Mr.DIMER Journal
【東海道新幹線】700系は生きている?!
<引退した新幹線が、東京駅で第二の人生を送っている> 1999年に営業運転を開始し、長らく東海道新幹線の主力として活躍した700系。 N700系への置き換えにより、JR東海所属車は2020年に東海道新幹線から姿を消しました。 ところが―― その700系、実はいまも東京駅で「生きています(活きている?)」。 東京駅八重洲北口にある「東京ギフトパレット」。 柱や壁、天井を彩る桜の装飾、さらには店舗のカウンターなどに、かつて700系の車体だったアルミニウムが使用されています。 アルミ製の鉄道車両は、そのまま溶かせば再びアルミになる……と思ってしまうところですが、実際には塗装やボルトなどが付着しているため、高品質なアルミだけを取り出すことは容易ではありません。 従来、廃車となった新幹線のアルミは鉄を製造する際の添加剤などとして利用されていました。 そこで開発されたのが、車体からアルミニウムを分別して再生する技術です。 こうして700系の車体は細かく砕かれ、再びアルミニウムの素材へ。 東京ギフトパレットでは、「のれん」を模した装飾に700系アルミを50%、桜の装飾には20%を使用。 さらに柱や壁、スターバックスのカウンターの一部には、700系由来のアルミニウムが100%使用されています。 東京駅を歩いていて目にするその金属。 もしかすると、かつて270km/hで東海道を駆け抜けていた700系のソレかも知れません。 鉄道車両としての役目を終えても、その素材まで消えてしまったわけではない。 東海道新幹線の700系は、姿を変えて、いまも東京駅に残っています。 (Mr.DIMER編集長)
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<引退した新幹線が、東京駅で第二の人生を送っている> 1999年に営業運転を開始し、長らく東海道新幹線の主力として活躍した700系。 N700系への置き換えにより、JR東海所属車は2020年に東海道新幹線から姿を消しました。 ところが―― その700系、実はいまも東京駅で「生きています(活きている?)」。 東京駅八重洲北口にある「東京ギフトパレット」。 柱や壁、天井を彩る桜の装飾、さらには店舗のカウンターなどに、かつて700系の車体だったアルミニウムが使用されています。 アルミ製の鉄道車両は、そのまま溶かせば再びアルミになる……と思ってしまうところですが、実際には塗装やボルトなどが付着しているため、高品質なアルミだけを取り出すことは容易ではありません。 従来、廃車となった新幹線のアルミは鉄を製造する際の添加剤などとして利用されていました。 そこで開発されたのが、車体からアルミニウムを分別して再生する技術です。 こうして700系の車体は細かく砕かれ、再びアルミニウムの素材へ。 東京ギフトパレットでは、「のれん」を模した装飾に700系アルミを50%、桜の装飾には20%を使用。 さらに柱や壁、スターバックスのカウンターの一部には、700系由来のアルミニウムが100%使用されています。 東京駅を歩いていて目にするその金属。 もしかすると、かつて270km/hで東海道を駆け抜けていた700系のソレかも知れません。 鉄道車両としての役目を終えても、その素材まで消えてしまったわけではない。 東海道新幹線の700系は、姿を変えて、いまも東京駅に残っています。 (Mr.DIMER編集長)
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【国鉄名車列伝】119系・飯田線のために生まれた、“最後の旧形国電キラー”
「飯田線の旧形国電を、まとめて置き換える。」 119系の物語は、そこから始まりました。 豊橋から辰野までを結ぶ飯田線。全長は約195km。山あいを縫うように走り、駅の数は90を超える。急勾配や急曲線が連続し、駅間も短い。一方で、区間によって利用者数には大きな差があります。 そんな飯田線を長年支えていたのが、クモハ52形やクモハ54形、クモハ60形などに代表される旧形国電でした。 戦前生まれの車両まで現役で走る姿は、後年には飯田線の名物にもなります。 しかし1980年代に入ると、さすがに老朽化は限界に近づいていました。 そこで国鉄が送り込んだ新型車両。それが”119系”です。 「飯田線専用として誕生」 119系が登場したのは1982年。最大の特徴は、最初から飯田線での使用を強く意識して設計されたことでした。 基本編成は、クモハ119+クハ118の2両編成。 輸送量の少ない区間でも扱いやすく、必要に応じて編成を組み合わせることもできます。 車体は片側3扉。室内はロングシートを基本とし、頻繁な乗り降りにも対応しました。華やかな設備はありません。しかし、その割り切りこそ119系の個性でした。 「なぜ飯田線には専用車が必要だったのか」 飯田線は、ただの地方ローカル線ではありません。山岳区間が長く、勾配が続く。駅が多いため、発車しては停まり、また発車する。 さらに長距離路線でありながら、実際の利用は区間利用が中心です。つまり、「高速性能よりも、短い編成で確実に走れること」の方が重要でした。 119系では、低速域で十分な牽引力を得るため、主電動機に”MT55A形”を採用。 通勤形電車103系などで使われたMT55系列ですが、119系では飯田線向けの走行条件に合わせた性能設定が行われています。 さらに急勾配の下りに備えて、”抑速ブレーキ”も装備。見た目は地味でも、中身はかなり明確に「飯田線仕様」だったのです。 「旧形国電の楽園を終わらせた電車」鉄道ファンの目線で見ると、119系の登場には少し複雑なものがあります。 なぜなら119系が投入されたことで、飯田線に残っていた旧形国電が一気に姿を消していったからです。 戦前形。戦後直後の車両。流電と呼ばれたクモハ52形。 長い年月を生き抜いてきた電車たちが、新車の119系に置き換えられていく。 合理化という意味では当然の世代交代でした。しかし結果として119系は、 「旧形国電の楽園・飯田線に終止符を打った車両」でもありました。 登場当時の鉄道ファンからすれば、少々憎まれ役だったかもしれません。 ところが面白いことに、その119系自身も年月を重ねるにつれ、今度は「国鉄型」として惜しまれる存在になっていきます。 「国鉄からJR東海へ」 1987年。国鉄が分割民営化されると、119系は全車がJR東海へ継承されました。 登場時は青地に灰色帯という、独特の塗装。その後は白地にオレンジと緑のJR東海色へ姿を変えていきます。 さらに一部の車両はワンマン運転に対応。 クモハ119を両運転台化したクモハ119形5100番台も登場し、より少ない輸送量にも対応できる車両へ変化しました。飯田線の環境に合わせながら、119系は少しずつ姿を変えていったのです。...
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「飯田線の旧形国電を、まとめて置き換える。」 119系の物語は、そこから始まりました。 豊橋から辰野までを結ぶ飯田線。全長は約195km。山あいを縫うように走り、駅の数は90を超える。急勾配や急曲線が連続し、駅間も短い。一方で、区間によって利用者数には大きな差があります。 そんな飯田線を長年支えていたのが、クモハ52形やクモハ54形、クモハ60形などに代表される旧形国電でした。 戦前生まれの車両まで現役で走る姿は、後年には飯田線の名物にもなります。 しかし1980年代に入ると、さすがに老朽化は限界に近づいていました。 そこで国鉄が送り込んだ新型車両。それが”119系”です。 「飯田線専用として誕生」 119系が登場したのは1982年。最大の特徴は、最初から飯田線での使用を強く意識して設計されたことでした。 基本編成は、クモハ119+クハ118の2両編成。 輸送量の少ない区間でも扱いやすく、必要に応じて編成を組み合わせることもできます。 車体は片側3扉。室内はロングシートを基本とし、頻繁な乗り降りにも対応しました。華やかな設備はありません。しかし、その割り切りこそ119系の個性でした。 「なぜ飯田線には専用車が必要だったのか」 飯田線は、ただの地方ローカル線ではありません。山岳区間が長く、勾配が続く。駅が多いため、発車しては停まり、また発車する。 さらに長距離路線でありながら、実際の利用は区間利用が中心です。つまり、「高速性能よりも、短い編成で確実に走れること」の方が重要でした。 119系では、低速域で十分な牽引力を得るため、主電動機に”MT55A形”を採用。 通勤形電車103系などで使われたMT55系列ですが、119系では飯田線向けの走行条件に合わせた性能設定が行われています。 さらに急勾配の下りに備えて、”抑速ブレーキ”も装備。見た目は地味でも、中身はかなり明確に「飯田線仕様」だったのです。 「旧形国電の楽園を終わらせた電車」鉄道ファンの目線で見ると、119系の登場には少し複雑なものがあります。 なぜなら119系が投入されたことで、飯田線に残っていた旧形国電が一気に姿を消していったからです。 戦前形。戦後直後の車両。流電と呼ばれたクモハ52形。 長い年月を生き抜いてきた電車たちが、新車の119系に置き換えられていく。 合理化という意味では当然の世代交代でした。しかし結果として119系は、 「旧形国電の楽園・飯田線に終止符を打った車両」でもありました。 登場当時の鉄道ファンからすれば、少々憎まれ役だったかもしれません。 ところが面白いことに、その119系自身も年月を重ねるにつれ、今度は「国鉄型」として惜しまれる存在になっていきます。 「国鉄からJR東海へ」 1987年。国鉄が分割民営化されると、119系は全車がJR東海へ継承されました。 登場時は青地に灰色帯という、独特の塗装。その後は白地にオレンジと緑のJR東海色へ姿を変えていきます。 さらに一部の車両はワンマン運転に対応。 クモハ119を両運転台化したクモハ119形5100番台も登場し、より少ない輸送量にも対応できる車両へ変化しました。飯田線の環境に合わせながら、119系は少しずつ姿を変えていったのです。...
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【惜別。500系新幹線電車 Vol.3】円筒形車体の光と影
<史上空前のスペックと、その代償> 第3回は、500系という車両の“中身”の話。 500系が到達した性能と、その裏側にあった代償。 その両方を見て参りましょう。 ■地上最強の16両 500系のスペックは、今日(こんにち)振り返っても圧巻です。 0系以来となる、16両全車電動車。 64基のモーターが叩き出す編成出力は、W1編成で実に18,240kW。 W2編成以降でも17,600kWを誇り、300系の約1.5倍という、当時の高速鉄道車両として破格の出力を備えていました。 平坦線での均衡速度は365km/h。 発車からわずか4分程度で300km/hに到達する加速力は、曲線の多い山陽新幹線において、 “減速しても、すぐ取り返せる” という大きな武器となりました。 ■ハニカム構造という贅沢 車体も特別です。 側構体と床構体には、厚さ30mmのアルミハニカムパネルを採用。 六角形のハニカムコアを2枚のアルミ合金で挟み、ろう付けして組み上げる構造です。 高剛性と軽量化、防音性を同時に実現し、車体構体だけで、1両あたり300系比0.6tの軽量化に成功。 床下機器はユニット化され、車体形状に合わせたカバーで覆う「新ボディマウント構造」を採用しました。 さらに、ドアは閉じると車体と面一になるプラグドアとし、車体表面を徹底的に平滑化。 まさに、贅を尽くした造りです。 しかし、この贅沢さこそが、500系にとって“影”にもなります。 ■1編成46億円 ハニカムパネルは、製造に用いる炉の大きさに制約があり、大型パネルを製作することができませんでした。 結果として製造工程は複雑化し、車体の製造コストは大幅に上昇。 製作費は1両あたり約3億円、16両編成で約46億円。 300系より、1編成あたり約6億円も高価でした。 こうした高コストに加え、後継となる700系の開発へ軸足が移ったことで、製造されたのは、わずか9編成144両。 東京~博多間を直通する「のぞみ」のすべてを500系で賄うには、到底足りない数でした。 なお、この高コストなハニカム構造は後継の700系には受け継がれず、量産車としては500系のみのものとなっています。...
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<史上空前のスペックと、その代償> 第3回は、500系という車両の“中身”の話。 500系が到達した性能と、その裏側にあった代償。 その両方を見て参りましょう。 ■地上最強の16両 500系のスペックは、今日(こんにち)振り返っても圧巻です。 0系以来となる、16両全車電動車。 64基のモーターが叩き出す編成出力は、W1編成で実に18,240kW。 W2編成以降でも17,600kWを誇り、300系の約1.5倍という、当時の高速鉄道車両として破格の出力を備えていました。 平坦線での均衡速度は365km/h。 発車からわずか4分程度で300km/hに到達する加速力は、曲線の多い山陽新幹線において、 “減速しても、すぐ取り返せる” という大きな武器となりました。 ■ハニカム構造という贅沢 車体も特別です。 側構体と床構体には、厚さ30mmのアルミハニカムパネルを採用。 六角形のハニカムコアを2枚のアルミ合金で挟み、ろう付けして組み上げる構造です。 高剛性と軽量化、防音性を同時に実現し、車体構体だけで、1両あたり300系比0.6tの軽量化に成功。 床下機器はユニット化され、車体形状に合わせたカバーで覆う「新ボディマウント構造」を採用しました。 さらに、ドアは閉じると車体と面一になるプラグドアとし、車体表面を徹底的に平滑化。 まさに、贅を尽くした造りです。 しかし、この贅沢さこそが、500系にとって“影”にもなります。 ■1編成46億円 ハニカムパネルは、製造に用いる炉の大きさに制約があり、大型パネルを製作することができませんでした。 結果として製造工程は複雑化し、車体の製造コストは大幅に上昇。 製作費は1両あたり約3億円、16両編成で約46億円。 300系より、1編成あたり約6億円も高価でした。 こうした高コストに加え、後継となる700系の開発へ軸足が移ったことで、製造されたのは、わずか9編成144両。 東京~博多間を直通する「のぞみ」のすべてを500系で賄うには、到底足りない数でした。 なお、この高コストなハニカム構造は後継の700系には受け継がれず、量産車としては500系のみのものとなっています。...
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【JR九州特集・D&S列車編 Vol.6】キハ47形・或る列車。廃車になった国鉄型を“幻の豪華...
一度はJR四国で廃車となった車両をJR九州が譲り受け、豪華な車内を与え、形式まで、 「キロシ47」へ変えてしまいました。 今回のD&S列車は、 JRKYUSHU DISCOVER TRAIN「或る列車」です。 そもそも「或る列車」って何?まず、この名前が妙に意味深です。 話は100年以上前まで遡ります。 1906年。当時の九州鉄道は、アメリカのブリル社へ豪華客車を発注しました。ところが翌年、九州鉄道は国有化。結果、その豪華客車は九州鉄道の列車として活躍する機会を失いました。後世、この幻の豪華客車は、 「或る列車」 と呼ばれるようになります。 そして鉄道模型の大家・原信太郎氏が製作していた模型をもとに、水戸岡鋭治氏が現代に蘇らせた。それが現在の「或る列車」です。 しかしベースは、まさかの「廃車体」ここからがJR九州らしい。 豪華列車を造るなら、新車を用意しそうなもの。ところが使われたのは、 元JR四国のキハ47 176とキハ47 1505。 しかも2両とも2011年に一度廃車になっています。JR九州へ渡った後、小倉総合車両センターで徹底的に改造。 キハ47 176は、キロシ47 9176キハ47 1505は、キロシ47 3505として復活しました。 ここが凄い。ボロボロの廃車をそのまま延命した、という話ではありません。機関換装をはじめ走行関係にも手を入れ、内外装はほぼ別世界。一度鉄道車両としての生涯を終えたキハ47が、「豪華列車」として車籍まで復活した。なかなか強烈な経歴です。 「キロシ47」という前代未聞さらに形式も面白い。 「キ」は気動車。 「ロ」はグリーン車。 そして、「シ」は食堂車。 つまりキロシ47は、「グリーン車+食堂車の気動車」 キハ40系列として初の「シ」付き形式であり、「キロシ」という形式記号自体も極めて異色の存在となりました。...
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一度はJR四国で廃車となった車両をJR九州が譲り受け、豪華な車内を与え、形式まで、 「キロシ47」へ変えてしまいました。 今回のD&S列車は、 JRKYUSHU DISCOVER TRAIN「或る列車」です。 そもそも「或る列車」って何?まず、この名前が妙に意味深です。 話は100年以上前まで遡ります。 1906年。当時の九州鉄道は、アメリカのブリル社へ豪華客車を発注しました。ところが翌年、九州鉄道は国有化。結果、その豪華客車は九州鉄道の列車として活躍する機会を失いました。後世、この幻の豪華客車は、 「或る列車」 と呼ばれるようになります。 そして鉄道模型の大家・原信太郎氏が製作していた模型をもとに、水戸岡鋭治氏が現代に蘇らせた。それが現在の「或る列車」です。 しかしベースは、まさかの「廃車体」ここからがJR九州らしい。 豪華列車を造るなら、新車を用意しそうなもの。ところが使われたのは、 元JR四国のキハ47 176とキハ47 1505。 しかも2両とも2011年に一度廃車になっています。JR九州へ渡った後、小倉総合車両センターで徹底的に改造。 キハ47 176は、キロシ47 9176キハ47 1505は、キロシ47 3505として復活しました。 ここが凄い。ボロボロの廃車をそのまま延命した、という話ではありません。機関換装をはじめ走行関係にも手を入れ、内外装はほぼ別世界。一度鉄道車両としての生涯を終えたキハ47が、「豪華列車」として車籍まで復活した。なかなか強烈な経歴です。 「キロシ47」という前代未聞さらに形式も面白い。 「キ」は気動車。 「ロ」はグリーン車。 そして、「シ」は食堂車。 つまりキロシ47は、「グリーン車+食堂車の気動車」 キハ40系列として初の「シ」付き形式であり、「キロシ」という形式記号自体も極めて異色の存在となりました。...
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【国鉄型魔改造列車特集Vol.7】485系・宴/華/ニューなのはな
<古い国鉄特急を“豪華宴会列車”に仕立てた大胆すぎる再利用>「これを485系と呼んでいいのか?」そう言いたくなる車両が、JR東日本には存在しました。 国鉄特急色は消滅。あの485系らしい顔もない。車内には畳、掘りごたつ、カラオケ。しかし、その床下には紛れもなく国鉄型485系の機器が残っている。 今回の国鉄型魔改造列車は、 「宴」「華」「ニューなのはな」1990年代、JR東日本が次々と生み出した485系ジョイフルトレインです。 「新品なのか中古なのか分からない電車」この3編成。単純に古い485系の内装を豪華にしたわけではありません。種車から台車や主電動機、制御機器などを流用しながら、車体は”新しく”造り直した。 言ってしまえば、「古い485系を改造した」というより、“485系の足回りに新しい電車を載せた”に近い存在です。 ここが面白い。外から見れば当時の新型ジョイフルトレイン。しかし走行機器のルーツは国鉄時代。新品と中古の境界線が、妙に曖昧なのです。 1994年。「宴」485系が旅館になった。 まず登場したのが「宴」。485系0番台を種車とした6両編成で、全車グリーン車。ワインレッド系の車体に、大型の曲面ガラス。車内は畳敷きを基本とし、多くの車両には掘りごたつを設置先頭車には展望スペースまで用意されました。ただしパンタグラフを搭載するモロ484形2両は、低屋根部分の関係から掘りごたつ式ではありません。 それでも、国鉄特急の床下機器の上で宴会をする。冷静に考えるとなかなか凄い電車です。 1997年。「華」宴会電車をさらに完成させる。 次に登場したのが「華」。老朽化した12系お座敷客車「なごやか」の後継として、485系0・200番台から改造されました。 こちらも車体を新製。紫を基調とした姿は、もはや485系の面影など皆無です。 しかも「華」では全車の客室を掘りごたつ化。電動式の床を使い、必要なら全面をフラットな畳敷きにもできる。展望室、ミーティングルーム、カラオケまで備え、 もはや、「特急電車をお座敷列車にした」というより、“宴会施設を485系で走らせた”と言った方が近いかもしれません。 そして一番変態だった「ニューなのはな」1997年末に完成し、1998年に営業を開始した「ニューなのはな」。 165系「なのはな」の後継として登場しました。コイツは「宴」「華」とも少し違います。 なんと、”座席車にも、お座敷車にもなる” 普段は固定クロスシート。ところが座席を転換すると畳面が現れ、中央通路にテーブルを設置すれば掘りごたつへ変身。 荷物棚まで、お座敷使用時には折り畳めます。 さらに面白いのが、形式上はグリーン車なのに、座席車として一般向け臨時列車に使用する場合は普通車扱いになったこと。 つまり、車体だけでなく営業上の扱いまで変身する485系。ここまで万能にする必要があったのかと思うほどです。 「そこまで造るなら新車でよくない?」 そしてこの3編成には、どうしても一つの疑問が浮かびます。車体を丸ごと造り直し、内装も新しくする。ならば、最初から新車を造ればよかったのではないか? しかも宴の種車には、当時すでに車齢の高い485系が含まれていました。 外見は最新。しかし床下では、国鉄時代から使われてきた抵抗制御の485系が走っている。 今なら「そこまでして再利用する?」と感じる人もいるでしょう。しかし当時は話が違います。485系は直流1500Vだけでなく、交流50Hz・60Hzにも対応。機関車を必要とせず、広範囲へ自力で乗り入れられる。目的地が毎回変わる団体列車にとって、これほど都合のいい素材はなかなかありませんでした。 新車を一から設計するより、使える走行機器を再利用する。華やかな姿とは裏腹に、その発想は意外なほど合理的だったとも言えます。 結果的には「使い倒した側」が勝った。 ニューなのはなは2016年に引退。宴は2019年。そして華は2022年まで走りました。...
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<古い国鉄特急を“豪華宴会列車”に仕立てた大胆すぎる再利用>「これを485系と呼んでいいのか?」そう言いたくなる車両が、JR東日本には存在しました。 国鉄特急色は消滅。あの485系らしい顔もない。車内には畳、掘りごたつ、カラオケ。しかし、その床下には紛れもなく国鉄型485系の機器が残っている。 今回の国鉄型魔改造列車は、 「宴」「華」「ニューなのはな」1990年代、JR東日本が次々と生み出した485系ジョイフルトレインです。 「新品なのか中古なのか分からない電車」この3編成。単純に古い485系の内装を豪華にしたわけではありません。種車から台車や主電動機、制御機器などを流用しながら、車体は”新しく”造り直した。 言ってしまえば、「古い485系を改造した」というより、“485系の足回りに新しい電車を載せた”に近い存在です。 ここが面白い。外から見れば当時の新型ジョイフルトレイン。しかし走行機器のルーツは国鉄時代。新品と中古の境界線が、妙に曖昧なのです。 1994年。「宴」485系が旅館になった。 まず登場したのが「宴」。485系0番台を種車とした6両編成で、全車グリーン車。ワインレッド系の車体に、大型の曲面ガラス。車内は畳敷きを基本とし、多くの車両には掘りごたつを設置先頭車には展望スペースまで用意されました。ただしパンタグラフを搭載するモロ484形2両は、低屋根部分の関係から掘りごたつ式ではありません。 それでも、国鉄特急の床下機器の上で宴会をする。冷静に考えるとなかなか凄い電車です。 1997年。「華」宴会電車をさらに完成させる。 次に登場したのが「華」。老朽化した12系お座敷客車「なごやか」の後継として、485系0・200番台から改造されました。 こちらも車体を新製。紫を基調とした姿は、もはや485系の面影など皆無です。 しかも「華」では全車の客室を掘りごたつ化。電動式の床を使い、必要なら全面をフラットな畳敷きにもできる。展望室、ミーティングルーム、カラオケまで備え、 もはや、「特急電車をお座敷列車にした」というより、“宴会施設を485系で走らせた”と言った方が近いかもしれません。 そして一番変態だった「ニューなのはな」1997年末に完成し、1998年に営業を開始した「ニューなのはな」。 165系「なのはな」の後継として登場しました。コイツは「宴」「華」とも少し違います。 なんと、”座席車にも、お座敷車にもなる” 普段は固定クロスシート。ところが座席を転換すると畳面が現れ、中央通路にテーブルを設置すれば掘りごたつへ変身。 荷物棚まで、お座敷使用時には折り畳めます。 さらに面白いのが、形式上はグリーン車なのに、座席車として一般向け臨時列車に使用する場合は普通車扱いになったこと。 つまり、車体だけでなく営業上の扱いまで変身する485系。ここまで万能にする必要があったのかと思うほどです。 「そこまで造るなら新車でよくない?」 そしてこの3編成には、どうしても一つの疑問が浮かびます。車体を丸ごと造り直し、内装も新しくする。ならば、最初から新車を造ればよかったのではないか? しかも宴の種車には、当時すでに車齢の高い485系が含まれていました。 外見は最新。しかし床下では、国鉄時代から使われてきた抵抗制御の485系が走っている。 今なら「そこまでして再利用する?」と感じる人もいるでしょう。しかし当時は話が違います。485系は直流1500Vだけでなく、交流50Hz・60Hzにも対応。機関車を必要とせず、広範囲へ自力で乗り入れられる。目的地が毎回変わる団体列車にとって、これほど都合のいい素材はなかなかありませんでした。 新車を一から設計するより、使える走行機器を再利用する。華やかな姿とは裏腹に、その発想は意外なほど合理的だったとも言えます。 結果的には「使い倒した側」が勝った。 ニューなのはなは2016年に引退。宴は2019年。そして華は2022年まで走りました。...
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宇野線の栄華と衰退
<かつては本四の大動脈。瀬戸大橋が、その使命を変えた> 岡山駅から瀬戸内海に面する宇野駅へ。 現在では「宇野みなと線」の愛称を持ち、地域輸送を担う宇野線ですが、かつて、この路線には現在からは想像しにくいほどの重要な役割が与えられていました。 本州と四国を結ぶ、大動脈です。 宇野線が開業したのは1910年6月12日。 同日、宇野―高松間には国鉄の「宇高連絡船」が就航しました。 岡山から宇野まで列車で南下し、宇野から船で瀬戸内海を渡り、高松から再び列車へ。 こうして宇野線は、本州と四国を結ぶ鉄道ネットワークの一部を担うことになります。 その地位は戦後、さらに高まることとなります。 関西方面からは四国連絡急行「鷲羽」が宇野まで乗り入れ、最盛期には定期・臨時を合わせて実に11往復を数えています。 さらに東京からも、寝台特急「瀬戸」が宇野へ。 地方都市へ向かう一ローカル線ではありません。 宇野駅は「終着駅」でありながら、その先に四国全土を控えた巨大な乗換駅でもあったのです。 しかし、その栄華には二度の転機が訪れます。 まずは1972年。 山陽新幹線が岡山まで開業すると、関西方面から宇野まで直通する列車の意義が薄れ、急行「鷲羽」は大幅に縮小。 長距離輸送の主役は「大阪から宇野へ直通」する形から、「新幹線で岡山へ向かい、宇野線へ乗り換える」形へと変化しました。 そして決定打となったのが、1988年4月10日の瀬戸大橋開業です。 岡山から茶屋町を経て、児島、瀬戸大橋、坂出へ。 本州と四国は、ついに一本のレールで結ばれました。 同時に宇高連絡船はその役目を終え、東京―宇野間を走っていた寝台特急「瀬戸」も、瀬戸大橋を渡って高松へ直通。 四国へ向かう列車は茶屋町から宇野へ向かわず、児島方面へ進むようになります。 昨日まで四国への大動脈だった茶屋町―宇野間は、一夜にして本四連絡の主役から退きました。 これは、"宇野線"そのものが廃れたというよりも、「より便利な鉄道ができた結果、鉄道の役割が失われた」という、"進化の過程で生まれた"、「衰退」でもあります。 現在の宇野駅に、かつてのような、東京から寝台特急が到着することはありません。 しかし宇野線は消えず、2016年には「宇野みなと線」の愛称が与えられ、瀬戸内観光へのアクセス路線として新たな役割を担っています。 四国への玄関口から、瀬戸内の港町へ向かう路線へ。 宇野線ほど、交通網の変化によってその立場を劇的に変えた路線も、そう多くはないでしょう。 (Mr.DIMER編集長)
続きを読む宇野線の栄華と衰退
<かつては本四の大動脈。瀬戸大橋が、その使命を変えた> 岡山駅から瀬戸内海に面する宇野駅へ。 現在では「宇野みなと線」の愛称を持ち、地域輸送を担う宇野線ですが、かつて、この路線には現在からは想像しにくいほどの重要な役割が与えられていました。 本州と四国を結ぶ、大動脈です。 宇野線が開業したのは1910年6月12日。 同日、宇野―高松間には国鉄の「宇高連絡船」が就航しました。 岡山から宇野まで列車で南下し、宇野から船で瀬戸内海を渡り、高松から再び列車へ。 こうして宇野線は、本州と四国を結ぶ鉄道ネットワークの一部を担うことになります。 その地位は戦後、さらに高まることとなります。 関西方面からは四国連絡急行「鷲羽」が宇野まで乗り入れ、最盛期には定期・臨時を合わせて実に11往復を数えています。 さらに東京からも、寝台特急「瀬戸」が宇野へ。 地方都市へ向かう一ローカル線ではありません。 宇野駅は「終着駅」でありながら、その先に四国全土を控えた巨大な乗換駅でもあったのです。 しかし、その栄華には二度の転機が訪れます。 まずは1972年。 山陽新幹線が岡山まで開業すると、関西方面から宇野まで直通する列車の意義が薄れ、急行「鷲羽」は大幅に縮小。 長距離輸送の主役は「大阪から宇野へ直通」する形から、「新幹線で岡山へ向かい、宇野線へ乗り換える」形へと変化しました。 そして決定打となったのが、1988年4月10日の瀬戸大橋開業です。 岡山から茶屋町を経て、児島、瀬戸大橋、坂出へ。 本州と四国は、ついに一本のレールで結ばれました。 同時に宇高連絡船はその役目を終え、東京―宇野間を走っていた寝台特急「瀬戸」も、瀬戸大橋を渡って高松へ直通。 四国へ向かう列車は茶屋町から宇野へ向かわず、児島方面へ進むようになります。 昨日まで四国への大動脈だった茶屋町―宇野間は、一夜にして本四連絡の主役から退きました。 これは、"宇野線"そのものが廃れたというよりも、「より便利な鉄道ができた結果、鉄道の役割が失われた」という、"進化の過程で生まれた"、「衰退」でもあります。 現在の宇野駅に、かつてのような、東京から寝台特急が到着することはありません。 しかし宇野線は消えず、2016年には「宇野みなと線」の愛称が与えられ、瀬戸内観光へのアクセス路線として新たな役割を担っています。 四国への玄関口から、瀬戸内の港町へ向かう路線へ。 宇野線ほど、交通網の変化によってその立場を劇的に変えた路線も、そう多くはないでしょう。 (Mr.DIMER編集長)
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