Mr.DIMER Journal
【JR九州特集・D&S列車編 Vol.7】キハ47形・「かわせみ やませみ」
今回取り上げるのは、キハ47形を改造して誕生した「かわせみ やませみ」。 青い「かわせみ」と、緑の「やませみ」。 JR九州のD&S列車の中でも、2両それぞれに異なる名前と色を与えられた、少し珍しい列車です。 種車はキハ47 8087とキハ47 9051。 キハ47 8087が1号車「かわせみ」、キハ47 9051が2号車「やませみ」となっています。 そもそもキハ47形は、国鉄時代の1977年から製造されたキハ40系の一員。 地方線区向けの一般形気動車として全国各地へ投入された車両で、JR九州にも多数が承継されました。この2両もそんなキハ47形の仲間ですが、2017年、その姿を大きく変えることになります。 JR九州11番目のD&S列車として、2017年3月4日に熊本―人吉間で運転を開始したのが「かわせみ やませみ」でした。 列車名の由来は、球磨川流域に生息する「かわせみ」と「やませみ」。 人々が川や山を越えて移動することが容易ではなかった時代にも、球磨川沿いを自由に飛び回っていたであろう二羽の鳥を列車名に選んだとされています。車体もそのイメージに合わせられました。 1号車「かわせみ」は青。 2号車「やませみ」は緑。 球磨川の水と、人吉球磨を囲む山々を思わせる色分けです。 デザインを担当したのは水戸岡鋭治氏。ただ車体の色を変えただけではありません。車内には人吉球磨産のヒノキや杉、さらに八代産のい草など、熊本の素材がふんだんに使われています。 リクライニングシートだけでなく、窓に向いたカウンター席やテーブル席、ソファー席などを配置。 2号車にはビュッフェも設けられ、球磨焼酎や沿線の商品などを楽しめる空間となりました。つまり、この列車のテーマは単なる「観光列車」ではありません。 列車に乗った瞬間から、人吉球磨を感じてもらうこと。 JR九州自身も「列車の中から人吉球磨を感じていただける旅」をテーマとして掲げています。 ここが「かわせみ やませみ」の大きな特徴でしょう。 そして面白いのは、これだけ大きく姿を変えても、ベースはあくまで国鉄生まれのキハ47形ということ。キハ47 8087と9051はいずれもJR九州で機関換装を受けた車両で、300PS級のコマツ製エンジンを搭載する8000・9000番台です。 外観も車内も完全に観光列車へ変わりましたが、走るための基本構造には、国鉄型気動車の面影がしっかり残っています。個人的には、こういうところがJR九州のD&S列車の面白さだと思っています。 新車を造るだけではなく、既存の車両を徹底的に作り込み、まったく別の価値を与える。キハ40系は全国どこにでもいた、ごく普通の気動車でした。...
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今回取り上げるのは、キハ47形を改造して誕生した「かわせみ やませみ」。 青い「かわせみ」と、緑の「やませみ」。 JR九州のD&S列車の中でも、2両それぞれに異なる名前と色を与えられた、少し珍しい列車です。 種車はキハ47 8087とキハ47 9051。 キハ47 8087が1号車「かわせみ」、キハ47 9051が2号車「やませみ」となっています。 そもそもキハ47形は、国鉄時代の1977年から製造されたキハ40系の一員。 地方線区向けの一般形気動車として全国各地へ投入された車両で、JR九州にも多数が承継されました。この2両もそんなキハ47形の仲間ですが、2017年、その姿を大きく変えることになります。 JR九州11番目のD&S列車として、2017年3月4日に熊本―人吉間で運転を開始したのが「かわせみ やませみ」でした。 列車名の由来は、球磨川流域に生息する「かわせみ」と「やませみ」。 人々が川や山を越えて移動することが容易ではなかった時代にも、球磨川沿いを自由に飛び回っていたであろう二羽の鳥を列車名に選んだとされています。車体もそのイメージに合わせられました。 1号車「かわせみ」は青。 2号車「やませみ」は緑。 球磨川の水と、人吉球磨を囲む山々を思わせる色分けです。 デザインを担当したのは水戸岡鋭治氏。ただ車体の色を変えただけではありません。車内には人吉球磨産のヒノキや杉、さらに八代産のい草など、熊本の素材がふんだんに使われています。 リクライニングシートだけでなく、窓に向いたカウンター席やテーブル席、ソファー席などを配置。 2号車にはビュッフェも設けられ、球磨焼酎や沿線の商品などを楽しめる空間となりました。つまり、この列車のテーマは単なる「観光列車」ではありません。 列車に乗った瞬間から、人吉球磨を感じてもらうこと。 JR九州自身も「列車の中から人吉球磨を感じていただける旅」をテーマとして掲げています。 ここが「かわせみ やませみ」の大きな特徴でしょう。 そして面白いのは、これだけ大きく姿を変えても、ベースはあくまで国鉄生まれのキハ47形ということ。キハ47 8087と9051はいずれもJR九州で機関換装を受けた車両で、300PS級のコマツ製エンジンを搭載する8000・9000番台です。 外観も車内も完全に観光列車へ変わりましたが、走るための基本構造には、国鉄型気動車の面影がしっかり残っています。個人的には、こういうところがJR九州のD&S列車の面白さだと思っています。 新車を造るだけではなく、既存の車両を徹底的に作り込み、まったく別の価値を与える。キハ40系は全国どこにでもいた、ごく普通の気動車でした。...
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【国鉄型魔改造列車特集Vol.9】72系・“中身は昭和、顔は新型”72系が歩んだ異色のシンデレ...
72系というと、どんな姿を思い浮かべるでしょうか。茶色い車体に切妻の前面。吊り掛け駆動の音を響かせながら、首都圏の通勤輸送を支えた、いわゆる「ゲタ電」。 ところが、その72系の中には「これ、本当に72系?」と言いたくなる車両がいました。 話は戦後まで遡ります。 72系の源流は、戦時設計で大量に製造された63系です。20m級4扉の大型車体で、とにかく大量の乗客を運ぶことを優先した電車でした。 戦後も輸送力不足を補うため使われましたが、1951年の桜木町事故をきっかけに安全対策が進められ、63系は改造のうえ72系グループへと整理されていきます。 その後、1952年からはモハ72形・クハ79形の新製車も登場。 そして1956年、72系は大きく姿を変えます。登場したのがモハ72形・クハ79形920番台です。 全金属製の軽量車体となり、従来の72系に見られたシル・ヘッダーもなくなりました。アルミサッシの窓を備えた外観は、それまでの旧形国電とは明らかに雰囲気が違います。1956年度の量産先行車9両に続き、翌年度には68両が製造され、72系の中でもひときわ近代的な一群となりました。 ただし、走行機器は従来の72系。吊り掛け駆動、抵抗制御です。 ここから72系の「見た目と中身が合わない」歴史が始まります。 さらに強烈だったのが1974年から仙石線へ投入されたアコモデーション改良車です。 古い72系の台枠や走行機器を生かしながら、車体を当時の103系に近いものへ更新。モハ72形970番台とクハ79形600番台が誕生しました。 高運転台の前面、ユニットサッシの側窓。車内も当時の新性能電車に近いものへ改められ、仙石線の寒冷地事情に合わせて半自動扉も備えました。 見た目だけなら、もう103系です。ところが床下は72系のまま。 MT40系主電動機による吊り掛け駆動を残していました。つまり「中身は昭和、顔は新型」。 4両編成5本、計20両が仙石線で使用されます。普通なら、この時点でかなりの魔改造です。 ところが72系の物語は、ここでは終わりません。 1985年、仙石線への103系投入で役目を失った970番台・600番台に、今度は川越線電化という新しい仕事が回ってきました。 川越―高麗川間は輸送量の関係から3両編成が必要でした。一方、仙石線を離れた車両は車体更新からまだ10年ほど。車体そのものは十分使える状態です。 ならば、この車体をもう一度使おう。 国鉄らしい判断でした。 そこで国鉄は、今度は足回りまで新性能化します。 103系の予備品や101系の廃車発生品などを活用し、主電動機や台車などを交換。旧性能電車だった72系は、ついに新性能電車へ生まれ変わります。 こうして誕生したのが103系3000番台です。 クモハ102・モハ103・クハ103の3両編成5本、計15両が1985年の川越線電化に合わせて登場しました。 72系なのに103系のような車体だった車両が、ついに本当に103系になったわけです。 しかも同じ1985年、山手線では新型の205系がデビューしています。片や軽量ステンレス車体の新世代通勤電車。その一方で川越線では、1950年代の車両をルーツに持つ72系改造車を103系へ仕立て直して使う。 この対比も、国鉄末期らしいところでしょう。 そして残ったモハ72形970番台5両も、1986年に電装解除されてサハ103形3000番台へ改造。青梅線で使用されたのち、1996年の八高線八王子―高麗川間電化に合わせて川越へ戻り、103系3000番台に組み込まれて4両編成となりました。 JR東日本へ継承後にはAU712形による冷房化も実施され、72系時代から受け継いだ半自動扉も引き続き活用されました。...
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72系というと、どんな姿を思い浮かべるでしょうか。茶色い車体に切妻の前面。吊り掛け駆動の音を響かせながら、首都圏の通勤輸送を支えた、いわゆる「ゲタ電」。 ところが、その72系の中には「これ、本当に72系?」と言いたくなる車両がいました。 話は戦後まで遡ります。 72系の源流は、戦時設計で大量に製造された63系です。20m級4扉の大型車体で、とにかく大量の乗客を運ぶことを優先した電車でした。 戦後も輸送力不足を補うため使われましたが、1951年の桜木町事故をきっかけに安全対策が進められ、63系は改造のうえ72系グループへと整理されていきます。 その後、1952年からはモハ72形・クハ79形の新製車も登場。 そして1956年、72系は大きく姿を変えます。登場したのがモハ72形・クハ79形920番台です。 全金属製の軽量車体となり、従来の72系に見られたシル・ヘッダーもなくなりました。アルミサッシの窓を備えた外観は、それまでの旧形国電とは明らかに雰囲気が違います。1956年度の量産先行車9両に続き、翌年度には68両が製造され、72系の中でもひときわ近代的な一群となりました。 ただし、走行機器は従来の72系。吊り掛け駆動、抵抗制御です。 ここから72系の「見た目と中身が合わない」歴史が始まります。 さらに強烈だったのが1974年から仙石線へ投入されたアコモデーション改良車です。 古い72系の台枠や走行機器を生かしながら、車体を当時の103系に近いものへ更新。モハ72形970番台とクハ79形600番台が誕生しました。 高運転台の前面、ユニットサッシの側窓。車内も当時の新性能電車に近いものへ改められ、仙石線の寒冷地事情に合わせて半自動扉も備えました。 見た目だけなら、もう103系です。ところが床下は72系のまま。 MT40系主電動機による吊り掛け駆動を残していました。つまり「中身は昭和、顔は新型」。 4両編成5本、計20両が仙石線で使用されます。普通なら、この時点でかなりの魔改造です。 ところが72系の物語は、ここでは終わりません。 1985年、仙石線への103系投入で役目を失った970番台・600番台に、今度は川越線電化という新しい仕事が回ってきました。 川越―高麗川間は輸送量の関係から3両編成が必要でした。一方、仙石線を離れた車両は車体更新からまだ10年ほど。車体そのものは十分使える状態です。 ならば、この車体をもう一度使おう。 国鉄らしい判断でした。 そこで国鉄は、今度は足回りまで新性能化します。 103系の予備品や101系の廃車発生品などを活用し、主電動機や台車などを交換。旧性能電車だった72系は、ついに新性能電車へ生まれ変わります。 こうして誕生したのが103系3000番台です。 クモハ102・モハ103・クハ103の3両編成5本、計15両が1985年の川越線電化に合わせて登場しました。 72系なのに103系のような車体だった車両が、ついに本当に103系になったわけです。 しかも同じ1985年、山手線では新型の205系がデビューしています。片や軽量ステンレス車体の新世代通勤電車。その一方で川越線では、1950年代の車両をルーツに持つ72系改造車を103系へ仕立て直して使う。 この対比も、国鉄末期らしいところでしょう。 そして残ったモハ72形970番台5両も、1986年に電装解除されてサハ103形3000番台へ改造。青梅線で使用されたのち、1996年の八高線八王子―高麗川間電化に合わせて川越へ戻り、103系3000番台に組み込まれて4両編成となりました。 JR東日本へ継承後にはAU712形による冷房化も実施され、72系時代から受け継いだ半自動扉も引き続き活用されました。...
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【Insta Thanks 7000 follow】「西鉄7000形・7050形」(Vol.10)
<6000形の"弟分"、7000形> 2000年に登場した西鉄7000形。 老朽化した元特急車1000形の置き換えと、天神大牟田線・甘木線直通ワンマン運転の開始を目的に、6050形をベースとして開発されました。 西鉄では初めて、半導体素子にIGBTを用いたVVVFインバータ制御を採用。 2003年には、扉配置を両開き3扉に変更、大牟田線600形置き換え用に、「7050形」も登場しています。 2025年度からは、老朽化した貝塚線の600形を置き換えるため、7050形全9編成が順次車両再生工事を受けて転属を開始。 2026年2月27日より、貝塚線での営業運転が始まりました。 <車両データ>運用開始:2000年運用終了:運行中製造両数:40両(7000形22両・7050形18両) *************************************************Instagramのフォロワー数が7,900名を超えました。ありがとうございます。今後ともよろしくお願い致します。Mr.DIMER*************************************************
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<6000形の"弟分"、7000形> 2000年に登場した西鉄7000形。 老朽化した元特急車1000形の置き換えと、天神大牟田線・甘木線直通ワンマン運転の開始を目的に、6050形をベースとして開発されました。 西鉄では初めて、半導体素子にIGBTを用いたVVVFインバータ制御を採用。 2003年には、扉配置を両開き3扉に変更、大牟田線600形置き換え用に、「7050形」も登場しています。 2025年度からは、老朽化した貝塚線の600形を置き換えるため、7050形全9編成が順次車両再生工事を受けて転属を開始。 2026年2月27日より、貝塚線での営業運転が始まりました。 <車両データ>運用開始:2000年運用終了:運行中製造両数:40両(7000形22両・7050形18両) *************************************************Instagramのフォロワー数が7,900名を超えました。ありがとうございます。今後ともよろしくお願い致します。Mr.DIMER*************************************************
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【片や引退、片や現役】キハN183系とキハ185系の分かれ道
<同じ日に走り始めた国鉄最後期の特急型気動車、北と南で別れた運命> 1986年11月1日。 国鉄最後の全国ダイヤ改正に合わせ、北海道ではキハ183系500・1500番台、いわゆる「N183系」が営業運転を開始。 そして同じ日、遠く離れた四国でも新型特急形気動車が営業運転を開始しています。 キハ185系です。 同じ国鉄。同じ1986年製。そして、奇しくも営業運転開始日まで同じ。 ところが約40年後、両者の運命には少なからぬ差が生じました。 ※本稿でいうキハ183系は北海道向けの500・1500番台を中心とし、JR九州が後年新製したキハ183系1000番台は除きます。 ■北海道へ渡った「N183系」キハ183系そのものは、1979年に試作車が登場した形式です。 しかし1986年に登場した500・1500番台は、従来車から大幅に設計を変更。 前面は貫通型となり、側面には連続窓風の処理を採用。 機関出力も引き上げられ、短編成化と高速化へ対応するなど、事実上のモデルチェンジ車となりました。 対するキハ185系も、同じく貫通型前面と連続窓風の側面を採用。 外観だけを見ても、同じ時代に生まれた車両であることが感じられます。 しかし、その設計思想には大きな違いがありました。 ■「高性能」の183、「軽量・簡素」の185北海道のキハ183系に求められたのは、広大な北海道を高速で走り抜ける性能と、厳冬期にも耐える耐寒・耐雪性能でした。 一方のキハ185系は、分割民営化後の経営基盤が弱いと予想されたJR四国を見据えて投入された車両。 製造費、燃料費、保守費を抑えることが強く意識されています。 国鉄の特急形気動車として初めて軽量ステンレス車体を採用。 短編成運転を前提として先頭車を主体とした構成とし、普通列車への転用まで考慮して1両2か所の乗降扉を備えました。 豪華さや絶対的な走行性能を追求するというより、「安く造り、安く走らせ、幅広く使える」。 後に訪れる時代を、かなり正確に先取りした車両だったと言えます。 ■そして、40年後。北海道のキハ183系は、長距離・高速運転を繰り返しながら使用されました。 加えて北海道という環境は、車両にとって決して穏やかなものではありません。 JR北海道では183系の老朽化に伴い、腐食や機器類の劣化が問題となり、後継となるキハ261系などへの置き換えを進めました。 1986年に登場したN183系も、2023年3月に定期運用を終了。 同年4月10日のラストランをもって、北海道での運行を終えています。 営業開始から約36年5か月でした。 ところが―― 同じ1986年11月1日に走り始めたキハ185系はというと、...
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<同じ日に走り始めた国鉄最後期の特急型気動車、北と南で別れた運命> 1986年11月1日。 国鉄最後の全国ダイヤ改正に合わせ、北海道ではキハ183系500・1500番台、いわゆる「N183系」が営業運転を開始。 そして同じ日、遠く離れた四国でも新型特急形気動車が営業運転を開始しています。 キハ185系です。 同じ国鉄。同じ1986年製。そして、奇しくも営業運転開始日まで同じ。 ところが約40年後、両者の運命には少なからぬ差が生じました。 ※本稿でいうキハ183系は北海道向けの500・1500番台を中心とし、JR九州が後年新製したキハ183系1000番台は除きます。 ■北海道へ渡った「N183系」キハ183系そのものは、1979年に試作車が登場した形式です。 しかし1986年に登場した500・1500番台は、従来車から大幅に設計を変更。 前面は貫通型となり、側面には連続窓風の処理を採用。 機関出力も引き上げられ、短編成化と高速化へ対応するなど、事実上のモデルチェンジ車となりました。 対するキハ185系も、同じく貫通型前面と連続窓風の側面を採用。 外観だけを見ても、同じ時代に生まれた車両であることが感じられます。 しかし、その設計思想には大きな違いがありました。 ■「高性能」の183、「軽量・簡素」の185北海道のキハ183系に求められたのは、広大な北海道を高速で走り抜ける性能と、厳冬期にも耐える耐寒・耐雪性能でした。 一方のキハ185系は、分割民営化後の経営基盤が弱いと予想されたJR四国を見据えて投入された車両。 製造費、燃料費、保守費を抑えることが強く意識されています。 国鉄の特急形気動車として初めて軽量ステンレス車体を採用。 短編成運転を前提として先頭車を主体とした構成とし、普通列車への転用まで考慮して1両2か所の乗降扉を備えました。 豪華さや絶対的な走行性能を追求するというより、「安く造り、安く走らせ、幅広く使える」。 後に訪れる時代を、かなり正確に先取りした車両だったと言えます。 ■そして、40年後。北海道のキハ183系は、長距離・高速運転を繰り返しながら使用されました。 加えて北海道という環境は、車両にとって決して穏やかなものではありません。 JR北海道では183系の老朽化に伴い、腐食や機器類の劣化が問題となり、後継となるキハ261系などへの置き換えを進めました。 1986年に登場したN183系も、2023年3月に定期運用を終了。 同年4月10日のラストランをもって、北海道での運行を終えています。 営業開始から約36年5か月でした。 ところが―― 同じ1986年11月1日に走り始めたキハ185系はというと、...
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【逝っとけダイヤ】京急、ダイヤが乱れてからが本番です。信号テコと爆速増結の裏側
「え?この電車、行先変わった?」 ダイヤが大きく乱れた京急。途中駅で折り返す。行先が変わる。運転区間まで変わる。 そして、動かせる区間はできるだけ動かす。そんな独特の運転整理を、鉄道ファンはいつしか 「逝っとけダイヤ」と呼ぶようになりました。 もちろん、これは京急の正式名称ではありません。ただ、この言葉だけを見ると、 「京急って豪快だなぁ」で終わってしまう。 でも、その裏側を追っていくと見えてくるのは、むしろ逆。京急は昔から、 「どうすれば安全を確保しながら、列車を止めずに済むのか」を徹底的に考えてきた会社なのです。 時は1966年。京急は浦賀駅に、日本初となるプログラム式列車運行制御装置「PTC」を導入。 1968年には運転司令所を設置し、ATSの使用も始めました。 つまり京急は、「機械より人」だけを貫いてきた会社ではありません。 むしろ早い時期から、運行管理や保安装置の機械化を進めていました。それでも一部の重要拠点では、人間による信号扱いを長く残した。 その象徴が、金沢文庫です。車庫を併設し、列車の入出庫、増結、解結が頻繁に行われる京急屈指の運転拠点。 2016年の取材では、金沢文庫での信号テコ操作は1日約7000回と紹介されました。 では、なぜそこまで人の手を残したのか。京急側が説明した理由は明快です。 事故や輸送障害が発生した場合、「人間の柔軟な対応の方が、早期に正常運行へ戻せる」という考え方でした。 さらに、異常時だけ突然手動に戻してもダメ。日常から扱っていなければ、いざという時に十分な対応はできない。 つまり、普段の仕事そのものが、異常時にも使える技能を維持する場になっていたわけです。 そして金沢文庫には、もうひとつ京急らしい光景があります。 「増結・解結」です。 8両編成がホームに入る。そこへ4両編成が近づく。 連結。 確認。 そして12両になった列車は、何事もなかったように再び走り出す。 これが、とにかく速い。 現在の平日ダイヤでも、金沢文庫で4両を増結する列車が設定されており、列車によっては到着から発車まで2〜3分程度。 初めて見ると、「いや、もう行くんかい!」となります。 でも、もちろん勢いでやっているわけではありません。増結・解結を担う「運転主任」は、長期間運転士を経験した高い技能を持つ社員。 京急自身も、増結・解結、入換、信号扱いなどを担う存在として紹介しています。 さらに車両には電気連結器など、短時間で連結作業を行うための設備もある。人が速い。車両も応える。駅設備も、その運転を前提に整えられている。...
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「え?この電車、行先変わった?」 ダイヤが大きく乱れた京急。途中駅で折り返す。行先が変わる。運転区間まで変わる。 そして、動かせる区間はできるだけ動かす。そんな独特の運転整理を、鉄道ファンはいつしか 「逝っとけダイヤ」と呼ぶようになりました。 もちろん、これは京急の正式名称ではありません。ただ、この言葉だけを見ると、 「京急って豪快だなぁ」で終わってしまう。 でも、その裏側を追っていくと見えてくるのは、むしろ逆。京急は昔から、 「どうすれば安全を確保しながら、列車を止めずに済むのか」を徹底的に考えてきた会社なのです。 時は1966年。京急は浦賀駅に、日本初となるプログラム式列車運行制御装置「PTC」を導入。 1968年には運転司令所を設置し、ATSの使用も始めました。 つまり京急は、「機械より人」だけを貫いてきた会社ではありません。 むしろ早い時期から、運行管理や保安装置の機械化を進めていました。それでも一部の重要拠点では、人間による信号扱いを長く残した。 その象徴が、金沢文庫です。車庫を併設し、列車の入出庫、増結、解結が頻繁に行われる京急屈指の運転拠点。 2016年の取材では、金沢文庫での信号テコ操作は1日約7000回と紹介されました。 では、なぜそこまで人の手を残したのか。京急側が説明した理由は明快です。 事故や輸送障害が発生した場合、「人間の柔軟な対応の方が、早期に正常運行へ戻せる」という考え方でした。 さらに、異常時だけ突然手動に戻してもダメ。日常から扱っていなければ、いざという時に十分な対応はできない。 つまり、普段の仕事そのものが、異常時にも使える技能を維持する場になっていたわけです。 そして金沢文庫には、もうひとつ京急らしい光景があります。 「増結・解結」です。 8両編成がホームに入る。そこへ4両編成が近づく。 連結。 確認。 そして12両になった列車は、何事もなかったように再び走り出す。 これが、とにかく速い。 現在の平日ダイヤでも、金沢文庫で4両を増結する列車が設定されており、列車によっては到着から発車まで2〜3分程度。 初めて見ると、「いや、もう行くんかい!」となります。 でも、もちろん勢いでやっているわけではありません。増結・解結を担う「運転主任」は、長期間運転士を経験した高い技能を持つ社員。 京急自身も、増結・解結、入換、信号扱いなどを担う存在として紹介しています。 さらに車両には電気連結器など、短時間で連結作業を行うための設備もある。人が速い。車両も応える。駅設備も、その運転を前提に整えられている。...
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【経営上の重荷?】3島会社に“プレゼント”された国鉄最後の新車
<新車を貰ったのに、減価償却費で苦しんだ――は本当か> 国鉄分割民営化を目前に控えた1986~1987年。 北海道・四国・九州には、新形式車両が相次いで投入されました。 北海道・四国向けのキハ54形。九州向けのキハ31形。四国向けの121系、キハ32形。 そして、四国には特急形のキハ185系も登場しています。 キハ185系に至っては、JR四国発足のわずか5か月ほど前となる1986年11月に営業運転を開始した車両でした。 なぜ国鉄は、民営化直前になってこれほど新車を投入したのでしょうか。 背景にあったのが、分割民営化後の「三島会社」経営問題です。 北海道・四国・九州は、本州3社に比べて輸送密度の低い路線を多く抱え、発足当初から厳しい経営が予想されていました。 ただでさえ苦しい会社へ、老朽車ばかりを渡せば、JR発足後すぐに多額の車両更新費が必要となります。 ならば国鉄のうちに新車を造り、少しでも良好な状態で新会社へ引き渡しておこう――。 いわば、三島会社への“置き土産”でした。 ところが、この新車群を導入することについて、 「新車を大量に渡されたことで、三島会社は高額な固定資産を抱え、かえって減価償却費に苦しむことになった」 という言説があります。 確かに、理屈だけを考えれば成立します。 例えば製造されたばかりのキハ185系なら、未償却の資産価額は当然大きい。 それをJR四国が引き継げば、以後長期間にわたって減価償却費が計上されます。 プレゼントのつもりが、実は会計上の“重荷”だった――。 なんとも皮肉な話に見えてしまう。 しかし、国鉄改革ではそこまで単純な処理は行われていませんでした。 三島会社には、「収益調整価格」と呼ばれた特殊な資産評価が用いられていたのです。 国土交通省が後年、国鉄改革時の資産評価について確認した記録があります。 そこでは、 三島会社は収益力が低く、国鉄時代の簿価のまま資産を引き継いだのでは、減価償却費すら賄えない状況だった。 そこで、実際に必要となる管理費や将来の更新費などを勘案し、それに見合うよう資産価額を逆算した―― と説明されています。 つまり三島会社は、国鉄から渡された車両や施設を、単純に従来の帳簿価額そのままで背負ったわけではありません。 会社の収益力を考慮したうえで、減価償却負担まで含めて資産価額が調整されていたのです。 さらに三島会社には、国鉄の長期債務を原則として承継させず、経営安定基金も設定されました。...
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<新車を貰ったのに、減価償却費で苦しんだ――は本当か> 国鉄分割民営化を目前に控えた1986~1987年。 北海道・四国・九州には、新形式車両が相次いで投入されました。 北海道・四国向けのキハ54形。九州向けのキハ31形。四国向けの121系、キハ32形。 そして、四国には特急形のキハ185系も登場しています。 キハ185系に至っては、JR四国発足のわずか5か月ほど前となる1986年11月に営業運転を開始した車両でした。 なぜ国鉄は、民営化直前になってこれほど新車を投入したのでしょうか。 背景にあったのが、分割民営化後の「三島会社」経営問題です。 北海道・四国・九州は、本州3社に比べて輸送密度の低い路線を多く抱え、発足当初から厳しい経営が予想されていました。 ただでさえ苦しい会社へ、老朽車ばかりを渡せば、JR発足後すぐに多額の車両更新費が必要となります。 ならば国鉄のうちに新車を造り、少しでも良好な状態で新会社へ引き渡しておこう――。 いわば、三島会社への“置き土産”でした。 ところが、この新車群を導入することについて、 「新車を大量に渡されたことで、三島会社は高額な固定資産を抱え、かえって減価償却費に苦しむことになった」 という言説があります。 確かに、理屈だけを考えれば成立します。 例えば製造されたばかりのキハ185系なら、未償却の資産価額は当然大きい。 それをJR四国が引き継げば、以後長期間にわたって減価償却費が計上されます。 プレゼントのつもりが、実は会計上の“重荷”だった――。 なんとも皮肉な話に見えてしまう。 しかし、国鉄改革ではそこまで単純な処理は行われていませんでした。 三島会社には、「収益調整価格」と呼ばれた特殊な資産評価が用いられていたのです。 国土交通省が後年、国鉄改革時の資産評価について確認した記録があります。 そこでは、 三島会社は収益力が低く、国鉄時代の簿価のまま資産を引き継いだのでは、減価償却費すら賄えない状況だった。 そこで、実際に必要となる管理費や将来の更新費などを勘案し、それに見合うよう資産価額を逆算した―― と説明されています。 つまり三島会社は、国鉄から渡された車両や施設を、単純に従来の帳簿価額そのままで背負ったわけではありません。 会社の収益力を考慮したうえで、減価償却負担まで含めて資産価額が調整されていたのです。 さらに三島会社には、国鉄の長期債務を原則として承継させず、経営安定基金も設定されました。...
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