Mr.DIMER Journal
【鉄道界の寝ない王】乗客は寝ても、581・583系は寝なかった
<昼は特急、夜は寝台特急。休む間もなく酷使された国鉄の名車> 人間が睡眠をとって英気を養うように、鉄道車両にも、当然、「お休み」の時間があります。 いえ、ただ出番がないからお休みしているだけです。(整備などを除く) 雑談はさておき、朝から晩まで走ったあと、夜は車両基地へ。 点検や整備を受け、翌朝の出番を待つ。 およそ一般的な鉄道車両の仕業は上述の通り。 ところが国鉄時代、そんな常識を覆すような車両が存在していました。ご存じ、581・583系交直両用特急形寝台電車です。 いわば、鉄道界の「寝ない王」。横文字を用いるなら、「ショートスリーパー」とも申せましょう。 昼も夜も働くことを前提として造られた車両です。 ■昼は座席、夜は寝台 581系が登場したのは1967年。 最大の特徴は、昼間は座席特急、夜間は寝台特急として使用できること。 昼間は、頭上へ寝台を収納。 向かい合わせの座席を備えた特急電車として走ります。 そして夜になれば、座席を寝台へ転換。 三段式の寝台を組み立て、今度は寝台特急として走り出す。 乗客は寝る。 しかし、581系は寝ません。 ■昼行、夜行を兼用した実用車 登場時の581系は、新大阪-博多間の寝台特急「月光」と、新大阪-大分間の昼行特急「みどり」に投入。 博多から「月光」として夜通し走り、翌朝、新大阪へ到着。 寝台を座席へ戻すと、今度は「みどり」として大分へ向かう。 実際に、昼夜を跨いだ運用が組まれていました。 ■なぜ、そこまで働かせる? 当該系列の誕生背景には、高度経済成長期の急激な輸送需要増加があります。 昼行列車には昼行用の車両。寝台列車には寝台用の車両。 これでは必要な車両数が増えるだけでなく、昼間、寝台車を留置しておく場所(車庫)が必要になってくる、そうならば、 「同じ車両を、昼も夜も使えばいい」。 当時の国鉄として導き出した、合理化の回答でした。 昼夜兼用とすることで、車両基地の逼迫を緩和すると同時に、車両そのものの稼働率も高めることができたのです。...
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<昼は特急、夜は寝台特急。休む間もなく酷使された国鉄の名車> 人間が睡眠をとって英気を養うように、鉄道車両にも、当然、「お休み」の時間があります。 いえ、ただ出番がないからお休みしているだけです。(整備などを除く) 雑談はさておき、朝から晩まで走ったあと、夜は車両基地へ。 点検や整備を受け、翌朝の出番を待つ。 およそ一般的な鉄道車両の仕業は上述の通り。 ところが国鉄時代、そんな常識を覆すような車両が存在していました。ご存じ、581・583系交直両用特急形寝台電車です。 いわば、鉄道界の「寝ない王」。横文字を用いるなら、「ショートスリーパー」とも申せましょう。 昼も夜も働くことを前提として造られた車両です。 ■昼は座席、夜は寝台 581系が登場したのは1967年。 最大の特徴は、昼間は座席特急、夜間は寝台特急として使用できること。 昼間は、頭上へ寝台を収納。 向かい合わせの座席を備えた特急電車として走ります。 そして夜になれば、座席を寝台へ転換。 三段式の寝台を組み立て、今度は寝台特急として走り出す。 乗客は寝る。 しかし、581系は寝ません。 ■昼行、夜行を兼用した実用車 登場時の581系は、新大阪-博多間の寝台特急「月光」と、新大阪-大分間の昼行特急「みどり」に投入。 博多から「月光」として夜通し走り、翌朝、新大阪へ到着。 寝台を座席へ戻すと、今度は「みどり」として大分へ向かう。 実際に、昼夜を跨いだ運用が組まれていました。 ■なぜ、そこまで働かせる? 当該系列の誕生背景には、高度経済成長期の急激な輸送需要増加があります。 昼行列車には昼行用の車両。寝台列車には寝台用の車両。 これでは必要な車両数が増えるだけでなく、昼間、寝台車を留置しておく場所(車庫)が必要になってくる、そうならば、 「同じ車両を、昼も夜も使えばいい」。 当時の国鉄として導き出した、合理化の回答でした。 昼夜兼用とすることで、車両基地の逼迫を緩和すると同時に、車両そのものの稼働率も高めることができたのです。...
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ATO車に混ざって“手動運転”で切り抜けた103系のお話(後編)
<切り抜けられなかった老朽化> ■地下鉄線内で発生した車両故障 2012年7月、唐人町駅に停車した103系1500番台で車両故障が発生しました。 4号車の床下から火花と煙が出ているとの通報があり、乗客を降ろして営業運転を打ち切りました。 調査の結果、主制御器内のタイマーリレーが誤作動し、減流抵抗器が焦損したことが判明。 JR九州は、103系18両の関係部品を交換する対策を実施しました。 列車を容易に退避させられない地下鉄では、一編成の故障が路線全体へ波及しかねません。 この一件は、地下鉄へ乗り入れる経年車の信頼性という問題を浮き彫りにすることとなりました。 ■305系投入で地下鉄から撤退 その後JR九州は、バリアフリー性や快適性、環境性能の向上を掲げ、新型車両305系の投入を発表します。 305系は2015年に営業運転を開始。 ATOを搭載し、地下鉄線内でのワンマン運転やホームドアとの連動に対応しました。 同年3月までに6両編成6本が揃い、103系1500番台は地下鉄直通運用から撤退しました。 ■103系の現在 ただし、103系1500番台そのものが全廃されたわけではありません。 3両編成は筑前前原―西唐津間に残り、地下鉄へ乗り入れない地域輸送へ活路を移しました。 103系は、ATOを持たないという装備上の見劣りを抱えながらも、およそ30年間にわたり直通運転を続けました。 しかし、東京臨海高速鉄道70-000形の譲受車による置換えが決まり、103系1500番台はいよいよ終幕へ向かいつつあります。 一方、2023年には登場40周年を記念し、デビュー当時の国鉄色を復刻した編成も登場、話題を集めていますが引退は必至。 ときに。実現が“難しいこと”は重々承知していますが。 最後に一度、福岡市地下鉄線内を走る姿を見たいところ。 (Mr.DIMER編集長)
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<切り抜けられなかった老朽化> ■地下鉄線内で発生した車両故障 2012年7月、唐人町駅に停車した103系1500番台で車両故障が発生しました。 4号車の床下から火花と煙が出ているとの通報があり、乗客を降ろして営業運転を打ち切りました。 調査の結果、主制御器内のタイマーリレーが誤作動し、減流抵抗器が焦損したことが判明。 JR九州は、103系18両の関係部品を交換する対策を実施しました。 列車を容易に退避させられない地下鉄では、一編成の故障が路線全体へ波及しかねません。 この一件は、地下鉄へ乗り入れる経年車の信頼性という問題を浮き彫りにすることとなりました。 ■305系投入で地下鉄から撤退 その後JR九州は、バリアフリー性や快適性、環境性能の向上を掲げ、新型車両305系の投入を発表します。 305系は2015年に営業運転を開始。 ATOを搭載し、地下鉄線内でのワンマン運転やホームドアとの連動に対応しました。 同年3月までに6両編成6本が揃い、103系1500番台は地下鉄直通運用から撤退しました。 ■103系の現在 ただし、103系1500番台そのものが全廃されたわけではありません。 3両編成は筑前前原―西唐津間に残り、地下鉄へ乗り入れない地域輸送へ活路を移しました。 103系は、ATOを持たないという装備上の見劣りを抱えながらも、およそ30年間にわたり直通運転を続けました。 しかし、東京臨海高速鉄道70-000形の譲受車による置換えが決まり、103系1500番台はいよいよ終幕へ向かいつつあります。 一方、2023年には登場40周年を記念し、デビュー当時の国鉄色を復刻した編成も登場、話題を集めていますが引退は必至。 ときに。実現が“難しいこと”は重々承知していますが。 最後に一度、福岡市地下鉄線内を走る姿を見たいところ。 (Mr.DIMER編集長)
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【あれ?N’EXじゃないの?】E259系――“空港特急の顔”が銚子へ走り始めたワケ
E259系といえば、やっぱり「成田エクスプレス」。白い車体に赤と黒。あの独特の顔を見れば、行先表示を見なくても「あ、N’EXだ」と分かる。 それくらい、車両と列車名が一体になった存在でした。登場は2009年10月。 1991年の成田エクスプレス運転開始から使われてきた253系を置き換えるために誕生し、6両編成22本、計132両が製造されました。 最初から狙いは明確です。「空港アクセス特急」。 大型荷物を持った利用客を前提に、荷物置場にはダイヤルロック式の錠を装備。出入口や荷物置場には防犯カメラ、車内には4か国語対応の大型液晶案内装置。座席には大型テーブルとコンセントまで備えました。 つまり、普通の特急車をN’EXにしたのではない。N’EXになるために生まれた特急車だったわけです。しかもE259系の場合、この「専用車感」がとにかく強かった。 253系にももちろんN’EXのイメージはありましたが、E259系は車体そのものに大きく「N’EX」を掲げ、空港アクセスのブランドイメージを真正面から背負っていました。だからこそ、今の姿に少し違和感を覚える人もいるでしょう。 「あれ?N’EXじゃないの?」 実はE259系、まったく空港以外へ出なかったわけではありません。 2012年12月からは「マリンエクスプレス踊り子」として東京―伊豆急下田間にも進出。N’EXの車両が海沿いを走って伊豆へ向かう姿は、当時からなかなかの異色でした。 ただし、これは臨時列車。 E259系の本職が「成田エクスプレス」であることに変わりはありませんでした。その空気が大きく変わったのが2023年です。JR東日本はE259系の車両デザインをリニューアル。白・赤・黒という基本イメージは残しながら、前面と側面にシルバーを取り入れ、「SERIES E259」という新たなロゴを掲げました。 ここで注目したいのは、単なるイメージチェンジではなかったこと。 JR東日本はその理由について、通勤やレジャーなど利用目的が多様化していると説明し、E259系を「空港アクセス特急に限らない多様化したご利用目的に合わせた都市間輸送特急」と位置付けました。 これ、かなり大きな一言です。要するに、「E259系=N’EX専用」という約14年間続いた前提を、自ら外したわけです。 そして翌2024年3月16日のダイヤ改正。E259系はついに定期特急「しおさい」へ投入され、東京―銚子間を走り始めます。 成田空港へ向かうために生まれた車両が、総武本線をそのまま東へ進み、終点・銚子まで行く。同じ千葉方面ではあるけれど、役割はまるで違います。 しかもこの改正は、房総特急そのものの世代交代でもありました。 それまで「しおさい」を担っていた255系9両とE257系10両に対し、改正後はE259系6両とE257系5両へ再編。単にN’EXの“余った車両を持ってきた”という話ではなく、房総特急の輸送体系を組み替える中でE259系が正式に選ばれた、という方が実態に近いでしょう。 では、なぜE259系だったのか。これは意外と理にかなっています。E259系は6両固定編成。 最高速度130km/hの性能を持ち、グリーン車もあり、車内設備も特急車として十分。空港輸送だけに縛らなければ、その能力をほかの都市間輸送にも使える。 新車を一から用意しなくても、すでに完成度の高い特急車がそこにいるわけです。むしろ今までN’EXだけで使っていた方が、少し贅沢だったとも言えるかもしれません。 そして面白いのは、JR東日本の現在の公式案内。そこにはもう、「成田エクスプレス/しおさい(E259系)」と並んでいます。 かつては「E259系」と聞くより先に「N’EX」が浮かぶほどだった車両です。 それが今では、成田空港へも行くし、銚子へも行く。考えてみれば、国鉄時代の特急形電車では珍しくなかった使い方です。485系などは、車両形式と列車名が一対一ではありませんでした。 しかし分割民営化後は、列車や用途に合わせた専用色の強い特急車も増えていきました。E259系も、その象徴のような車両だったと思います。ところが15年ほど走ったところで、今度は「専用」から「汎用」へ。 新形式を作ったのではなく、既存の専用車から看板を少し外して、使える場所へ使う。なんだか一周回って、昔の特急車の使い方に少し戻ったようにも見えます。 もちろん今でも、E259系の主役が成田エクスプレスであることに変わりはありません。あの顔がホームへ滑り込んでくれば、今でも最初に思い浮かぶのはN’EXです。 でも、そのまま銚子まで走って行くこともある。「あれ?N’EXじゃないの?」そう思わせる時点で、E259系の第二章はもう始まっているのかもしれません。...
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E259系といえば、やっぱり「成田エクスプレス」。白い車体に赤と黒。あの独特の顔を見れば、行先表示を見なくても「あ、N’EXだ」と分かる。 それくらい、車両と列車名が一体になった存在でした。登場は2009年10月。 1991年の成田エクスプレス運転開始から使われてきた253系を置き換えるために誕生し、6両編成22本、計132両が製造されました。 最初から狙いは明確です。「空港アクセス特急」。 大型荷物を持った利用客を前提に、荷物置場にはダイヤルロック式の錠を装備。出入口や荷物置場には防犯カメラ、車内には4か国語対応の大型液晶案内装置。座席には大型テーブルとコンセントまで備えました。 つまり、普通の特急車をN’EXにしたのではない。N’EXになるために生まれた特急車だったわけです。しかもE259系の場合、この「専用車感」がとにかく強かった。 253系にももちろんN’EXのイメージはありましたが、E259系は車体そのものに大きく「N’EX」を掲げ、空港アクセスのブランドイメージを真正面から背負っていました。だからこそ、今の姿に少し違和感を覚える人もいるでしょう。 「あれ?N’EXじゃないの?」 実はE259系、まったく空港以外へ出なかったわけではありません。 2012年12月からは「マリンエクスプレス踊り子」として東京―伊豆急下田間にも進出。N’EXの車両が海沿いを走って伊豆へ向かう姿は、当時からなかなかの異色でした。 ただし、これは臨時列車。 E259系の本職が「成田エクスプレス」であることに変わりはありませんでした。その空気が大きく変わったのが2023年です。JR東日本はE259系の車両デザインをリニューアル。白・赤・黒という基本イメージは残しながら、前面と側面にシルバーを取り入れ、「SERIES E259」という新たなロゴを掲げました。 ここで注目したいのは、単なるイメージチェンジではなかったこと。 JR東日本はその理由について、通勤やレジャーなど利用目的が多様化していると説明し、E259系を「空港アクセス特急に限らない多様化したご利用目的に合わせた都市間輸送特急」と位置付けました。 これ、かなり大きな一言です。要するに、「E259系=N’EX専用」という約14年間続いた前提を、自ら外したわけです。 そして翌2024年3月16日のダイヤ改正。E259系はついに定期特急「しおさい」へ投入され、東京―銚子間を走り始めます。 成田空港へ向かうために生まれた車両が、総武本線をそのまま東へ進み、終点・銚子まで行く。同じ千葉方面ではあるけれど、役割はまるで違います。 しかもこの改正は、房総特急そのものの世代交代でもありました。 それまで「しおさい」を担っていた255系9両とE257系10両に対し、改正後はE259系6両とE257系5両へ再編。単にN’EXの“余った車両を持ってきた”という話ではなく、房総特急の輸送体系を組み替える中でE259系が正式に選ばれた、という方が実態に近いでしょう。 では、なぜE259系だったのか。これは意外と理にかなっています。E259系は6両固定編成。 最高速度130km/hの性能を持ち、グリーン車もあり、車内設備も特急車として十分。空港輸送だけに縛らなければ、その能力をほかの都市間輸送にも使える。 新車を一から用意しなくても、すでに完成度の高い特急車がそこにいるわけです。むしろ今までN’EXだけで使っていた方が、少し贅沢だったとも言えるかもしれません。 そして面白いのは、JR東日本の現在の公式案内。そこにはもう、「成田エクスプレス/しおさい(E259系)」と並んでいます。 かつては「E259系」と聞くより先に「N’EX」が浮かぶほどだった車両です。 それが今では、成田空港へも行くし、銚子へも行く。考えてみれば、国鉄時代の特急形電車では珍しくなかった使い方です。485系などは、車両形式と列車名が一対一ではありませんでした。 しかし分割民営化後は、列車や用途に合わせた専用色の強い特急車も増えていきました。E259系も、その象徴のような車両だったと思います。ところが15年ほど走ったところで、今度は「専用」から「汎用」へ。 新形式を作ったのではなく、既存の専用車から看板を少し外して、使える場所へ使う。なんだか一周回って、昔の特急車の使い方に少し戻ったようにも見えます。 もちろん今でも、E259系の主役が成田エクスプレスであることに変わりはありません。あの顔がホームへ滑り込んでくれば、今でも最初に思い浮かぶのはN’EXです。 でも、そのまま銚子まで走って行くこともある。「あれ?N’EXじゃないの?」そう思わせる時点で、E259系の第二章はもう始まっているのかもしれません。...
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ATO車に混ざって“手動運転”で切り抜けた103系のお話(前編)
<最新鋭の地下鉄に現れた“旧世代”の新車> ■“型落ち”だった新製車 1983年、筑肥線は姪浜―唐津間の電化と同時に、福岡市地下鉄との相互直通運転を開始しました。 これに合わせて国鉄が投入したのが、103系1500番台です。 当時はすでに201系が登場し、地下鉄直通用の203系も営業運転を始めていた時代。 それでも国鉄は、実績のある103系を新製しました。 筑肥線では高価な省エネルギー車を投入しても、首都圏ほど大きな効果を得にくかったことに加え、当時の国鉄は深刻な財政難にありました。 1500番台は、車体こそ201系に近い新設計とされたものの、走行機器には従来の103系を踏襲。 抵抗制御やコイルばね台車を採用しました。 また、福岡市1000系とは異なり、ATOも搭載されませんでした。 対する福岡市交通局の1000系は、電機子チョッパ制御、空気ばね台車、ATOを備えた最新鋭車。 同じ直通運転のために用意された両者には、登場時から明確な技術格差があったのです。 ■103系だけが“手動運転” 福岡市地下鉄では、筑肥線との直通開始から約10か月後となる1984年1月20日、ATOを使用したワンマン運転が始まりました。 ところがATOを持たない103系は、地下鉄線内でも運転士が手動で操縦。 さらに車掌も乗務するツーマン運転を続けました。 2000年に登場したJR九州303系もATOを搭載していたため、やがて地下鉄へ乗り入れる車両のなかで、103系だけが手動運転という異質な存在となります。 ■地下鉄側が抱えた“例外” ホームドアの設置後も、103系は車両扉とホームドアの連動に対応できませんでした。 そこで空港線ではホームドアの開口幅を広く取り、手動運転による停止位置の許容範囲を拡大。 103系の列車では、車掌がホームドアを個別に操作しました。 つまり、103系が最新の地下鉄システムへ適応したのではなく、地下鉄側が手動運転、ツーマン乗務、個別のホームドア操作という例外を設け、ATOを持たない103系を受け入れたのです。 こうして103系1500番台は、ATO車に混ざりながら、手動運転のまま地下鉄直通を続けました。 しかし、運転方式の違いは補えても、車両に進行する老朽化までは補い切れませんでした。 <後編>に続きます。 (Mr.DIMER編集長)
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<最新鋭の地下鉄に現れた“旧世代”の新車> ■“型落ち”だった新製車 1983年、筑肥線は姪浜―唐津間の電化と同時に、福岡市地下鉄との相互直通運転を開始しました。 これに合わせて国鉄が投入したのが、103系1500番台です。 当時はすでに201系が登場し、地下鉄直通用の203系も営業運転を始めていた時代。 それでも国鉄は、実績のある103系を新製しました。 筑肥線では高価な省エネルギー車を投入しても、首都圏ほど大きな効果を得にくかったことに加え、当時の国鉄は深刻な財政難にありました。 1500番台は、車体こそ201系に近い新設計とされたものの、走行機器には従来の103系を踏襲。 抵抗制御やコイルばね台車を採用しました。 また、福岡市1000系とは異なり、ATOも搭載されませんでした。 対する福岡市交通局の1000系は、電機子チョッパ制御、空気ばね台車、ATOを備えた最新鋭車。 同じ直通運転のために用意された両者には、登場時から明確な技術格差があったのです。 ■103系だけが“手動運転” 福岡市地下鉄では、筑肥線との直通開始から約10か月後となる1984年1月20日、ATOを使用したワンマン運転が始まりました。 ところがATOを持たない103系は、地下鉄線内でも運転士が手動で操縦。 さらに車掌も乗務するツーマン運転を続けました。 2000年に登場したJR九州303系もATOを搭載していたため、やがて地下鉄へ乗り入れる車両のなかで、103系だけが手動運転という異質な存在となります。 ■地下鉄側が抱えた“例外” ホームドアの設置後も、103系は車両扉とホームドアの連動に対応できませんでした。 そこで空港線ではホームドアの開口幅を広く取り、手動運転による停止位置の許容範囲を拡大。 103系の列車では、車掌がホームドアを個別に操作しました。 つまり、103系が最新の地下鉄システムへ適応したのではなく、地下鉄側が手動運転、ツーマン乗務、個別のホームドア操作という例外を設け、ATOを持たない103系を受け入れたのです。 こうして103系1500番台は、ATO車に混ざりながら、手動運転のまま地下鉄直通を続けました。 しかし、運転方式の違いは補えても、車両に進行する老朽化までは補い切れませんでした。 <後編>に続きます。 (Mr.DIMER編集長)
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【国鉄名車列伝】181系・「こだま形」は山へ挑んだ。国鉄特急黄金時代を駆けた名車
”国鉄特急電車の原点” そう言ってまず名前が挙がるのは、1958(昭和33)年に登場した151系「こだま」でしょう。 ボンネット形の先頭部。クリームに赤帯の国鉄特急色。食堂車、そして一等展望車クロ151形「パーラーカー」。 それまで客車列車が主役だった長距離特急の世界に、「電車特急」という新しい時代を持ち込んだ151系は、まさに国鉄黄金時代の象徴でした。 しかし、その華やかな“こだま形”には弱点がありました。 山です。 東海道本線のような比較的平坦な幹線で高速運転するために生まれた151系を、そのまま上越国境へ持っていくには無理がある。 そこで1962(昭和37)年、上越線特急「とき」用として登場したのが161系でした。 見た目は151系とほぼ同じ。 しかし中身は山岳線区向け。主電動機や歯車比を見直し、低速域での牽引力を高めることで、勾配の続く上越線へ対応しました。 つまり、華やかな東海道の“こだま形”が、雪と山へ挑み始めたのです。 そして1965(昭和40)年。 151系・161系をベースに、より強力なMT54系主電動機を採用した181系が誕生します。従来車も順次181系へ改造・編入され、「こだま形」の一族は181系へと整理されていきました。 主電動機出力は120kW。153系などに使われたMT46系100kWから一段強力になり、勾配線区で求められる性能を手に入れました。 ここから181系は、直流特急形電車の完成形として各地へ活躍の場を広げます。 代表格は、やはり上越線の「とき」。 上野を出て高崎へ。水上から上越国境へ入り、長いトンネルを抜けて雪国・新潟へ。 雪の中を国鉄特急色のボンネット車が駆け抜ける。これはもう、181系を代表する光景でした。さらに信越本線の「あさま」、中央本線の「あずさ」にも進出します。 ここが面白い。 そもそもの祖先である151系は、東京―大阪間を結ぶ東海道のスターでした。 それが181系になると、上越、信越、中央へ。気がつけば山岳線区を走る特急の顔になっていたのです。 特に「あさま」が走る信越本線には、横川―軽井沢間の碓氷峠があります。 最大66.7‰。 通常の鉄道なら「ちょっとした勾配」どころの話ではありません。ここではEF63形電気機関車の力を借りて峠を越える。流麗なボンネットを持つ特急電車が、専用機関車と組んで山を越える。 151系「こだま」時代から考えれば、ずいぶん遠いところまで来たものです。 一方、東海道新幹線が1964年に開業すると、東海道本線で活躍していた一族は山陽方面へ活躍の場を移しました。 「しおじ」など山陽本線の特急でも181系は活躍します。 つまり181系には、東京―大阪を走った「こだま」の時代から、山陽、上越、信越、中央へと転戦した車両がいた。一つの系列の中に、国鉄特急電車の歴史そのものが詰まっているのです。 ただし、国鉄の技術は止まりません。1960年代には交直流特急形481系、そして485系が登場。 直流区間しか走れない181系に対して、交流区間にもそのまま乗り入れられる485系は圧倒的に使い勝手がいい。...
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”国鉄特急電車の原点” そう言ってまず名前が挙がるのは、1958(昭和33)年に登場した151系「こだま」でしょう。 ボンネット形の先頭部。クリームに赤帯の国鉄特急色。食堂車、そして一等展望車クロ151形「パーラーカー」。 それまで客車列車が主役だった長距離特急の世界に、「電車特急」という新しい時代を持ち込んだ151系は、まさに国鉄黄金時代の象徴でした。 しかし、その華やかな“こだま形”には弱点がありました。 山です。 東海道本線のような比較的平坦な幹線で高速運転するために生まれた151系を、そのまま上越国境へ持っていくには無理がある。 そこで1962(昭和37)年、上越線特急「とき」用として登場したのが161系でした。 見た目は151系とほぼ同じ。 しかし中身は山岳線区向け。主電動機や歯車比を見直し、低速域での牽引力を高めることで、勾配の続く上越線へ対応しました。 つまり、華やかな東海道の“こだま形”が、雪と山へ挑み始めたのです。 そして1965(昭和40)年。 151系・161系をベースに、より強力なMT54系主電動機を採用した181系が誕生します。従来車も順次181系へ改造・編入され、「こだま形」の一族は181系へと整理されていきました。 主電動機出力は120kW。153系などに使われたMT46系100kWから一段強力になり、勾配線区で求められる性能を手に入れました。 ここから181系は、直流特急形電車の完成形として各地へ活躍の場を広げます。 代表格は、やはり上越線の「とき」。 上野を出て高崎へ。水上から上越国境へ入り、長いトンネルを抜けて雪国・新潟へ。 雪の中を国鉄特急色のボンネット車が駆け抜ける。これはもう、181系を代表する光景でした。さらに信越本線の「あさま」、中央本線の「あずさ」にも進出します。 ここが面白い。 そもそもの祖先である151系は、東京―大阪間を結ぶ東海道のスターでした。 それが181系になると、上越、信越、中央へ。気がつけば山岳線区を走る特急の顔になっていたのです。 特に「あさま」が走る信越本線には、横川―軽井沢間の碓氷峠があります。 最大66.7‰。 通常の鉄道なら「ちょっとした勾配」どころの話ではありません。ここではEF63形電気機関車の力を借りて峠を越える。流麗なボンネットを持つ特急電車が、専用機関車と組んで山を越える。 151系「こだま」時代から考えれば、ずいぶん遠いところまで来たものです。 一方、東海道新幹線が1964年に開業すると、東海道本線で活躍していた一族は山陽方面へ活躍の場を移しました。 「しおじ」など山陽本線の特急でも181系は活躍します。 つまり181系には、東京―大阪を走った「こだま」の時代から、山陽、上越、信越、中央へと転戦した車両がいた。一つの系列の中に、国鉄特急電車の歴史そのものが詰まっているのです。 ただし、国鉄の技術は止まりません。1960年代には交直流特急形481系、そして485系が登場。 直流区間しか走れない181系に対して、交流区間にもそのまま乗り入れられる485系は圧倒的に使い勝手がいい。...
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2つの"1500番台"引退への足音(103系/415系)
JR九州には現在、国鉄時代に生まれた2つの「1500番台」が残っています。 103系1500番台と、415系1500番台です。 両者の「1500」に直接の関係はありません。 しかし偶然にも、いずれも国鉄末期に登場し、JR九州へ継承され、そして今、相次いで終幕を迎えようとしています。 103系1500番台が製造されたのは1982年。 翌1983年に実施される筑肥線電化と福岡市地下鉄への直通運転に備え、6両編成9本、計54両が新製されました。 「103系」とはいうものの、従来車とは大きく異なる前面形状を持ち、地下鉄直通にも対応。 後年は303系、305系の登場によって地下鉄乗り入れから撤退し、現在は3両編成5本が筑前前原-西唐津間を中心に最後の活躍を続けています。 一方の415系1500番台は1986年に登場。 鋼製車体だった従来の415系から一転、211系に類似したステンレス車体を採用した、いわば415系の最終進化形でした。 九州にも国鉄時代から配置され、鋼製の415系が次々と姿を消していくなか、最後まで生き残ったのが、この1500番台です。 そんな2形式にも、ついに明確な「後継車」が示されました。 103系を置き換えるのは、東京臨海高速鉄道70-000形を改造する「307系」。 2027年春から2両編成5本が筑肥線へ投入され、103系5編成は定期運行を終了します。 そして415系には、JR東日本から譲り受けたE501系を改造した「501系」が登場。 2028年春から下関-小倉間へ投入され、415系を置き換える計画です。 昭和に生まれた2つの「1500番台」を送り出すのは、平成に生まれ、別の土地で一度役目を終えた車両たちです。 103系1500番台は車齢40年を超え、415系1500番台も間もなく40年。 偶然同じ番号を与えられ、国鉄からJR九州へ渡った2つの「1500番台」。 その長い歴史が、わずか1年違いで相次いで閉じられようとしています。 (Mr.DIMER編集長)
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JR九州には現在、国鉄時代に生まれた2つの「1500番台」が残っています。 103系1500番台と、415系1500番台です。 両者の「1500」に直接の関係はありません。 しかし偶然にも、いずれも国鉄末期に登場し、JR九州へ継承され、そして今、相次いで終幕を迎えようとしています。 103系1500番台が製造されたのは1982年。 翌1983年に実施される筑肥線電化と福岡市地下鉄への直通運転に備え、6両編成9本、計54両が新製されました。 「103系」とはいうものの、従来車とは大きく異なる前面形状を持ち、地下鉄直通にも対応。 後年は303系、305系の登場によって地下鉄乗り入れから撤退し、現在は3両編成5本が筑前前原-西唐津間を中心に最後の活躍を続けています。 一方の415系1500番台は1986年に登場。 鋼製車体だった従来の415系から一転、211系に類似したステンレス車体を採用した、いわば415系の最終進化形でした。 九州にも国鉄時代から配置され、鋼製の415系が次々と姿を消していくなか、最後まで生き残ったのが、この1500番台です。 そんな2形式にも、ついに明確な「後継車」が示されました。 103系を置き換えるのは、東京臨海高速鉄道70-000形を改造する「307系」。 2027年春から2両編成5本が筑肥線へ投入され、103系5編成は定期運行を終了します。 そして415系には、JR東日本から譲り受けたE501系を改造した「501系」が登場。 2028年春から下関-小倉間へ投入され、415系を置き換える計画です。 昭和に生まれた2つの「1500番台」を送り出すのは、平成に生まれ、別の土地で一度役目を終えた車両たちです。 103系1500番台は車齢40年を超え、415系1500番台も間もなく40年。 偶然同じ番号を与えられ、国鉄からJR九州へ渡った2つの「1500番台」。 その長い歴史が、わずか1年違いで相次いで閉じられようとしています。 (Mr.DIMER編集長)
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