Mr.DIMER Journal
【もしも】117系・関東に来ていたら“東の新快速”は生まれていたのか?
昨日の185系の記事では、「特急にも普通にもなる、国鉄が生んだ万能電車」として、その少し変わった立ち位置をご紹介しました。 そこで記事を書きながら、ふとマイミーは思ったのです。 「じゃあ、同じ時代に関西で活躍していた117系が、もし関東に来ていたらどうなっていたんだろう?」 今回は、そんな昨日の記事から思いついたもしも話。 もちろん史実では、117系が関東圏で営業運転に就いた事実はありません。もし117系が関西だけでなく、関東にも投入されていたら?185系、113系、そして117系。東京駅にこの3形式が並ぶ世界は、果たしてあり得たのでしょうか。 ということで今回は、昨日の185系から少し話を広げて、“もしもシリーズ”。 ここから先は史実を土台にしつつ、かなりの部分を私の独断と偏見で考えていきます。 「いや、それはないだろ」というツッコミも大歓迎。 それではもし、117系が関東に本格投入されていた世界を覗いてみましょう。 「117系が“東”に来ていたら」 1979年、京阪神の新快速用として登場した117系。片側2扉、転換クロスシート、空気ばね台車。主電動機は「MT54D」、最高速度110km/h。 阪急や京阪と真正面から「豪華な料金不要特急同士で真正面から殴り合う」ために生まれた、国鉄近郊形としてはかなり異色の存在でした。そんな117系ですが、実は東京と完全に無縁だったわけではありません。 1986年、東急車輛で製造された117系100番台6両編成が公式試運転で横須賀線を走り、品川まで入線しています。つまり117系は、ほんの一瞬だけですが“東の線路”を走っているのです。 ここでマイミーは考えます。 もし、このまま関東向けの117系まで造られていたら? 「最有力はやっぱり東海道線?」 これはもう、独断と偏見で言えば”東海道線一択”です。東京―横浜―大船―藤沢―平塚―小田原。長距離利用が多く、113系が大量に走っていた幹線。ここに117系を快速専用で投入する。普通列車とは完全に役割を分け、東京―横浜―大船―藤沢―平塚―小田原。 そんな停車駅で走る“湘南快速”。これ、かなり似合ったと思うんです。 しかも塗装は関西と同じクリーム+ぶどう色ではなく、 「湘南色の117系」転換クロスシートに腰掛け、MT54を唸らせて湘南へ向かう。後の快速アクティーを、国鉄時代に先取りしたような存在です。個人的には、かなり見てみたかった世界です。 「でも2扉は絶対に揉める」 ただし、ここで現実に戻ります。117系最大の弱点。 ”2扉” これは首都圏ではかなり厳しい。 朝の横浜、川崎、品川。そこに2扉転換クロスの117系が突っ込んできたら、乗降時間はかなり延びたはずです。なので、マイミーの妄想関東仕様では、 3扉化。ロングシート併設。さらに10両基本+5両付属。……いやもう、それ117系じゃないやん。となるわけですが、首都圏に本気で入れるなら、そこまで変えないと厳しかったでしょう。 「そして昨日の主役、185系」 ここで再び登場するのが、昨日の記事の主役だった”185系”です。 185系は1981年登場。特急にも普通列車にも使えるという、これまた国鉄らしい万能型でした。 関西の117系は、「快速を豪華にする車両」。...
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昨日の185系の記事では、「特急にも普通にもなる、国鉄が生んだ万能電車」として、その少し変わった立ち位置をご紹介しました。 そこで記事を書きながら、ふとマイミーは思ったのです。 「じゃあ、同じ時代に関西で活躍していた117系が、もし関東に来ていたらどうなっていたんだろう?」 今回は、そんな昨日の記事から思いついたもしも話。 もちろん史実では、117系が関東圏で営業運転に就いた事実はありません。もし117系が関西だけでなく、関東にも投入されていたら?185系、113系、そして117系。東京駅にこの3形式が並ぶ世界は、果たしてあり得たのでしょうか。 ということで今回は、昨日の185系から少し話を広げて、“もしもシリーズ”。 ここから先は史実を土台にしつつ、かなりの部分を私の独断と偏見で考えていきます。 「いや、それはないだろ」というツッコミも大歓迎。 それではもし、117系が関東に本格投入されていた世界を覗いてみましょう。 「117系が“東”に来ていたら」 1979年、京阪神の新快速用として登場した117系。片側2扉、転換クロスシート、空気ばね台車。主電動機は「MT54D」、最高速度110km/h。 阪急や京阪と真正面から「豪華な料金不要特急同士で真正面から殴り合う」ために生まれた、国鉄近郊形としてはかなり異色の存在でした。そんな117系ですが、実は東京と完全に無縁だったわけではありません。 1986年、東急車輛で製造された117系100番台6両編成が公式試運転で横須賀線を走り、品川まで入線しています。つまり117系は、ほんの一瞬だけですが“東の線路”を走っているのです。 ここでマイミーは考えます。 もし、このまま関東向けの117系まで造られていたら? 「最有力はやっぱり東海道線?」 これはもう、独断と偏見で言えば”東海道線一択”です。東京―横浜―大船―藤沢―平塚―小田原。長距離利用が多く、113系が大量に走っていた幹線。ここに117系を快速専用で投入する。普通列車とは完全に役割を分け、東京―横浜―大船―藤沢―平塚―小田原。 そんな停車駅で走る“湘南快速”。これ、かなり似合ったと思うんです。 しかも塗装は関西と同じクリーム+ぶどう色ではなく、 「湘南色の117系」転換クロスシートに腰掛け、MT54を唸らせて湘南へ向かう。後の快速アクティーを、国鉄時代に先取りしたような存在です。個人的には、かなり見てみたかった世界です。 「でも2扉は絶対に揉める」 ただし、ここで現実に戻ります。117系最大の弱点。 ”2扉” これは首都圏ではかなり厳しい。 朝の横浜、川崎、品川。そこに2扉転換クロスの117系が突っ込んできたら、乗降時間はかなり延びたはずです。なので、マイミーの妄想関東仕様では、 3扉化。ロングシート併設。さらに10両基本+5両付属。……いやもう、それ117系じゃないやん。となるわけですが、首都圏に本気で入れるなら、そこまで変えないと厳しかったでしょう。 「そして昨日の主役、185系」 ここで再び登場するのが、昨日の記事の主役だった”185系”です。 185系は1981年登場。特急にも普通列車にも使えるという、これまた国鉄らしい万能型でした。 関西の117系は、「快速を豪華にする車両」。...
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【元祖、青い京急】千葉急行の初代1000形
<ブルースカイトレインより13年前、 「赤い電車」は、すでに青くなっていた> 京浜急行といえば、赤い電車。 赤い車体に白い帯という姿は、同社の代名詞といってもよいほどカラーイメージとして定着しています。 そんな京急における「紅一点」ならぬ「碧一点」といえば、 青い車体をまとった「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」を思い浮かべる方も多いでしょう。 600形によるブルースカイトレインが運行を開始したのは2005年3月14日。 ところが―― それより13年も前の1992年、すでに「青い京急」が存在していたことをご存知でしょうか。 千葉急行電鉄1000形。 ■第三セクターへ渡った京急1000形千葉急行電鉄は、現在の京成千原線の前身にあたる鉄道会社です。 京成電鉄や小湊鉄道のほか、千葉県、千葉市、市原市などが出資して設立された第三セクターで、 1992年4月1日、千葉中央―大森台間を開業しました。 そして、この新しい鉄道会社に用意された車両のひとつが、 京急の初代1000形、となるわけです。 対象となったのは1029~1032の4両編成。 もともとは京急から京成側へ貸し出され、京成線で使用されていた車両でしたが、千葉急行の開業に合わせて同社用の車両として使用されることとなります。 ■赤から、青へ何より目を引くのが、その塗装です。 京急時代の赤い車体に白帯という姿から一転。 青い車体に白帯。 車体そのものは、紛れもなく京急1000形でありながら、色だけを見ればまったく別の電車です。 前面の造形も、側面の窓配置も、そして白帯の入れ方も京急1000形そのもの。 それだけに、 「京急の電車が青くなった(顔面真っ青的なニュアンス)」 という表現が、これほど似合う車両もありません。 しかも、この姿が登場したのは1992年。 後に京急自身が「羽田空港の空」と「三浦半島の海」をイメージしてブルースカイトレインを登場させる、実に13年前のことでした。...
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<ブルースカイトレインより13年前、 「赤い電車」は、すでに青くなっていた> 京浜急行といえば、赤い電車。 赤い車体に白い帯という姿は、同社の代名詞といってもよいほどカラーイメージとして定着しています。 そんな京急における「紅一点」ならぬ「碧一点」といえば、 青い車体をまとった「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」を思い浮かべる方も多いでしょう。 600形によるブルースカイトレインが運行を開始したのは2005年3月14日。 ところが―― それより13年も前の1992年、すでに「青い京急」が存在していたことをご存知でしょうか。 千葉急行電鉄1000形。 ■第三セクターへ渡った京急1000形千葉急行電鉄は、現在の京成千原線の前身にあたる鉄道会社です。 京成電鉄や小湊鉄道のほか、千葉県、千葉市、市原市などが出資して設立された第三セクターで、 1992年4月1日、千葉中央―大森台間を開業しました。 そして、この新しい鉄道会社に用意された車両のひとつが、 京急の初代1000形、となるわけです。 対象となったのは1029~1032の4両編成。 もともとは京急から京成側へ貸し出され、京成線で使用されていた車両でしたが、千葉急行の開業に合わせて同社用の車両として使用されることとなります。 ■赤から、青へ何より目を引くのが、その塗装です。 京急時代の赤い車体に白帯という姿から一転。 青い車体に白帯。 車体そのものは、紛れもなく京急1000形でありながら、色だけを見ればまったく別の電車です。 前面の造形も、側面の窓配置も、そして白帯の入れ方も京急1000形そのもの。 それだけに、 「京急の電車が青くなった(顔面真っ青的なニュアンス)」 という表現が、これほど似合う車両もありません。 しかも、この姿が登場したのは1992年。 後に京急自身が「羽田空港の空」と「三浦半島の海」をイメージしてブルースカイトレインを登場させる、実に13年前のことでした。...
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【さようなら】卵型電車
<67年間、京阪の「顔」、「たまごのような」丸い電車が消えた> 京阪電車から、ひとつの伝統的なスタイルが姿を消しました。 「卵型電車」です。 2026年8月21日、2200系・2400系・2600系の3系列が一挙に営業運転を終了。 これにより、長年にわたり京阪線を走り続けてきた「卵型車体」の電車は、その歴史に幕を下ろしたことになります。 ■「卵型電車」とは その始まりは、1959年に登場、高い加減速性能と回生ブレーキを備え、「スーパーカー」の愛称で知られた2000系に遡ります。 その特徴のひとつが、側面から車体裾にかけて丸みを持たせた、独特の車体断面でした。 直線的な箱形ではなく、車体下部が膨らんだ曲面を描くその姿から、後年「卵型車体」と呼ばれるようになります。 この造形は一代限りとはならず、京阪通勤車の標準的なスタイルとして受け継がれていくこととなります。 ■改良を重ね、京阪の主力へ1964年には、2000系の車体デザインを踏襲した急行用の2200系が登場。 さらに1969年には、2200系を発展させた2400系が登場します。 同系は戦後の関西では初となる通勤用冷房車でもあり、卵形車体は外観のみならず、当時の京阪における新世代通勤車の象徴ともいえる存在になりました。 そして1978年には2600系が登場。 そのうち0番台は、老朽化した2000系の車体などを活用しながら昇圧・冷房化に対応した系列で、1980~81年には完全新造となる30番台も加わります。 つまり2000系から2600系まで、世代や機器を変えながらも、同じ基本造形が20年以上にわたり新製・継承され続けたことになります。 ■67年間続いた「京阪の顔」転機となったのは1983年。 1500Vへの昇圧とともに登場した6000系では、車体設計が一新され、京阪通勤車は角張った新しいスタイルへと移行します。 それでも卵形電車は消えませんでした。 更新工事を受けながら、急行、準急、普通など京阪線のあらゆる輸送を支え続け、平成を越え、令和まで生き残ることとなります。 しかし13000系の増備に伴い、その数は次第に減少。 そして2026年8月21日。 最後まで残った2200系、2400系、2600系が揃って引退しました。 1959年の2000系登場から、実に67年。 ひとつの形式が消えたのではない… 京阪電車において半世紀以上にわたり受け継がれてきた、ひとつの「車体様式」が消えた瞬間です。 (Mr.DIMER編集長)
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<67年間、京阪の「顔」、「たまごのような」丸い電車が消えた> 京阪電車から、ひとつの伝統的なスタイルが姿を消しました。 「卵型電車」です。 2026年8月21日、2200系・2400系・2600系の3系列が一挙に営業運転を終了。 これにより、長年にわたり京阪線を走り続けてきた「卵型車体」の電車は、その歴史に幕を下ろしたことになります。 ■「卵型電車」とは その始まりは、1959年に登場、高い加減速性能と回生ブレーキを備え、「スーパーカー」の愛称で知られた2000系に遡ります。 その特徴のひとつが、側面から車体裾にかけて丸みを持たせた、独特の車体断面でした。 直線的な箱形ではなく、車体下部が膨らんだ曲面を描くその姿から、後年「卵型車体」と呼ばれるようになります。 この造形は一代限りとはならず、京阪通勤車の標準的なスタイルとして受け継がれていくこととなります。 ■改良を重ね、京阪の主力へ1964年には、2000系の車体デザインを踏襲した急行用の2200系が登場。 さらに1969年には、2200系を発展させた2400系が登場します。 同系は戦後の関西では初となる通勤用冷房車でもあり、卵形車体は外観のみならず、当時の京阪における新世代通勤車の象徴ともいえる存在になりました。 そして1978年には2600系が登場。 そのうち0番台は、老朽化した2000系の車体などを活用しながら昇圧・冷房化に対応した系列で、1980~81年には完全新造となる30番台も加わります。 つまり2000系から2600系まで、世代や機器を変えながらも、同じ基本造形が20年以上にわたり新製・継承され続けたことになります。 ■67年間続いた「京阪の顔」転機となったのは1983年。 1500Vへの昇圧とともに登場した6000系では、車体設計が一新され、京阪通勤車は角張った新しいスタイルへと移行します。 それでも卵形電車は消えませんでした。 更新工事を受けながら、急行、準急、普通など京阪線のあらゆる輸送を支え続け、平成を越え、令和まで生き残ることとなります。 しかし13000系の増備に伴い、その数は次第に減少。 そして2026年8月21日。 最後まで残った2200系、2400系、2600系が揃って引退しました。 1959年の2000系登場から、実に67年。 ひとつの形式が消えたのではない… 京阪電車において半世紀以上にわたり受け継がれてきた、ひとつの「車体様式」が消えた瞬間です。 (Mr.DIMER編集長)
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【なぜ?】485系のボンネット車は国鉄末期に勝田へ集まったのか
<全国から古参車をかき集め、常磐線に現れた「ボンネット王国」> 国鉄を代表する特急型電車、485系。本回は、国鉄末期のある"配置転換"の話。 1982年の東北新幹線開業以降、東北地区では在来線特急が大幅に削減され、485系に大量の余剰が発生。 九州地区には1960年代に製造された481系をはじめ、経年の進んだ車両が多数残存していたことから国鉄は、東北地区で余剰となった比較的新しい485系を九州へ転属させ、古参車を置き換えて行くこととなります。 ここまでは、極めて合理的な話。 ところが、その中で少し奇妙な動きを見せた車両がいました。クハ481形、ボンネット車。 九州から追い出された初期形のクハ481は、そのまま廃車になるのではなく、遠く離れた勝田電車区へ転属。 1985年3月のダイヤ改正。 急行「ときわ」の特急格上げなどにより、常磐線特急「ひたち」を大幅に増発、 勝田には全国各地から485系が集められ、11両編成15本、計165両という一大ファミリーが誕生します。 そして、それら編成の先頭に立つクハ481形30両は、そのすべてが"ボンネット車"でした。 無論、これにも合理的な説明はできます。 九州では「有明」などで短編成・高頻度運転が進み、今後も485系を長く使う必要がありました。 ならば経年の浅い車両を九州へ残し、古参車を他地区へ転出させるのは自然の事。 一方の「ひたち」は11両編成。先頭車の定員が多少少なくても、編成全体への影響は小さい。 増発に必要な大量の車両を確保するため、古参車を勝田へ集約する。 そこまでは分かります。 ただ。ひとつ引っかかるのは。 古い車を集めることと、先頭車30両をすべてボンネット車で揃えることは、同じ話なのか。という事。 200番台、300番台のクハ481が混ざっていても、運用上は成立したはずでは… それでも国鉄は、全15編成の両端をボンネット車体制で構築します。 まるで鉄道模型で、「好きな485系だけを集めた車両基地」を作るかのように。 ここから先は、編集長の独断と偏見につき、ご了承下さい。 国鉄ほどの巨大組織ですから、車両配置は当然、輸送量、検査周期、車齢、需給など様々な条件から決められたはずです。 しかし、その条件を満たす選択肢が複数あったとしたら。 「勝田には古い485系を集める。」 そこまでは経営上の判断。 その上で、「どうせなら、ボンネットで揃えてしまおう。」 そんな""を持った鉄道マンが、一人くらいいても不思議ではない…? いえね。どうしても想像してしまうんですよ。関東国鉄に485系ボンネット車が大好きな人がいたのではないか、と。...
続きを読む【なぜ?】485系のボンネット車は国鉄末期に勝田へ集まったのか
<全国から古参車をかき集め、常磐線に現れた「ボンネット王国」> 国鉄を代表する特急型電車、485系。本回は、国鉄末期のある"配置転換"の話。 1982年の東北新幹線開業以降、東北地区では在来線特急が大幅に削減され、485系に大量の余剰が発生。 九州地区には1960年代に製造された481系をはじめ、経年の進んだ車両が多数残存していたことから国鉄は、東北地区で余剰となった比較的新しい485系を九州へ転属させ、古参車を置き換えて行くこととなります。 ここまでは、極めて合理的な話。 ところが、その中で少し奇妙な動きを見せた車両がいました。クハ481形、ボンネット車。 九州から追い出された初期形のクハ481は、そのまま廃車になるのではなく、遠く離れた勝田電車区へ転属。 1985年3月のダイヤ改正。 急行「ときわ」の特急格上げなどにより、常磐線特急「ひたち」を大幅に増発、 勝田には全国各地から485系が集められ、11両編成15本、計165両という一大ファミリーが誕生します。 そして、それら編成の先頭に立つクハ481形30両は、そのすべてが"ボンネット車"でした。 無論、これにも合理的な説明はできます。 九州では「有明」などで短編成・高頻度運転が進み、今後も485系を長く使う必要がありました。 ならば経年の浅い車両を九州へ残し、古参車を他地区へ転出させるのは自然の事。 一方の「ひたち」は11両編成。先頭車の定員が多少少なくても、編成全体への影響は小さい。 増発に必要な大量の車両を確保するため、古参車を勝田へ集約する。 そこまでは分かります。 ただ。ひとつ引っかかるのは。 古い車を集めることと、先頭車30両をすべてボンネット車で揃えることは、同じ話なのか。という事。 200番台、300番台のクハ481が混ざっていても、運用上は成立したはずでは… それでも国鉄は、全15編成の両端をボンネット車体制で構築します。 まるで鉄道模型で、「好きな485系だけを集めた車両基地」を作るかのように。 ここから先は、編集長の独断と偏見につき、ご了承下さい。 国鉄ほどの巨大組織ですから、車両配置は当然、輸送量、検査周期、車齢、需給など様々な条件から決められたはずです。 しかし、その条件を満たす選択肢が複数あったとしたら。 「勝田には古い485系を集める。」 そこまでは経営上の判断。 その上で、「どうせなら、ボンネットで揃えてしまおう。」 そんな""を持った鉄道マンが、一人くらいいても不思議ではない…? いえね。どうしても想像してしまうんですよ。関東国鉄に485系ボンネット車が大好きな人がいたのではないか、と。...
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最近流行りのクルマに見られるアレ...もしや0系がハシリ?!
<"元々は光っていた0系の"鼻"、光前頭。> 近年、自動車のデザインは より複雑化し、 凝った造形になりつつあります。 と同時に ライト類とは別に LEDを多く採用、活用しており、 グリルの外周や エンブレムが光るというギミックも見られます。 なんでも光らせれば いいと思うな! と怒られそうなところ、 前照灯、尾灯をさて置き、 "連結器カバーの光る新幹線"があったことを 覚えていますでしょうか。 0系新幹線電車です。 ■「団子鼻」の正体0系を象徴する、 丸みを帯びた先頭形状。 なかでも先端に取り付けられた 半球状の"団子鼻"は、 単なるデザインではありません。 この内部には、 故障した車両を救援する際などに使用する 非常用の連結器が収められており、 鼻そのものは、 それを覆うための "連結器カバー"になっています。 そして東海道新幹線開業当初、 このカバーはそののち標準となった 不透明のFRP製ではなく、...
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<"元々は光っていた0系の"鼻"、光前頭。> 近年、自動車のデザインは より複雑化し、 凝った造形になりつつあります。 と同時に ライト類とは別に LEDを多く採用、活用しており、 グリルの外周や エンブレムが光るというギミックも見られます。 なんでも光らせれば いいと思うな! と怒られそうなところ、 前照灯、尾灯をさて置き、 "連結器カバーの光る新幹線"があったことを 覚えていますでしょうか。 0系新幹線電車です。 ■「団子鼻」の正体0系を象徴する、 丸みを帯びた先頭形状。 なかでも先端に取り付けられた 半球状の"団子鼻"は、 単なるデザインではありません。 この内部には、 故障した車両を救援する際などに使用する 非常用の連結器が収められており、 鼻そのものは、 それを覆うための "連結器カバー"になっています。 そして東海道新幹線開業当初、 このカバーはそののち標準となった 不透明のFRP製ではなく、...
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【JRが発足した"その時"】100系はなぜJR西日本に継承されなかったのか(後編)
<JR西日本が造った「自社仕様の100系」> 1987(昭和62)年。JR西日本は、国鉄から100系を1両も承継することなく発足しました。 ところが、その僅か2年後となる1989(平成元)年。同社は自ら100系を新製し、「グランドひかり」として営業運転を開始します。 100系3000番台、いわゆる100N系・V編成です。 国鉄時代の100系X編成が2階建て車両を2両連結していたのに対し、V編成ではこれを4両へ拡大。 さらに山陽新幹線内では最高230km/h運転を行うなど、JR西日本独自の仕様が盛り込まれることとなります。 "この独自仕様"は車両構成にも大きな相違点をもたらせます。 国鉄時代のX編成や、JR東海が増備したG編成では、両端の先頭車はモーターを持たない付随車。 対してV編成では、先頭車を電動車としています。 2階建て車両4両を付随車とし、それ以外の平屋車を電動車とする構成でした。 なお、国鉄・JR東海において製造、保有された100系とJR西日本が製造した100系は、書類上は別形式とされています。 そして、この違いは、後年の山陽新幹線を取り巻く輸送環境に功を奏することとなります。 300系、500系、700系と後継車両が相次いで登場すると、100系は次第に第一線から退くようになります。 そこでJR西日本は、V編成の2階建て車両を外し、平屋車を4両・6両へ組み替えて、山陽新幹線「こだま」へと転用。P編成、K編成として第2の人生(車生)を歩みます。 V編成は先頭車を含む平屋車が電動車であったため、2階建ての付随車を取り除くと、短編成は全車電動車となりました。 もっとも、これをもって「将来の短編成化まで見越してV編成を設計した」と断じることはできませんが、しかし結果として、JR西日本独自の車両構成が、100系の第二の活躍を支えることとなったのは確かです。 1987年。JR西日本は、経営上の事情から国鉄100系を持たずに船出しました。 そして1989年には、自らの輸送施策に即した100系を造り、さらに2000年代には、その車両を山陽「こだま」へ転用することで使途を広げた。 同じ「100系」でありながら、国鉄からJRへ。 そしてJR東海とJR西日本へ。置かれた環境によって、その歩みは大きく枝分かれしていったのです。 (Mr.DIMER編集長)
続きを読む【JRが発足した"その時"】100系はなぜJR西日本に継承されなかったのか(後編)
<JR西日本が造った「自社仕様の100系」> 1987(昭和62)年。JR西日本は、国鉄から100系を1両も承継することなく発足しました。 ところが、その僅か2年後となる1989(平成元)年。同社は自ら100系を新製し、「グランドひかり」として営業運転を開始します。 100系3000番台、いわゆる100N系・V編成です。 国鉄時代の100系X編成が2階建て車両を2両連結していたのに対し、V編成ではこれを4両へ拡大。 さらに山陽新幹線内では最高230km/h運転を行うなど、JR西日本独自の仕様が盛り込まれることとなります。 "この独自仕様"は車両構成にも大きな相違点をもたらせます。 国鉄時代のX編成や、JR東海が増備したG編成では、両端の先頭車はモーターを持たない付随車。 対してV編成では、先頭車を電動車としています。 2階建て車両4両を付随車とし、それ以外の平屋車を電動車とする構成でした。 なお、国鉄・JR東海において製造、保有された100系とJR西日本が製造した100系は、書類上は別形式とされています。 そして、この違いは、後年の山陽新幹線を取り巻く輸送環境に功を奏することとなります。 300系、500系、700系と後継車両が相次いで登場すると、100系は次第に第一線から退くようになります。 そこでJR西日本は、V編成の2階建て車両を外し、平屋車を4両・6両へ組み替えて、山陽新幹線「こだま」へと転用。P編成、K編成として第2の人生(車生)を歩みます。 V編成は先頭車を含む平屋車が電動車であったため、2階建ての付随車を取り除くと、短編成は全車電動車となりました。 もっとも、これをもって「将来の短編成化まで見越してV編成を設計した」と断じることはできませんが、しかし結果として、JR西日本独自の車両構成が、100系の第二の活躍を支えることとなったのは確かです。 1987年。JR西日本は、経営上の事情から国鉄100系を持たずに船出しました。 そして1989年には、自らの輸送施策に即した100系を造り、さらに2000年代には、その車両を山陽「こだま」へ転用することで使途を広げた。 同じ「100系」でありながら、国鉄からJRへ。 そしてJR東海とJR西日本へ。置かれた環境によって、その歩みは大きく枝分かれしていったのです。 (Mr.DIMER編集長)
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