Mr.DIMER Journal
【JR九州特集・D&S列車編 Vol.4】キハ183系1000番台・特急「あそぼーい!」
「列車では静かに」なんて、誰が決めた。 子どもが主役の"走る遊び場"列車に乗ったら、静かに座る。 走り回らない。大きな声を出さない。もちろん、それは大切なことです。 でも… もし列車の方から、「もっと遊んでいいよ」と言ってきたら? そんな発想を、そのまま形にしたような列車がJR九州にあります。 熊本から阿蘇・宮地へ。真っ白な車体に、黒い犬のキャラクターがいっぱい。 その名も、 特急「あそぼーい!」 阿蘇へ行く列車であり、その名の通り、"遊ぼう!"と誘ってくる列車です。 主役は、大人じゃない。「あそぼーい!」最大の特徴。それは徹底して、 "子どもの目線"で作られていることです。 象徴的なのが3号車。 ここには親子で並んで座る専用席、「白いくろちゃんシート」が設けられています。 しかも、列車がどちら向きに走っても、子どもが窓側に座れるよう工夫されています。 普通なら、「窓側代わって!」となりそうなところですが、最初から子どもが特等席。 さらに車内には、絵本や遊びを楽しめる「くろクラブ」や、オリジナルグッズなどを扱う「KURO CAFE」もあります。 移動中、子どもに我慢させる列車ではない。 乗っている時間そのものを、家族の思い出にしてしまう。それが「あそぼーい!」です。 101匹の「くろちゃん」 そして、この列車を語るうえで欠かせないのが、黒い犬のキャラクター「くろちゃん」。車体にも、車内にも、 さまざまな表情のくろちゃんが描かれています。その数は、全部で101匹。 笑っていたり、歩いていたり、寝転んでいたり。お気に入りの一匹を探すのも、この列車ならではの楽しみです。 景色を見る。車内で遊ぶ。くろちゃんを探す。 大人が子どもを列車に乗せる”のではなく、 親子で一緒に列車を遊び尽くす。そこに「あそぼーい!」らしさがあります。 "鉄道ファンにも刺さる" もちろん、「あそぼーい!」は子どもだけの列車ではありません。1号車と4号車には、"パノラマシート"が設けられています。 大きな前面窓の向こうに、線路が伸びていく。運転席に近い感覚で、阿蘇の景色と鉄道そのものを楽しめる特等席です。...
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「列車では静かに」なんて、誰が決めた。 子どもが主役の"走る遊び場"列車に乗ったら、静かに座る。 走り回らない。大きな声を出さない。もちろん、それは大切なことです。 でも… もし列車の方から、「もっと遊んでいいよ」と言ってきたら? そんな発想を、そのまま形にしたような列車がJR九州にあります。 熊本から阿蘇・宮地へ。真っ白な車体に、黒い犬のキャラクターがいっぱい。 その名も、 特急「あそぼーい!」 阿蘇へ行く列車であり、その名の通り、"遊ぼう!"と誘ってくる列車です。 主役は、大人じゃない。「あそぼーい!」最大の特徴。それは徹底して、 "子どもの目線"で作られていることです。 象徴的なのが3号車。 ここには親子で並んで座る専用席、「白いくろちゃんシート」が設けられています。 しかも、列車がどちら向きに走っても、子どもが窓側に座れるよう工夫されています。 普通なら、「窓側代わって!」となりそうなところですが、最初から子どもが特等席。 さらに車内には、絵本や遊びを楽しめる「くろクラブ」や、オリジナルグッズなどを扱う「KURO CAFE」もあります。 移動中、子どもに我慢させる列車ではない。 乗っている時間そのものを、家族の思い出にしてしまう。それが「あそぼーい!」です。 101匹の「くろちゃん」 そして、この列車を語るうえで欠かせないのが、黒い犬のキャラクター「くろちゃん」。車体にも、車内にも、 さまざまな表情のくろちゃんが描かれています。その数は、全部で101匹。 笑っていたり、歩いていたり、寝転んでいたり。お気に入りの一匹を探すのも、この列車ならではの楽しみです。 景色を見る。車内で遊ぶ。くろちゃんを探す。 大人が子どもを列車に乗せる”のではなく、 親子で一緒に列車を遊び尽くす。そこに「あそぼーい!」らしさがあります。 "鉄道ファンにも刺さる" もちろん、「あそぼーい!」は子どもだけの列車ではありません。1号車と4号車には、"パノラマシート"が設けられています。 大きな前面窓の向こうに、線路が伸びていく。運転席に近い感覚で、阿蘇の景色と鉄道そのものを楽しめる特等席です。...
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【新幹線を作った昭和日本の心意気 Vol.1】「当たり前」の正体
--------------------------------------------暑い日々が続きますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。さて、短い"大人の夏休み"企画として、"新幹線を作った昭和日本の心意気"を5連載することと致しました。激動の昭和が生み出した"新幹線"の話。ぜひご期待下さい。-------------------------------------------- 出張で、旅行で、帰省で。 私たちは新幹線に乗ります。 改札を通り、ホームに上がり、定刻通りに滑り込んできた列車に乗る。 そして、ほぼ定刻通りに目的地へ着く。 あまりに当たり前の光景。 さて、本連載では全5回にわたり、この"当たり前"がいかにして生まれたのかを、辿ってみたいと思います。 ■世界初、という事実1964年(昭和39年)10月1日、東海道新幹線、東京~新大阪間開業。 営業最高速度210km/h。 これが、世界初の高速鉄道でした。 当時、欧州の主要幹線における最高速度はおおむね160km/h前後。 つまり新幹線は、既存の常識を一段飛ばしで超えてしまったことになります。 "高速鉄道"という概念そのものを世界に広めたのは、この東海道新幹線であったと申せましょう。 ■数字が語るもの開業から60年余。 東海道新幹線では、1日に最大400本近い列車が運転されながら、年間平均遅延時分は、わずか12秒(2019年)。 車両や設備の異常、運行側の不手際に起因する乗客の死亡事故は、一度も起きておりません。 2011年には、"最も安全な高速鉄道ネットワーク"としてギネス世界記録に認定されています。 年間利用者数、約3億6000万人。 日本の総人口の、およそ3倍。 これらの数字を前にすると、私たちの言う"当たり前"が、いかに異常な水準の上に成り立っているかが分かります。 ■もっとも、一番列車は1964年10月1日、東京駅を発った記念すべき一番列車、ひかり1号。 定員987名に対し、乗客は730名ほどであったと伝わります。 満席では、なかったのです。 世界初の高速鉄道の門出としては、いささか静かな船出。 もっともこれは、無理からぬ話でもあります。 なにせ、誰も乗ったことのない乗り物。誰も見たことのない速度。 当時の人々にとって新幹線は、"当たり前"どころか、得体の知れない挑戦だったわけです。 ■そして、忘れられていることこの計画、当初は決して歓迎されたものではありませんでした。 時代は自動車と航空機の全盛。鉄道は斜陽である、と語られた時代。 作家の阿川弘之氏曰く、莫大な投資をして新幹線を造れば"第2の戦艦大和"となり、世界の物笑いの種になる、と批判したと伝わります。...
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--------------------------------------------暑い日々が続きますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。さて、短い"大人の夏休み"企画として、"新幹線を作った昭和日本の心意気"を5連載することと致しました。激動の昭和が生み出した"新幹線"の話。ぜひご期待下さい。-------------------------------------------- 出張で、旅行で、帰省で。 私たちは新幹線に乗ります。 改札を通り、ホームに上がり、定刻通りに滑り込んできた列車に乗る。 そして、ほぼ定刻通りに目的地へ着く。 あまりに当たり前の光景。 さて、本連載では全5回にわたり、この"当たり前"がいかにして生まれたのかを、辿ってみたいと思います。 ■世界初、という事実1964年(昭和39年)10月1日、東海道新幹線、東京~新大阪間開業。 営業最高速度210km/h。 これが、世界初の高速鉄道でした。 当時、欧州の主要幹線における最高速度はおおむね160km/h前後。 つまり新幹線は、既存の常識を一段飛ばしで超えてしまったことになります。 "高速鉄道"という概念そのものを世界に広めたのは、この東海道新幹線であったと申せましょう。 ■数字が語るもの開業から60年余。 東海道新幹線では、1日に最大400本近い列車が運転されながら、年間平均遅延時分は、わずか12秒(2019年)。 車両や設備の異常、運行側の不手際に起因する乗客の死亡事故は、一度も起きておりません。 2011年には、"最も安全な高速鉄道ネットワーク"としてギネス世界記録に認定されています。 年間利用者数、約3億6000万人。 日本の総人口の、およそ3倍。 これらの数字を前にすると、私たちの言う"当たり前"が、いかに異常な水準の上に成り立っているかが分かります。 ■もっとも、一番列車は1964年10月1日、東京駅を発った記念すべき一番列車、ひかり1号。 定員987名に対し、乗客は730名ほどであったと伝わります。 満席では、なかったのです。 世界初の高速鉄道の門出としては、いささか静かな船出。 もっともこれは、無理からぬ話でもあります。 なにせ、誰も乗ったことのない乗り物。誰も見たことのない速度。 当時の人々にとって新幹線は、"当たり前"どころか、得体の知れない挑戦だったわけです。 ■そして、忘れられていることこの計画、当初は決して歓迎されたものではありませんでした。 時代は自動車と航空機の全盛。鉄道は斜陽である、と語られた時代。 作家の阿川弘之氏曰く、莫大な投資をして新幹線を造れば"第2の戦艦大和"となり、世界の物笑いの種になる、と批判したと伝わります。...
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【続・列車種別】まだまだある、速そうな種別集
みなさまから頂いた沢山のコメントから、先回の記事でご紹介していない種別が多く寄せられましたので、ご紹介します。 現役の種別のみならず、過去に存在した種別を含めると、多種多様。 しかし、速いのか、遅いのか、よくわからない種別も多く見られ、やはり"列車種別"は深みがあるなぁと感じるところです。 ■頂いたコメントで新たに把握した"列車種別"超特急 …言わずもがな、夢の超特急「新幹線ひかり号」!最大急行最急行超快速高速準特急ライナー連絡特急通勤特急通勤急行通勤快速直通特急S特急区間特急特別準急快速準急区間快速急行スキップ準急 …小田急電鉄社内用語 改めますと、やはり列車種別史上、最速の、と申しますか、最も憧れの的であった種別は"夢の新幹線ひかり号"たる"超特急"と言えるかもしれませんね。 (Mr.DIMER編集長)
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みなさまから頂いた沢山のコメントから、先回の記事でご紹介していない種別が多く寄せられましたので、ご紹介します。 現役の種別のみならず、過去に存在した種別を含めると、多種多様。 しかし、速いのか、遅いのか、よくわからない種別も多く見られ、やはり"列車種別"は深みがあるなぁと感じるところです。 ■頂いたコメントで新たに把握した"列車種別"超特急 …言わずもがな、夢の超特急「新幹線ひかり号」!最大急行最急行超快速高速準特急ライナー連絡特急通勤特急通勤急行通勤快速直通特急S特急区間特急特別準急快速準急区間快速急行スキップ準急 …小田急電鉄社内用語 改めますと、やはり列車種別史上、最速の、と申しますか、最も憧れの的であった種別は"夢の新幹線ひかり号"たる"超特急"と言えるかもしれませんね。 (Mr.DIMER編集長)
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【JR九州特集・D&S列車編Vol.3】キハ47形「指宿のたまて箱」
”開いた瞬間、南国の旅が始まる。国鉄型キハ47が演じる竜宮伝説「指宿のたまて箱」” 鹿児島中央駅のホームに現れる、白と黒の奇妙な列車。海側は、まぶしいほどの白。山側は、漆黒の黒。 正面から見ると、その車体は真ん中から見事に二つへと分かれています。まるで、時間を境に姿を変えてしまったかのように。 この列車の名は、特急”「指宿のたまて箱」”愛称は「いぶたま」。 鹿児島中央駅と、砂むし温泉で知られる指宿駅を結ぶ、JR九州のD&S列車です。 しかし、この白黒の姿は、単に目立つためだけのデザインではありません。 モチーフとなったのは、誰もが知る浦島太郎の物語。 黒髪だった浦島太郎が、玉手箱を開けた瞬間白髪の老人へと変わってしまう。 その“黒から白への変化”を、車体そのものを使って表現しているのです。 そして駅に到着し、扉が開くと・・・車体上部から、ふわりと白いミストが噴き出します。 玉手箱から立ち上る、あの白い煙。乗客は列車に乗る前から、竜宮伝説の世界へと誘われるのです。 「指宿のたまて箱」が運行を開始したのは、2011年3月12日。九州新幹線鹿児島ルートが全線開業した、まさにその日でした。 新幹線によって近くなった鹿児島から、その先にある指宿へ。新幹線の速さを、南薩摩の旅へとつなげる役割を託された列車だったのです。 それまで指宿枕崎線では、特別快速「なのはなDX」が観光輸送を担っていました。その役目を引き継ぎながら、単なる速達列車ではなく、乗ること自体を目的にした観光特急として誕生したのが「指宿のたまて箱」でした。 2026年3月には、運行開始から15周年を迎えています。使用されているのは、国鉄時代に誕生したキハ47形。キハ47 8060とキハ47 9079を中心とした編成で、多客期や車両検査時にはキハ140 2066が加わることもあります。 華やかな観光列車の姿をしていますが、その中身に流れているのは、かつて全国の非電化路線を支えた国鉄型気動車の血。 重厚なエンジン音を響かせながら走る姿には、最新型の特急車両にはない、不器用なまでの力強さがあります。古い車両を隠すのではなく、その骨格を生かし、まったく新しい旅の舞台へと作り替える。 これもまた、JR九州のD&S列車らしい魅力なのです。車内へ入ると、国鉄型の面影は一変します。 デザインを手掛けたのは、JR九州の数々の観光列車を生み出してきた水戸岡鋭治氏。 1号車には、客船やヨットにも使われるチーク材。2号車には、南九州産の杉材。 木の香りと温もりに包まれた車内には、一般的なリクライニングシートだけでなく、ボックス席やソファー席、子ども向けのキッズチェアまで用意されています。 なかでも、この列車の特等席といえるのが、海側の窓を向いたカウンター席。列車の進行方向ではなく、錦江湾の方を向いて座る。それだけで、車窓は“通り過ぎる景色”から、“向き合う景色”へと変わります。 鹿児島中央駅を出発した列車は、指宿枕崎線を南へ。市街地を抜けると、やがて車窓いっぱいに錦江湾が広がります。 海の向こうには、鹿児島の象徴・桜島。穏やかな海面。南国らしい光。 湾岸に沿ってゆっくりと走る国鉄型気動車。目的地までの時間は、わずか一時間足らず。 それでも「指宿のたまて箱」では、その短い時間の中に、列車旅の楽しさが凝縮されています。速さを競う新幹線から乗り換え、今度は景色を見るために、あえてゆっくり走る。この速度の変化こそ、指宿への旅の本当の始まりなのかもしれません。 終着の指宿には、砂むし温泉や開聞岳、そして浦島太郎伝説が残る長崎鼻があります。...
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”開いた瞬間、南国の旅が始まる。国鉄型キハ47が演じる竜宮伝説「指宿のたまて箱」” 鹿児島中央駅のホームに現れる、白と黒の奇妙な列車。海側は、まぶしいほどの白。山側は、漆黒の黒。 正面から見ると、その車体は真ん中から見事に二つへと分かれています。まるで、時間を境に姿を変えてしまったかのように。 この列車の名は、特急”「指宿のたまて箱」”愛称は「いぶたま」。 鹿児島中央駅と、砂むし温泉で知られる指宿駅を結ぶ、JR九州のD&S列車です。 しかし、この白黒の姿は、単に目立つためだけのデザインではありません。 モチーフとなったのは、誰もが知る浦島太郎の物語。 黒髪だった浦島太郎が、玉手箱を開けた瞬間白髪の老人へと変わってしまう。 その“黒から白への変化”を、車体そのものを使って表現しているのです。 そして駅に到着し、扉が開くと・・・車体上部から、ふわりと白いミストが噴き出します。 玉手箱から立ち上る、あの白い煙。乗客は列車に乗る前から、竜宮伝説の世界へと誘われるのです。 「指宿のたまて箱」が運行を開始したのは、2011年3月12日。九州新幹線鹿児島ルートが全線開業した、まさにその日でした。 新幹線によって近くなった鹿児島から、その先にある指宿へ。新幹線の速さを、南薩摩の旅へとつなげる役割を託された列車だったのです。 それまで指宿枕崎線では、特別快速「なのはなDX」が観光輸送を担っていました。その役目を引き継ぎながら、単なる速達列車ではなく、乗ること自体を目的にした観光特急として誕生したのが「指宿のたまて箱」でした。 2026年3月には、運行開始から15周年を迎えています。使用されているのは、国鉄時代に誕生したキハ47形。キハ47 8060とキハ47 9079を中心とした編成で、多客期や車両検査時にはキハ140 2066が加わることもあります。 華やかな観光列車の姿をしていますが、その中身に流れているのは、かつて全国の非電化路線を支えた国鉄型気動車の血。 重厚なエンジン音を響かせながら走る姿には、最新型の特急車両にはない、不器用なまでの力強さがあります。古い車両を隠すのではなく、その骨格を生かし、まったく新しい旅の舞台へと作り替える。 これもまた、JR九州のD&S列車らしい魅力なのです。車内へ入ると、国鉄型の面影は一変します。 デザインを手掛けたのは、JR九州の数々の観光列車を生み出してきた水戸岡鋭治氏。 1号車には、客船やヨットにも使われるチーク材。2号車には、南九州産の杉材。 木の香りと温もりに包まれた車内には、一般的なリクライニングシートだけでなく、ボックス席やソファー席、子ども向けのキッズチェアまで用意されています。 なかでも、この列車の特等席といえるのが、海側の窓を向いたカウンター席。列車の進行方向ではなく、錦江湾の方を向いて座る。それだけで、車窓は“通り過ぎる景色”から、“向き合う景色”へと変わります。 鹿児島中央駅を出発した列車は、指宿枕崎線を南へ。市街地を抜けると、やがて車窓いっぱいに錦江湾が広がります。 海の向こうには、鹿児島の象徴・桜島。穏やかな海面。南国らしい光。 湾岸に沿ってゆっくりと走る国鉄型気動車。目的地までの時間は、わずか一時間足らず。 それでも「指宿のたまて箱」では、その短い時間の中に、列車旅の楽しさが凝縮されています。速さを競う新幹線から乗り換え、今度は景色を見るために、あえてゆっくり走る。この速度の変化こそ、指宿への旅の本当の始まりなのかもしれません。 終着の指宿には、砂むし温泉や開聞岳、そして浦島太郎伝説が残る長崎鼻があります。...
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【JR九州特集・D&S列車編 Vol.1】キハ71系「ゆふいんの森Ⅰ世」
優雅な“森”の名の奥には、国鉄型の鼓動がある。キハ71系「ゆふいんの森Ⅰ世」 九州を走る、個性豊かな観光列車たち。 いまやJR九州といえば、単なる移動手段では終わらない、独創的な列車を次々と生み出す鉄道会社として知られています。 JR九州では、こうした観光列車を「D&S列車」と呼んでいます。 「D」は、特別なデザインを意味するDesign。 「S」は、沿線地域に伝わる歴史や文化、物語を意味するStory。 つまりD&S列車とは、“デザインと物語のある列車”なのです。 しかし、その壮大な物語にも始まりがありました。まだ「D&S列車」という言葉が広く使われるより、はるか前。 国鉄が分割民営化されJR九州が発足してから、わずか2年。九州の鉄道そのものを変える一編成の列車が、久大本線に姿を現します。 1989年3月11日。 特急「ゆふいんの森」。 現在、JR九州から“九州初のD&S列車”と位置付けられている、キハ71系「ゆふいんの森Ⅰ世」の誕生です。 「列車は、目的地へ向かうためだけのものだった」 かつて列車に求められたものは、速さと輸送力でした。決められた時刻に発車し、できるだけ速く、多くの乗客を目的地まで運ぶ。特急列車であれば、普通列車より速く、急行列車より快適に走ることが、その価値だったのです。しかし「ゆふいんの森」は、そこへまったく違う考え方を持ち込みました。 目的地へ到着してから、観光が始まるのではない。列車の扉をくぐった、その瞬間から旅を始める。 掲げられたテーマは、 「列車に乗った時からゆふいん」 でした。博多駅から由布院駅までは、およそ2時間あまり。それまでなら、目的地へ向かうための“移動時間”と考えられていた時間です。しかし「ゆふいんの森」は、その時間さえも観光へ変えました。 深いメタリックグリーンの車体。金色の帯。ヨーロッパの列車を思わせる、優雅で流麗な姿。木の温もりを感じさせる車内。 高い位置に設けられた客室から眺める、久大本線の山々と渓谷。列車そのものが、由布院という目的地の世界観をまとっていたのです。 速さだけではない。新しさだけでもない。 ”乗客の記憶に、どれだけ深く残るか” 「ゆふいんの森」は、列車の価値そのものを変えようとしていました。 「D&S列車の歴史は、この“森”から始まった」 1987年4月、国鉄分割民営化によってJR九州が発足しました。新しく生まれた会社にとって、九州新幹線はまだ遠い未来の話。 受け継いだ車両の多くは国鉄型であり、路線網も設備も、国鉄時代から続くものでした。 では、新しいJR九州らしさを、どこで表現するのか。そこで同社が打ち出したのが、列車そのものに地域の個性を持たせるという発想でした。 九州には、温泉がある。山がある。海がある。神話がある。歴史がある。 そして、それぞれの路線沿線に、そこでしか出会えない物語がある。列車を、ただ地域へ乗客を運ぶ道具として使うのではない。 ”列車そのものを、地域の魅力を伝える舞台にする”...
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優雅な“森”の名の奥には、国鉄型の鼓動がある。キハ71系「ゆふいんの森Ⅰ世」 九州を走る、個性豊かな観光列車たち。 いまやJR九州といえば、単なる移動手段では終わらない、独創的な列車を次々と生み出す鉄道会社として知られています。 JR九州では、こうした観光列車を「D&S列車」と呼んでいます。 「D」は、特別なデザインを意味するDesign。 「S」は、沿線地域に伝わる歴史や文化、物語を意味するStory。 つまりD&S列車とは、“デザインと物語のある列車”なのです。 しかし、その壮大な物語にも始まりがありました。まだ「D&S列車」という言葉が広く使われるより、はるか前。 国鉄が分割民営化されJR九州が発足してから、わずか2年。九州の鉄道そのものを変える一編成の列車が、久大本線に姿を現します。 1989年3月11日。 特急「ゆふいんの森」。 現在、JR九州から“九州初のD&S列車”と位置付けられている、キハ71系「ゆふいんの森Ⅰ世」の誕生です。 「列車は、目的地へ向かうためだけのものだった」 かつて列車に求められたものは、速さと輸送力でした。決められた時刻に発車し、できるだけ速く、多くの乗客を目的地まで運ぶ。特急列車であれば、普通列車より速く、急行列車より快適に走ることが、その価値だったのです。しかし「ゆふいんの森」は、そこへまったく違う考え方を持ち込みました。 目的地へ到着してから、観光が始まるのではない。列車の扉をくぐった、その瞬間から旅を始める。 掲げられたテーマは、 「列車に乗った時からゆふいん」 でした。博多駅から由布院駅までは、およそ2時間あまり。それまでなら、目的地へ向かうための“移動時間”と考えられていた時間です。しかし「ゆふいんの森」は、その時間さえも観光へ変えました。 深いメタリックグリーンの車体。金色の帯。ヨーロッパの列車を思わせる、優雅で流麗な姿。木の温もりを感じさせる車内。 高い位置に設けられた客室から眺める、久大本線の山々と渓谷。列車そのものが、由布院という目的地の世界観をまとっていたのです。 速さだけではない。新しさだけでもない。 ”乗客の記憶に、どれだけ深く残るか” 「ゆふいんの森」は、列車の価値そのものを変えようとしていました。 「D&S列車の歴史は、この“森”から始まった」 1987年4月、国鉄分割民営化によってJR九州が発足しました。新しく生まれた会社にとって、九州新幹線はまだ遠い未来の話。 受け継いだ車両の多くは国鉄型であり、路線網も設備も、国鉄時代から続くものでした。 では、新しいJR九州らしさを、どこで表現するのか。そこで同社が打ち出したのが、列車そのものに地域の個性を持たせるという発想でした。 九州には、温泉がある。山がある。海がある。神話がある。歴史がある。 そして、それぞれの路線沿線に、そこでしか出会えない物語がある。列車を、ただ地域へ乗客を運ぶ道具として使うのではない。 ”列車そのものを、地域の魅力を伝える舞台にする”...
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【国鉄名車列伝】国鉄屈指の魔改造車・クモハ123形
カネはない。新車を造る余裕もない。しかし、ローカル線を走らせる車両は必要だった。 そんな国鉄末期に誕生したのが、クモハ123形です。その正体は、最初から旅客輸送のために造られた電車ではありません。 荷物を運んでいたクモニ143形。郵便物と荷物を運んでいたクモユニ147形。そして、車両基地で電車を牽引していたクモヤ145形。 本来なら、その役目を終えた時点で廃車になっていても不思議ではなかった事業用電車たちでした。ところが国鉄は、彼らを簡単には捨てませんでした。 「荷物を運ばなくなったのなら、人を乗せればいい。」 1986年11月、国鉄の鉄道荷物輸送が大幅に廃止されると、それまで全国を走っていた荷物電車が一気に余剰となりました。 一方で、利用者の少ない電化ローカル線では、長い編成を走らせるほどの需要はない。かといって、電車を走らせなければ路線そのものが成り立たない。そこで国鉄が目を付けたのが、1両だけで走ることのできる荷物電車でした。 荷物室を撤去する。窓を開ける。乗降用の扉を取り付ける。座席、つり革、荷棚、照明を設置する。そして形式名の「クモニ」や「クモユニ」から、旅客車を示す「クモハ」へ。 こうして、昨日まで荷物を運んでいた電車は、突然ローカル線の普通列車として走り始めたのです。クモハ123形は、1986年から1988年にかけて13両が改造されました。 ■同じ形式なのに、顔も扉も窓も違うクモハ123形のおもしろさは、単なる改造車で終わらないところにあります。同じ「クモハ123形」を名乗りながら、種車が統一されていないのです。 クモニ143形から生まれた車両。クモユニ147形から生まれた車両。クモヤ145形から生まれた車両。 当然、元の車体構造も性能も異なります。そのため、前面が貫通形の車両もあれば、非貫通形の車両もある。片開き扉もあれば、両開き扉もある。窓の大きさも、扉の位置も、冷房装置も違う。もはや一つの形式というより、 「1両で走れる余剰車両を、旅客車に改造してまとめた集団」 と表現したほうが近いかもしれません。国鉄の標準化思想はどこへ行ったのか。そんな疑問さえ吹き飛ばすほど、クモハ123形は個性の塊でした。しかし、そのバラバラさこそが、この車両最大の魅力なのです。 ■元荷物電車の面影側面を眺めると、どこか普通の電車とは違う。窓が妙に少ない。扉の配置が不自然。車体の一部が埋められ、後から切り開いたような跡が残る。 旅客車として美しく整えられたというより、荷物電車の骨格を残したまま、必要な設備だけを取り付けた姿。それはまるで、作業着の上から無理やり制服を着せられた電車。けれども、決して粗末な車両だったわけではありません。 単行運転が可能な電動車であることを生かし、輸送量の少ない路線を1両で走る。必要に応じて連結し、ラッシュ時には乗客を運ぶ。 余剰車両を活用しながら、新車を投入するよりも少ない費用でローカル線の近代化を進める。見た目は強引ですが、一方で、その発想は極めて合理的でした。 ■103系のクハまで引き連れた異端児なかでも異彩を放ったのが、阪和線の羽衣支線に投入されたクモハ123-5・6です。 この2両はクモニ143形から改造され、ラッシュ時には103系の制御車を連結して運転するという、極めて珍しい運用にも対応していました。そのため、103系との連結に必要なジャンパ連結器を装備し、相手となる制御車へ冷房用電源を供給する機能まで備えていました。元荷物電車が旅客車へ改造され、さらに通勤電車の先頭車を引き連れて走る。 ここまで来ると、もはや魔改造という言葉だけでは足りません。 使えるものは、何でも使う。つなげられるものは、つないで走らせる。国鉄末期の技術者たちの執念が、そこには詰まっていました。 クモハ123形は、特急列車のように脚光を浴びた車両ではありません。 最高速度を競ったわけでもない。豪華な座席があるわけでもない。華やかな愛称もない。ただ、1両で淡々とローカル線を走り続けました。 中央本線の辰野支線。身延線。羽衣支線。可部線。宇野線。そして、宇部線・小野田線。配置された線区も、塗装も、改造内容も異なりながら、それぞれの土地で日常の足を支えてきました。2026年現在も、JR西日本に継承された車両が宇部線・小野田線で運用されています。 国鉄が消滅してから、すでに長い年月が過ぎました。それでも、かつて荷物を運んだ車体は、今も人を乗せて走っています。 ■国鉄一の魔改造車国鉄には、とんでもない経歴を持つ車両が数多く存在しました。しかし、クモハ123形ほど国鉄末期の事情を、その車体すべてで語っている車両はないのではないでしょうか。 種車はバラバラ。外観もバラバラ。扉も窓もバラバラ。けれど、その目的だけは共通していました。 ■余った車両を、もう一度走らせること昨日まで荷物を運んでいた電車に座席を置き、「今日から君は普通列車だ」と、再び本線へ送り出す。 そこにあるのは、優雅な設計思想ではありません。あるのは、カネのない国鉄が生き残るために絞り出した知恵と、車両を簡単には捨てなかった技術者たちの意地です。...
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カネはない。新車を造る余裕もない。しかし、ローカル線を走らせる車両は必要だった。 そんな国鉄末期に誕生したのが、クモハ123形です。その正体は、最初から旅客輸送のために造られた電車ではありません。 荷物を運んでいたクモニ143形。郵便物と荷物を運んでいたクモユニ147形。そして、車両基地で電車を牽引していたクモヤ145形。 本来なら、その役目を終えた時点で廃車になっていても不思議ではなかった事業用電車たちでした。ところが国鉄は、彼らを簡単には捨てませんでした。 「荷物を運ばなくなったのなら、人を乗せればいい。」 1986年11月、国鉄の鉄道荷物輸送が大幅に廃止されると、それまで全国を走っていた荷物電車が一気に余剰となりました。 一方で、利用者の少ない電化ローカル線では、長い編成を走らせるほどの需要はない。かといって、電車を走らせなければ路線そのものが成り立たない。そこで国鉄が目を付けたのが、1両だけで走ることのできる荷物電車でした。 荷物室を撤去する。窓を開ける。乗降用の扉を取り付ける。座席、つり革、荷棚、照明を設置する。そして形式名の「クモニ」や「クモユニ」から、旅客車を示す「クモハ」へ。 こうして、昨日まで荷物を運んでいた電車は、突然ローカル線の普通列車として走り始めたのです。クモハ123形は、1986年から1988年にかけて13両が改造されました。 ■同じ形式なのに、顔も扉も窓も違うクモハ123形のおもしろさは、単なる改造車で終わらないところにあります。同じ「クモハ123形」を名乗りながら、種車が統一されていないのです。 クモニ143形から生まれた車両。クモユニ147形から生まれた車両。クモヤ145形から生まれた車両。 当然、元の車体構造も性能も異なります。そのため、前面が貫通形の車両もあれば、非貫通形の車両もある。片開き扉もあれば、両開き扉もある。窓の大きさも、扉の位置も、冷房装置も違う。もはや一つの形式というより、 「1両で走れる余剰車両を、旅客車に改造してまとめた集団」 と表現したほうが近いかもしれません。国鉄の標準化思想はどこへ行ったのか。そんな疑問さえ吹き飛ばすほど、クモハ123形は個性の塊でした。しかし、そのバラバラさこそが、この車両最大の魅力なのです。 ■元荷物電車の面影側面を眺めると、どこか普通の電車とは違う。窓が妙に少ない。扉の配置が不自然。車体の一部が埋められ、後から切り開いたような跡が残る。 旅客車として美しく整えられたというより、荷物電車の骨格を残したまま、必要な設備だけを取り付けた姿。それはまるで、作業着の上から無理やり制服を着せられた電車。けれども、決して粗末な車両だったわけではありません。 単行運転が可能な電動車であることを生かし、輸送量の少ない路線を1両で走る。必要に応じて連結し、ラッシュ時には乗客を運ぶ。 余剰車両を活用しながら、新車を投入するよりも少ない費用でローカル線の近代化を進める。見た目は強引ですが、一方で、その発想は極めて合理的でした。 ■103系のクハまで引き連れた異端児なかでも異彩を放ったのが、阪和線の羽衣支線に投入されたクモハ123-5・6です。 この2両はクモニ143形から改造され、ラッシュ時には103系の制御車を連結して運転するという、極めて珍しい運用にも対応していました。そのため、103系との連結に必要なジャンパ連結器を装備し、相手となる制御車へ冷房用電源を供給する機能まで備えていました。元荷物電車が旅客車へ改造され、さらに通勤電車の先頭車を引き連れて走る。 ここまで来ると、もはや魔改造という言葉だけでは足りません。 使えるものは、何でも使う。つなげられるものは、つないで走らせる。国鉄末期の技術者たちの執念が、そこには詰まっていました。 クモハ123形は、特急列車のように脚光を浴びた車両ではありません。 最高速度を競ったわけでもない。豪華な座席があるわけでもない。華やかな愛称もない。ただ、1両で淡々とローカル線を走り続けました。 中央本線の辰野支線。身延線。羽衣支線。可部線。宇野線。そして、宇部線・小野田線。配置された線区も、塗装も、改造内容も異なりながら、それぞれの土地で日常の足を支えてきました。2026年現在も、JR西日本に継承された車両が宇部線・小野田線で運用されています。 国鉄が消滅してから、すでに長い年月が過ぎました。それでも、かつて荷物を運んだ車体は、今も人を乗せて走っています。 ■国鉄一の魔改造車国鉄には、とんでもない経歴を持つ車両が数多く存在しました。しかし、クモハ123形ほど国鉄末期の事情を、その車体すべてで語っている車両はないのではないでしょうか。 種車はバラバラ。外観もバラバラ。扉も窓もバラバラ。けれど、その目的だけは共通していました。 ■余った車両を、もう一度走らせること昨日まで荷物を運んでいた電車に座席を置き、「今日から君は普通列車だ」と、再び本線へ送り出す。 そこにあるのは、優雅な設計思想ではありません。あるのは、カネのない国鉄が生き残るために絞り出した知恵と、車両を簡単には捨てなかった技術者たちの意地です。...
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