に転落。 以後それは拡大の一途を辿り、"新幹線建設が国鉄破綻の一因となった"、と語られることもあります。 もっともこれについては、JR東海の葛西敬之会長が、 "東海道新幹線は内部留保と借金で建設し、運賃・料金収入のみですべて回収したものであり、新幹線建設が国鉄破綻の引き金を引いたという認識は誤りである" と著書の中で反論しておられます。 いずれの見方を採るにせよ、巨大事業には巨大な代償が伴うということは、記す価値があろうかと思います。 ■現代に生きる私たち最後に。 本連載を書きながら、私はひとつの問いを反芻しておりました。 もし今、まったく前例のない交通機関を作る、という話が持ち上がったとして。 私たちの社会は、それを是とするだろうか。 鉄道は斜陽であると言われ、第2の戦艦大和と揶揄され、それでも造ると言った人々がいた。...

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【時代を生き抜いた鉄道車両特集Vol.2】東急3600形・「戦災国電から生まれ変わった私鉄電車」

【時代を生き抜いた鉄道車両特集Vol.2】東急3600形・「戦災国電から生まれ変わった私鉄電車」

1945年。終戦を迎えた日本には、焼けた街だけでなく、無数の鉄道車両も傷ついた姿で残されていました。 空襲で焼損した国鉄電車。本来なら、そのまま役目を終えていても不思議ではありません。しかし当時の日本には、新しい車両を大量に造る余裕などありませんでした。 資材もない。車両も足りない。それでも、人は動かなければならない。 ならば知恵を振り絞り、残ったものを、もう一度使う。 そんな戦後の鉄道事情から生まれた車両のひとつが、「東急3600形」です。 元を辿れば「戦災国電」 東急3600系は、第二次世界大戦で被災した省線電車、つまり国鉄の前身である鉄道省・運輸省の電車を払い下げてもらい、復旧して誕生した車両群でした。 1948年から1950年代初頭にかけて登場し、デハ3600形16両、クハ3670形9両、クハ3770形12両。合計37両という大所帯になります。 特筆すべきは、その「復旧方法」。すべてが同じように造られたわけではありません。 比較的損傷の少なかった車両は、焼け残った鋼製車体を修復して再利用。一方、損傷が激しかった車両では、使える台枠などを残し、その上に新しい車体を載せる方法も採られました。 37両のうち、14両は戦災車の鋼体を修復して使用し、残る23両は主に台枠を利用して新たな車体を構築したとされています。 つまり同じ「3600系」と呼ばれていても、その生い立ちは一両一両違ったのです。 「大きく被災した国電が、東急の電車になる。」 ここが、この車両の特筆すべきところ。戦争中は国の鉄道を走っていた車両が、戦後は私鉄、東急の電車として再び走り始めました。 現在でも鉄道会社間で車両が譲渡される例はありますが、戦災車の焼け残った車体や台枠まで活用し、別会社の営業車として大量に復旧するという成り立ちは、戦後直後ならではのものでした。 「まだ走れるか」 その一点が特に重要だった時代です。 東急3600形は、東横線や目蒲線、池上線などで使用され、戦後の東京近郊輸送を支えていきました。後年には車体更新を受けた車両もあり、戦災復旧車だった面影を大きく変えながら走り続けます。 そして東急での役目を終えた後、一部はまた新たな会社へ渡り、さらに第二の土地でも活躍しました。 同じ車両」とは、何なのか。焼け残った車体を叩き直した車両。台枠だけを残し、新しい車体を載せた車両。さらに、その後もう一度車体を更新された車両。 ここまでくると、果たしてどこまでが「元の車両」なのか。そんな疑問さえ浮かんできます。 それでも、その台枠や部品の一部には確かに戦前の時間が流れていました。 戦火を受け、捨てるわけにもいかず、別の姿となり、再び人々を運んだ。 東急3600形。それは華やかな名車というより、 「走れるものは、もう一度走らせる」 そんな戦後日本の鉄道が持っていた、凄まじいまでの現実主義から生まれた電車でした。 戦災国電から、私鉄電車へ。姿を変えても、その鉄路は続いた。 東急3600形は、焼け跡から始まった戦後復興を、日々の輸送で支え続けた車両だったのです。 (マイミー)

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【時代を生き抜いた鉄道車両特集Vol.2】東急3600形・「戦災国電から生まれ変わった私鉄電車」

1945年。終戦を迎えた日本には、焼けた街だけでなく、無数の鉄道車両も傷ついた姿で残されていました。 空襲で焼損した国鉄電車。本来なら、そのまま役目を終えていても不思議ではありません。しかし当時の日本には、新しい車両を大量に造る余裕などありませんでした。 資材もない。車両も足りない。それでも、人は動かなければならない。 ならば知恵を振り絞り、残ったものを、もう一度使う。 そんな戦後の鉄道事情から生まれた車両のひとつが、「東急3600形」です。 元を辿れば「戦災国電」 東急3600系は、第二次世界大戦で被災した省線電車、つまり国鉄の前身である鉄道省・運輸省の電車を払い下げてもらい、復旧して誕生した車両群でした。 1948年から1950年代初頭にかけて登場し、デハ3600形16両、クハ3670形9両、クハ3770形12両。合計37両という大所帯になります。 特筆すべきは、その「復旧方法」。すべてが同じように造られたわけではありません。 比較的損傷の少なかった車両は、焼け残った鋼製車体を修復して再利用。一方、損傷が激しかった車両では、使える台枠などを残し、その上に新しい車体を載せる方法も採られました。 37両のうち、14両は戦災車の鋼体を修復して使用し、残る23両は主に台枠を利用して新たな車体を構築したとされています。 つまり同じ「3600系」と呼ばれていても、その生い立ちは一両一両違ったのです。 「大きく被災した国電が、東急の電車になる。」 ここが、この車両の特筆すべきところ。戦争中は国の鉄道を走っていた車両が、戦後は私鉄、東急の電車として再び走り始めました。 現在でも鉄道会社間で車両が譲渡される例はありますが、戦災車の焼け残った車体や台枠まで活用し、別会社の営業車として大量に復旧するという成り立ちは、戦後直後ならではのものでした。 「まだ走れるか」 その一点が特に重要だった時代です。 東急3600形は、東横線や目蒲線、池上線などで使用され、戦後の東京近郊輸送を支えていきました。後年には車体更新を受けた車両もあり、戦災復旧車だった面影を大きく変えながら走り続けます。 そして東急での役目を終えた後、一部はまた新たな会社へ渡り、さらに第二の土地でも活躍しました。 同じ車両」とは、何なのか。焼け残った車体を叩き直した車両。台枠だけを残し、新しい車体を載せた車両。さらに、その後もう一度車体を更新された車両。 ここまでくると、果たしてどこまでが「元の車両」なのか。そんな疑問さえ浮かんできます。 それでも、その台枠や部品の一部には確かに戦前の時間が流れていました。 戦火を受け、捨てるわけにもいかず、別の姿となり、再び人々を運んだ。 東急3600形。それは華やかな名車というより、 「走れるものは、もう一度走らせる」 そんな戦後日本の鉄道が持っていた、凄まじいまでの現実主義から生まれた電車でした。 戦災国電から、私鉄電車へ。姿を変えても、その鉄路は続いた。 東急3600形は、焼け跡から始まった戦後復興を、日々の輸送で支え続けた車両だったのです。 (マイミー)

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【もしや】東海顔の正統進化は721系?説

【もしや】東海顔の正統進化は721系?説

サムネイルを見たら言わずもがな。 長々と解説を書く必要はないと感じます。 1958年に誕生した153系を始祖とする、当初設定された列車名が準急"東海"であったことから名付けられた"東海形"、そしてそれら総称の前面デザインを"東海顔"と呼んでいますが、 いわゆる東海顔の次世代造形となったのは、皆様もご存知の通り211系顔。 113系・115系の後継に当たる211系、415系のマイナーチェンジ車である415系1500番台、457系ファミリーの後継である719系、111系の後継である6000系がその211系顔に該当します。 すなわち、鋼製車からオールステンレス車にバトンタッチした際に採用された白いFRP製のマスクが従前の東海顔の後継として認知されている、と言うのが大方の見方ではないでしょうか。 ところで、日本初の量産近郊形交流電車にあって、北海道初の国鉄電車711系を置き換える目的で登場したのはJRが産声を上げて間もない頃の1988年、721系。 初期のステンレス車に見られたビード付きのオールステンレス車体はそのままに、北海道向け片開き3ドア、そして、側面にまで回り込むパノラミックウィンドウの前面を取り付けたスタイルは、東海顔の後継たる211系顔を"今一歩完成度の高まった"デザインと相成りましたが、まさにこの721系顔、サムネイル画像を見ていただくとピンときて頂けるか、どうも、東海顔ファミリーの一角を成した711系正面形状の正統進化とは言えませんでしょうか。 東海顔の後継顔が211系顔と言う固定概念がある中(私だけかもしれないが)、711系と721系の並ぶ姿に、新たな発見をしたと言うのが本音です。 東海顔、特長の一つである、パノラミックウィンドウを継承、引き続き高運転台を維持したスタイルに、左右一灯ずつのシールドビームは、211系のソレと比べて、負けずとも劣らぬ、秀逸な"顔"ではないでしょうか。 (Mr.DIMER編集長)

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【もしや】東海顔の正統進化は721系?説

サムネイルを見たら言わずもがな。 長々と解説を書く必要はないと感じます。 1958年に誕生した153系を始祖とする、当初設定された列車名が準急"東海"であったことから名付けられた"東海形"、そしてそれら総称の前面デザインを"東海顔"と呼んでいますが、 いわゆる東海顔の次世代造形となったのは、皆様もご存知の通り211系顔。 113系・115系の後継に当たる211系、415系のマイナーチェンジ車である415系1500番台、457系ファミリーの後継である719系、111系の後継である6000系がその211系顔に該当します。 すなわち、鋼製車からオールステンレス車にバトンタッチした際に採用された白いFRP製のマスクが従前の東海顔の後継として認知されている、と言うのが大方の見方ではないでしょうか。 ところで、日本初の量産近郊形交流電車にあって、北海道初の国鉄電車711系を置き換える目的で登場したのはJRが産声を上げて間もない頃の1988年、721系。 初期のステンレス車に見られたビード付きのオールステンレス車体はそのままに、北海道向け片開き3ドア、そして、側面にまで回り込むパノラミックウィンドウの前面を取り付けたスタイルは、東海顔の後継たる211系顔を"今一歩完成度の高まった"デザインと相成りましたが、まさにこの721系顔、サムネイル画像を見ていただくとピンときて頂けるか、どうも、東海顔ファミリーの一角を成した711系正面形状の正統進化とは言えませんでしょうか。 東海顔の後継顔が211系顔と言う固定概念がある中(私だけかもしれないが)、711系と721系の並ぶ姿に、新たな発見をしたと言うのが本音です。 東海顔、特長の一つである、パノラミックウィンドウを継承、引き続き高運転台を維持したスタイルに、左右一灯ずつのシールドビームは、211系のソレと比べて、負けずとも劣らぬ、秀逸な"顔"ではないでしょうか。 (Mr.DIMER編集長)

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【新幹線を作った昭和日本の心意気 Vol.4】安全という思想

【新幹線を作った昭和日本の心意気 Vol.4】安全という思想

新幹線を語るとき、私たちはつい"速さ"に着目しがちです。 されど、この鉄道の本質は、むしろ"安全"の側にあるのではないか。 第4回は、その設計思想についてお届けします。 ■戦前からの、遺産まず前提として、新幹線は、ゼロから生まれたわけではありません。 1939年、鉄道省が発案した「弾丸列車計画」。 東京から下関まで、在来の東海道・山陽本線とは別に広軌1,435mmの新線を建設し、最高速度200km/h、東京-大阪間を4時間で結ぶ。 翌1940年9月に承認され、日本坂トンネル、新丹那トンネル、東山トンネルの工事が着工されますが、戦況悪化により中断します。 そして戦後。 この時に掘られたトンネルと、半ば強制的に買収されていた用地が、そのまま東海道新幹線に活用されました。 わずか5年で完成し得た理由の一端は、ここにあると申せましょう。 ちなみに「新幹線」という"言葉"も、この計画の関係者が既に用いていたものです。 ■踏切を、一切設けない安全思想の中核、新幹線は、全線にわたって踏切を一切設けていません。 全線立体交差、線路内に人が立ち入れぬ構造。 自動車との衝突という、鉄道最大の事故要因を、設計段階で排除してしまったわけです。 加えて、曲線半径は東海道新幹線で最小2,500m、山陽新幹線以降は4,000m。 勾配も原則15‰まで。 速く走るための線形が、同時に安全のための線形でもある。 ■三重系のATC高速で走る列車から地上の信号機を目視確認することは、気象条件によっては困難となる。 故に新幹線は、運転台に許容速度を表示し、超過すれば自動的にブレーキが作動するATC(自動列車制御装置)を採用しました。 しかも、同じ機能を持つ系統を三つ備え、一つが故障しても、残る二つの多数決によって運転を継続できる構造としています。 "壊れないもの"を作るのではなく、"壊れても走れるもの"を作る。 この発想の転換こそが、60年の安全を支えてきた、と考えます。 ■それでも、盲点はあった1962年、神奈川県綾瀬付近から小田原付近にモデル線が先行整備され、試作電車1000形による試験が繰り返されます。 1963年3月30日には、256km/hの国内最高速度を記録。 されど、この鴨宮の地は、相模湾に近く、冬でも比較的温暖。 降雪時の高速運転データが、十分に得られなかったのです。 結果、開業後初めての冬。 関ヶ原周辺の激しい降雪により、着雪による車両故障が頻発することとなります。 前人未到とは、そういうことなのでしょう。 想定し得たものは潰し、想定し得なかったものに叩かれ、そこからまた学ぶ。...

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【新幹線を作った昭和日本の心意気 Vol.4】安全という思想

新幹線を語るとき、私たちはつい"速さ"に着目しがちです。 されど、この鉄道の本質は、むしろ"安全"の側にあるのではないか。 第4回は、その設計思想についてお届けします。 ■戦前からの、遺産まず前提として、新幹線は、ゼロから生まれたわけではありません。 1939年、鉄道省が発案した「弾丸列車計画」。 東京から下関まで、在来の東海道・山陽本線とは別に広軌1,435mmの新線を建設し、最高速度200km/h、東京-大阪間を4時間で結ぶ。 翌1940年9月に承認され、日本坂トンネル、新丹那トンネル、東山トンネルの工事が着工されますが、戦況悪化により中断します。 そして戦後。 この時に掘られたトンネルと、半ば強制的に買収されていた用地が、そのまま東海道新幹線に活用されました。 わずか5年で完成し得た理由の一端は、ここにあると申せましょう。 ちなみに「新幹線」という"言葉"も、この計画の関係者が既に用いていたものです。 ■踏切を、一切設けない安全思想の中核、新幹線は、全線にわたって踏切を一切設けていません。 全線立体交差、線路内に人が立ち入れぬ構造。 自動車との衝突という、鉄道最大の事故要因を、設計段階で排除してしまったわけです。 加えて、曲線半径は東海道新幹線で最小2,500m、山陽新幹線以降は4,000m。 勾配も原則15‰まで。 速く走るための線形が、同時に安全のための線形でもある。 ■三重系のATC高速で走る列車から地上の信号機を目視確認することは、気象条件によっては困難となる。 故に新幹線は、運転台に許容速度を表示し、超過すれば自動的にブレーキが作動するATC(自動列車制御装置)を採用しました。 しかも、同じ機能を持つ系統を三つ備え、一つが故障しても、残る二つの多数決によって運転を継続できる構造としています。 "壊れないもの"を作るのではなく、"壊れても走れるもの"を作る。 この発想の転換こそが、60年の安全を支えてきた、と考えます。 ■それでも、盲点はあった1962年、神奈川県綾瀬付近から小田原付近にモデル線が先行整備され、試作電車1000形による試験が繰り返されます。 1963年3月30日には、256km/hの国内最高速度を記録。 されど、この鴨宮の地は、相模湾に近く、冬でも比較的温暖。 降雪時の高速運転データが、十分に得られなかったのです。 結果、開業後初めての冬。 関ヶ原周辺の激しい降雪により、着雪による車両故障が頻発することとなります。 前人未到とは、そういうことなのでしょう。 想定し得たものは潰し、想定し得なかったものに叩かれ、そこからまた学ぶ。...

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【時代を生き抜いた鉄道車両特集Vol.1】EF55形1号機・「戦火の痕跡をその身に残した流線形電気機関車」

【時代を生き抜いた鉄道車両特集Vol.1】EF55形1号機・「戦火の痕跡をその身に残した流線形...

昭和11年、1936年。日本の鉄道に、一際異彩を放つ電気機関車が登場しました。 丸みを帯びた前頭部。継ぎ目を感じさせない流麗な車体。 その名は・・・ 「EF55形電気機関車」 世界的な「流線形ブーム」のなかで誕生した、鉄道省の旅客用電気機関車です。製造されたのは、わずか3両。 その中の1両、EF55 1は、特急「燕」や「富士」など、当時を代表する列車の先頭にも立ちました。華やかな時代を走った流線形機関車。 しかし、その姿にもやがて戦争の影が落ちていきます。 機関車に残された「戦争の記録」 1945年。EF55 1は、沼津機関区に留置されていた際、米軍機による機銃掃射を受けました。その被害は、車体16か所に及んだとされています。 これは単なる逸話では無く、EF55形の「電気機関車履歴簿」には、当時受けた銃撃の被害状況が記録として残されています。 さらに現在保存されているEF55 1の運転室天井には、その時のものとされる銃撃痕が今なお残されています。 鉄道車両は、本来、人や物を運ぶためのものです。けれど戦時下では、鉄道そのものが軍事輸送や国家の物流を担う重要な存在となり、駅や線路、車両もまた戦火と無縁ではいられませんでした。 EF55 1に残された傷は、その時代を実際に走った鉄道車両だからこそ持つ、ひとつの歴史の証でもあります。 「EF55 1の物語は、戦後も続いていく。」 EF55 1は戦火をくぐり抜け、戦後も鉄路に残りました。 小さな改造を重ねながら、連合軍専用列車や特急復活に向けた試運転列車の牽引などにも使用されます。しかし、流線形の車体は美しい反面、前後非対称という特殊な構造を持っていました。 電気機関車でありながら、基本的には流線形側を先頭にして走るため、運用によっては方向転換が必要になるという不便さもありました。 やがて新しい機関車が登場する中で第一線を退き、1964年に廃車。普通なら、ここで一両の機関車の歴史は終わります。 ところがEF55 1は、終わりませんでした。廃車後も高崎で保存され、そして22年後の1986年・・・ "まさかの車籍復帰" 一度「廃車」となった機関車が、再び本線へ帰ってきたのです。旧型客車や12系などを牽きながら、高崎線、上越線、信越本線などを走行。 独特の丸い顔から、鉄道ファンにはいつしか「ムーミン」の愛称で親しまれるようになりました。ただ、この「ムーミン」という愛称が広く使われるようになったのは復帰後のこと。現役当時には、その独特な姿から「ドタ靴」「靴のお化け」「カバ」などとも呼ばれていたといわれます。今の可愛らしい愛称とは、ずいぶん雰囲気が違いますね。 そして2009年。73歳となったEF55...

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【時代を生き抜いた鉄道車両特集Vol.1】EF55形1号機・「戦火の痕跡をその身に残した流線形...

昭和11年、1936年。日本の鉄道に、一際異彩を放つ電気機関車が登場しました。 丸みを帯びた前頭部。継ぎ目を感じさせない流麗な車体。 その名は・・・ 「EF55形電気機関車」 世界的な「流線形ブーム」のなかで誕生した、鉄道省の旅客用電気機関車です。製造されたのは、わずか3両。 その中の1両、EF55 1は、特急「燕」や「富士」など、当時を代表する列車の先頭にも立ちました。華やかな時代を走った流線形機関車。 しかし、その姿にもやがて戦争の影が落ちていきます。 機関車に残された「戦争の記録」 1945年。EF55 1は、沼津機関区に留置されていた際、米軍機による機銃掃射を受けました。その被害は、車体16か所に及んだとされています。 これは単なる逸話では無く、EF55形の「電気機関車履歴簿」には、当時受けた銃撃の被害状況が記録として残されています。 さらに現在保存されているEF55 1の運転室天井には、その時のものとされる銃撃痕が今なお残されています。 鉄道車両は、本来、人や物を運ぶためのものです。けれど戦時下では、鉄道そのものが軍事輸送や国家の物流を担う重要な存在となり、駅や線路、車両もまた戦火と無縁ではいられませんでした。 EF55 1に残された傷は、その時代を実際に走った鉄道車両だからこそ持つ、ひとつの歴史の証でもあります。 「EF55 1の物語は、戦後も続いていく。」 EF55 1は戦火をくぐり抜け、戦後も鉄路に残りました。 小さな改造を重ねながら、連合軍専用列車や特急復活に向けた試運転列車の牽引などにも使用されます。しかし、流線形の車体は美しい反面、前後非対称という特殊な構造を持っていました。 電気機関車でありながら、基本的には流線形側を先頭にして走るため、運用によっては方向転換が必要になるという不便さもありました。 やがて新しい機関車が登場する中で第一線を退き、1964年に廃車。普通なら、ここで一両の機関車の歴史は終わります。 ところがEF55 1は、終わりませんでした。廃車後も高崎で保存され、そして22年後の1986年・・・ "まさかの車籍復帰" 一度「廃車」となった機関車が、再び本線へ帰ってきたのです。旧型客車や12系などを牽きながら、高崎線、上越線、信越本線などを走行。 独特の丸い顔から、鉄道ファンにはいつしか「ムーミン」の愛称で親しまれるようになりました。ただ、この「ムーミン」という愛称が広く使われるようになったのは復帰後のこと。現役当時には、その独特な姿から「ドタ靴」「靴のお化け」「カバ」などとも呼ばれていたといわれます。今の可愛らしい愛称とは、ずいぶん雰囲気が違いますね。 そして2009年。73歳となったEF55...

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【惜別。500系新幹線電車 Vol.2】「あの顔」はこうして生まれた。15mノーズの誕生

【惜別。500系新幹線電車 Vol.2】「あの顔」はこうして生まれた。15mノーズの誕生

<ジェット戦闘機か、生き物か> 500系を500系たらしめているもの。 それは何と言っても、全長27mの先頭車のうち、実に15mを費やした、あの鋭いロングノーズでしょう。 第2回は、新幹線史上、唯一無二。"顔"の誕生秘話です。 ■敵は「トンネル」前回触れた通り、500系の使命は300km/h営業運転。 しかし、山陽新幹線には東海道区間とは異なる難敵がいました。 トンネルです。 山陽新幹線の約半分はトンネル区間。高速でトンネルに突入した列車は、出口側で「ドン」という衝撃音、いわゆる"トンネル微気圧波"を発生させます。 速くなればなるほど、この現象は激しくなる。 つまり500系の顔は、"かっこよさ"のためではなく、空気の壁と戦うために、あの形にならざるを得なかった、ということ。 15mという長さは、航空宇宙技術研究所のCFD解析(コンピュータによる流体シミュレーション)から導き出された数値。 車体断面も徹底していて、裾や荷棚部分を削り込み、300系より1割小さい断面積10.2㎡を実現。 結果、車体は他に類を見ない"円筒形"となりました。 ■ドイツ人デザイナーの手腕この空力的要求を、あれほど美しい造形にまとめ上げたのが、ドイツの工業デザイナー、アレクサンダー・ノイマイスター氏。 ドイツの高速列車ICEなどを手掛けた、高速鉄道デザインの第一人者です。 技術の産物であるはずの形状が、どこか生命感すら漂わせているのは、氏の手腕あってこそ。 1996年にはグッドデザイン賞、1998年には鉄道友の会ブルーリボン賞と、デザイン・車両の両面で高い評価を受けました。 ■カワセミとフクロウ500系を語る上で欠かせないのが、"生き物たち"の存在です。 開発に携わったJR西日本の技術者が、日本野鳥の会の会員だったことから、自然界の知恵が随所に活かされた、と言われています。 水しぶきをほとんど立てずに水中へ飛び込む、カワセミのくちばし。 その形状が、空気の壁を切り裂くノーズ形状のヒントになったという逸話は、バイオミメティクス(生物模倣技術)の代表例として、あまりに有名です。 そしてもう一羽、フクロウ。 音もなく獲物に迫る、あの静かな羽ばたきの秘密"風切羽"は、翼型パンタグラフの支柱に並ぶボルテックスジェネレータ(渦流生成器)として応用されました。 ちなみにこのパンタグラフ、ダンパの製作はF1のショックアブソーバーで実績のあるショーワに依頼され、開発試験では、なんとホンダ・プレリュードの屋根に実物を載せて走らせ、揚力を測定したのだとか。 鳥の翼、F1、そして市販車。新幹線の常識の外側から、あらゆる知恵をかき集めて生まれたのが、500系という車両でした。 ■美しさの、代償ただし、この"完璧な形"には代償もありました。 運転席は大きく後退し、視界は制約され、先頭車の乗車口はわずか1箇所。 円筒形の車体は、窓際の空間をわずかに圧迫し、先頭車の定員は300系より12名減少…。 このあたりの"歪み"が、後に500系の運命を左右していくのですが、その話は、もう少し先に取っておきましょう。 次回、Vol.3は、「円筒形車体の光と影」。...

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【惜別。500系新幹線電車 Vol.2】「あの顔」はこうして生まれた。15mノーズの誕生

<ジェット戦闘機か、生き物か> 500系を500系たらしめているもの。 それは何と言っても、全長27mの先頭車のうち、実に15mを費やした、あの鋭いロングノーズでしょう。 第2回は、新幹線史上、唯一無二。"顔"の誕生秘話です。 ■敵は「トンネル」前回触れた通り、500系の使命は300km/h営業運転。 しかし、山陽新幹線には東海道区間とは異なる難敵がいました。 トンネルです。 山陽新幹線の約半分はトンネル区間。高速でトンネルに突入した列車は、出口側で「ドン」という衝撃音、いわゆる"トンネル微気圧波"を発生させます。 速くなればなるほど、この現象は激しくなる。 つまり500系の顔は、"かっこよさ"のためではなく、空気の壁と戦うために、あの形にならざるを得なかった、ということ。 15mという長さは、航空宇宙技術研究所のCFD解析(コンピュータによる流体シミュレーション)から導き出された数値。 車体断面も徹底していて、裾や荷棚部分を削り込み、300系より1割小さい断面積10.2㎡を実現。 結果、車体は他に類を見ない"円筒形"となりました。 ■ドイツ人デザイナーの手腕この空力的要求を、あれほど美しい造形にまとめ上げたのが、ドイツの工業デザイナー、アレクサンダー・ノイマイスター氏。 ドイツの高速列車ICEなどを手掛けた、高速鉄道デザインの第一人者です。 技術の産物であるはずの形状が、どこか生命感すら漂わせているのは、氏の手腕あってこそ。 1996年にはグッドデザイン賞、1998年には鉄道友の会ブルーリボン賞と、デザイン・車両の両面で高い評価を受けました。 ■カワセミとフクロウ500系を語る上で欠かせないのが、"生き物たち"の存在です。 開発に携わったJR西日本の技術者が、日本野鳥の会の会員だったことから、自然界の知恵が随所に活かされた、と言われています。 水しぶきをほとんど立てずに水中へ飛び込む、カワセミのくちばし。 その形状が、空気の壁を切り裂くノーズ形状のヒントになったという逸話は、バイオミメティクス(生物模倣技術)の代表例として、あまりに有名です。 そしてもう一羽、フクロウ。 音もなく獲物に迫る、あの静かな羽ばたきの秘密"風切羽"は、翼型パンタグラフの支柱に並ぶボルテックスジェネレータ(渦流生成器)として応用されました。 ちなみにこのパンタグラフ、ダンパの製作はF1のショックアブソーバーで実績のあるショーワに依頼され、開発試験では、なんとホンダ・プレリュードの屋根に実物を載せて走らせ、揚力を測定したのだとか。 鳥の翼、F1、そして市販車。新幹線の常識の外側から、あらゆる知恵をかき集めて生まれたのが、500系という車両でした。 ■美しさの、代償ただし、この"完璧な形"には代償もありました。 運転席は大きく後退し、視界は制約され、先頭車の乗車口はわずか1箇所。 円筒形の車体は、窓際の空間をわずかに圧迫し、先頭車の定員は300系より12名減少…。 このあたりの"歪み"が、後に500系の運命を左右していくのですが、その話は、もう少し先に取っておきましょう。 次回、Vol.3は、「円筒形車体の光と影」。...

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