Mr.DIMER Journal
【憧れのブルトレ Vol.9・最終回】「カシオペア」、寝台客車の到達点(1999年)
<夢空間から10年。平成の「走るホテル」が辿り着いた答え> "憧れのブルトレ"に、果たしてカシオペアを仲間入りさせるべきか、悩みました。 ブルトレとは、20系に始まる14系、24系の系譜上にある、青い寝台客車。なんとなく、そう認識していたためです。 しかし改めて振り返ると、形式や車体色こそ異なれど、カシオペアは機関車が牽く寝台客車として、20系以来の"走るホテル"思想を受け継いでいます。 北斗星、そして夢空間の延長線上に誕生した、客車寝台特急の一つの到達点。 全9回にわたってお届けした【憧れのブルトレ】シリーズ。 本連載の最終回を飾るにふさわしい列車であると考えました。 ■北斗星の、その先へ1999年7月16日。上野~札幌間に、寝台特急「カシオペア」が登場しました。 JR東日本が掲げたのは、「新しい夜行列車の旅の提案」。 北斗星を越えるサービスを目指し、カシオペア専用のE26系客車を新造。12両一編成のみの、特別な列車でした。 銀色のステンレス車体に、黄・橙・赤・紫・青の帯。従来のブルートレインとは明らかに異なる姿です。 最大の特徴は、日本初の"オールA個室寝台"。 客室は88室、定員176名。すべてが2人用個室で、各室にトイレと洗面台を設置しました。 7室の「カシオペアスイート」をはじめ、「カシオペアデラックス」「カシオペアツイン」「カシオペアコンパート」。 3号車にはダイニングカー、12号車にはラウンジカーを連結。 20系が「走るホテル」なら、カシオペアはホテルそのものを線路の上に載せたような列車だったと申せましょう。 ■一編成しかない、という贅沢運行開始当初は、上野発、札幌発とも週3回を基本として運転。 毎日走るわけではなく、乗りたい時に必ず乗れる列車でもない。展望室タイプのスイートは、一列車に僅か1室です。 かつてのブルートレインが、帰省や仕事を支える交通手段であったのに対し、カシオペアは、"乗ること"そのものが旅の目的となりました。 寝台列車が移動手段から"体験"へ変わったことを、最も明確に示した列車ではないでしょうか。 ■機関車が替わる、客車列車の旅上野~青森間はEF81形、後にEF510形。青森~函館間はED79形。函館~札幌間はDD51形の重連。 行程に合わせて機関車を交換し、北を目指しました。 機関車が連結される音。発車時、後方へ一両ずつ伝わる衝動。客車の軽快なジョイント音。 最新鋭でありながら、客車列車の旅情を最後まで残したこと。そこにも、カシオペアの特別さがありました。 ■二度迎えた終幕2016年3月。北海道新幹線開業に伴い、上野~札幌間の寝台特急としての運行を終了。 同年6月からは「カシオペアクルーズ」「カシオペア紀行」として復活し、東日本各地を走り続けます。 そして2025年6月30日。E26系は営業運転を終了しました。 1号車スロネフE26形は、大宮駅西口の「(仮称)桜木PPJ」へ移設、展示される予定です。 ■憧れの、その先へ青い客車ではない。14系でも、24系でもない。 それでも、この連載で辿ってきたのは、単なる"青い客車の歴史"ではありません。...
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<夢空間から10年。平成の「走るホテル」が辿り着いた答え> "憧れのブルトレ"に、果たしてカシオペアを仲間入りさせるべきか、悩みました。 ブルトレとは、20系に始まる14系、24系の系譜上にある、青い寝台客車。なんとなく、そう認識していたためです。 しかし改めて振り返ると、形式や車体色こそ異なれど、カシオペアは機関車が牽く寝台客車として、20系以来の"走るホテル"思想を受け継いでいます。 北斗星、そして夢空間の延長線上に誕生した、客車寝台特急の一つの到達点。 全9回にわたってお届けした【憧れのブルトレ】シリーズ。 本連載の最終回を飾るにふさわしい列車であると考えました。 ■北斗星の、その先へ1999年7月16日。上野~札幌間に、寝台特急「カシオペア」が登場しました。 JR東日本が掲げたのは、「新しい夜行列車の旅の提案」。 北斗星を越えるサービスを目指し、カシオペア専用のE26系客車を新造。12両一編成のみの、特別な列車でした。 銀色のステンレス車体に、黄・橙・赤・紫・青の帯。従来のブルートレインとは明らかに異なる姿です。 最大の特徴は、日本初の"オールA個室寝台"。 客室は88室、定員176名。すべてが2人用個室で、各室にトイレと洗面台を設置しました。 7室の「カシオペアスイート」をはじめ、「カシオペアデラックス」「カシオペアツイン」「カシオペアコンパート」。 3号車にはダイニングカー、12号車にはラウンジカーを連結。 20系が「走るホテル」なら、カシオペアはホテルそのものを線路の上に載せたような列車だったと申せましょう。 ■一編成しかない、という贅沢運行開始当初は、上野発、札幌発とも週3回を基本として運転。 毎日走るわけではなく、乗りたい時に必ず乗れる列車でもない。展望室タイプのスイートは、一列車に僅か1室です。 かつてのブルートレインが、帰省や仕事を支える交通手段であったのに対し、カシオペアは、"乗ること"そのものが旅の目的となりました。 寝台列車が移動手段から"体験"へ変わったことを、最も明確に示した列車ではないでしょうか。 ■機関車が替わる、客車列車の旅上野~青森間はEF81形、後にEF510形。青森~函館間はED79形。函館~札幌間はDD51形の重連。 行程に合わせて機関車を交換し、北を目指しました。 機関車が連結される音。発車時、後方へ一両ずつ伝わる衝動。客車の軽快なジョイント音。 最新鋭でありながら、客車列車の旅情を最後まで残したこと。そこにも、カシオペアの特別さがありました。 ■二度迎えた終幕2016年3月。北海道新幹線開業に伴い、上野~札幌間の寝台特急としての運行を終了。 同年6月からは「カシオペアクルーズ」「カシオペア紀行」として復活し、東日本各地を走り続けます。 そして2025年6月30日。E26系は営業運転を終了しました。 1号車スロネフE26形は、大宮駅西口の「(仮称)桜木PPJ」へ移設、展示される予定です。 ■憧れの、その先へ青い客車ではない。14系でも、24系でもない。 それでも、この連載で辿ってきたのは、単なる"青い客車の歴史"ではありません。...
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【特集・お召列車Vol.7】賢所乗御車・「神を乗せるために造られた、番号なき皇室用客車」
大正4年、1915年。鉄道院大井工場で、一両の特別な客車が誕生しました。 ”形式も、記号も、番号もない”「1号御料車」「2号御料車」のような番号すら付与されない。その名は、「賢所乗御車(かしこどころじょうぎょしゃ)」 天皇陛下がお乗りになるための御料車ではありません。この車両が運ぶものは、宮中三殿のひとつ「賢所」に奉安される、八咫鏡の形代である御神鏡でした。 いわば、「神を乗せるための客車」。 日本の鉄道史を見渡しても、これほど特殊な使命を与えられた一両は、ほかにほとんど例を見ません。 「大正天皇の御大礼のために」 賢所乗御車が造られた目的は、大正天皇の即位に伴う御大礼でした。即位礼は京都で執り行われます。そのため、天皇陛下の御移動だけでなく、宮中に奉安されている御神鏡も東京から京都へ移御する必要がありました。 そこで鉄道院が用意したのが、御神鏡だけを奉安して輸送する専用車「賢所乗御車」だったのです。 宮内庁には現在も、大正大礼に際して作成された「賢所乗御車」の図面類が史料として残されています。 「天皇の御料車とも違う一両」 ここが、この車両最大の特徴です。 皇室用客車でありながら・・・ ”「御料車」ではありません。” 形式、記号、番号はいずれも持たず、「賢所乗御車」という名称そのものによって存在していました。 車体は当時の鉄道院らしい木造車体。全長は約20m。三軸ボギー台車を履き、中央には御神鏡を奉安するための”奉安室”が設けられていました。 人を快適に運ぶことが第一ではない。豪華な展望を楽しむためでもない。 ただひとつ、”御神鏡を、最大限の敬意をもってお運びする。”その使命のためだけに設計された鉄道車両でした。 「昭和の御大礼でも再び走る」 賢所乗御車の使命は、大正の御大礼だけでは終わりません。昭和3年、1928年。昭和天皇の御大礼に際しても再び使用され、御神鏡の移御という大役を担ったとされています。 蒸気機関車に牽かれた列車の中に、番号さえ持たない一両が静かに連結されている。その車内に奉安されているものを考えれば、当時その列車を扱った鉄道員たちが背負った緊張感は、通常のお召列車とはまた違ったものだったことでしょう。 「番号すら必要としなかった車両」 鉄道車両とは本来、形式と番号によって管理されるものです。「C57 1」「EF58 61」「DD51 842」「1号御料車」「2号御料車」お召列車の歴史を彩った名機や御料車にも、必ずその名を示す番号があります。 しかし、賢所乗御車には、それがありませんでした。 天皇陛下をお乗せする御料車でもない。一般の旅客を運ぶ客車でもない。御神鏡を奉安し、ただその御移動のためだけに線路を走った一両。 形式なし。番号なし。そして用途は、ただひとつ。 日本の鉄道史にはかつて「神をお乗せするため」に造られた、あまりにも特別な客車が存在していたのです。 (マイミー)...
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大正4年、1915年。鉄道院大井工場で、一両の特別な客車が誕生しました。 ”形式も、記号も、番号もない”「1号御料車」「2号御料車」のような番号すら付与されない。その名は、「賢所乗御車(かしこどころじょうぎょしゃ)」 天皇陛下がお乗りになるための御料車ではありません。この車両が運ぶものは、宮中三殿のひとつ「賢所」に奉安される、八咫鏡の形代である御神鏡でした。 いわば、「神を乗せるための客車」。 日本の鉄道史を見渡しても、これほど特殊な使命を与えられた一両は、ほかにほとんど例を見ません。 「大正天皇の御大礼のために」 賢所乗御車が造られた目的は、大正天皇の即位に伴う御大礼でした。即位礼は京都で執り行われます。そのため、天皇陛下の御移動だけでなく、宮中に奉安されている御神鏡も東京から京都へ移御する必要がありました。 そこで鉄道院が用意したのが、御神鏡だけを奉安して輸送する専用車「賢所乗御車」だったのです。 宮内庁には現在も、大正大礼に際して作成された「賢所乗御車」の図面類が史料として残されています。 「天皇の御料車とも違う一両」 ここが、この車両最大の特徴です。 皇室用客車でありながら・・・ ”「御料車」ではありません。” 形式、記号、番号はいずれも持たず、「賢所乗御車」という名称そのものによって存在していました。 車体は当時の鉄道院らしい木造車体。全長は約20m。三軸ボギー台車を履き、中央には御神鏡を奉安するための”奉安室”が設けられていました。 人を快適に運ぶことが第一ではない。豪華な展望を楽しむためでもない。 ただひとつ、”御神鏡を、最大限の敬意をもってお運びする。”その使命のためだけに設計された鉄道車両でした。 「昭和の御大礼でも再び走る」 賢所乗御車の使命は、大正の御大礼だけでは終わりません。昭和3年、1928年。昭和天皇の御大礼に際しても再び使用され、御神鏡の移御という大役を担ったとされています。 蒸気機関車に牽かれた列車の中に、番号さえ持たない一両が静かに連結されている。その車内に奉安されているものを考えれば、当時その列車を扱った鉄道員たちが背負った緊張感は、通常のお召列車とはまた違ったものだったことでしょう。 「番号すら必要としなかった車両」 鉄道車両とは本来、形式と番号によって管理されるものです。「C57 1」「EF58 61」「DD51 842」「1号御料車」「2号御料車」お召列車の歴史を彩った名機や御料車にも、必ずその名を示す番号があります。 しかし、賢所乗御車には、それがありませんでした。 天皇陛下をお乗せする御料車でもない。一般の旅客を運ぶ客車でもない。御神鏡を奉安し、ただその御移動のためだけに線路を走った一両。 形式なし。番号なし。そして用途は、ただひとつ。 日本の鉄道史にはかつて「神をお乗せするため」に造られた、あまりにも特別な客車が存在していたのです。 (マイミー)...
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【さようなら】卵型電車
<67年間、京阪の「顔」、「たまごのような」丸い電車が消えた> 京阪電車から、ひとつの伝統的なスタイルが姿を消しました。 「卵型電車」です。 2026年8月21日、2200系・2400系・2600系の3系列が一挙に営業運転を終了。 これにより、長年にわたり京阪線を走り続けてきた「卵型車体」の電車は、その歴史に幕を下ろしたことになります。 ■「卵型電車」とは その始まりは、1959年に登場、高い加減速性能と回生ブレーキを備え、「スーパーカー」の愛称で知られた2000系に遡ります。 その特徴のひとつが、側面から車体裾にかけて丸みを持たせた、独特の車体断面でした。 直線的な箱形ではなく、車体下部が膨らんだ曲面を描くその姿から、後年「卵型車体」と呼ばれるようになります。 この造形は一代限りとはならず、京阪通勤車の標準的なスタイルとして受け継がれていくこととなります。 ■改良を重ね、京阪の主力へ1964年には、2000系の車体デザインを踏襲した急行用の2200系が登場。 さらに1969年には、2200系を発展させた2400系が登場します。 同系は戦後の関西では初となる通勤用冷房車でもあり、卵形車体は外観のみならず、当時の京阪における新世代通勤車の象徴ともいえる存在になりました。 そして1978年には2600系が登場。 そのうち0番台は、老朽化した2000系の車体などを活用しながら昇圧・冷房化に対応した系列で、1980~81年には完全新造となる30番台も加わります。 つまり2000系から2600系まで、世代や機器を変えながらも、同じ基本造形が20年以上にわたり新製・継承され続けたことになります。 ■67年間続いた「京阪の顔」転機となったのは1983年。 1500Vへの昇圧とともに登場した6000系では、車体設計が一新され、京阪通勤車は角張った新しいスタイルへと移行します。 それでも卵形電車は消えませんでした。 更新工事を受けながら、急行、準急、普通など京阪線のあらゆる輸送を支え続け、平成を越え、令和まで生き残ることとなります。 しかし13000系の増備に伴い、その数は次第に減少。 そして2026年8月21日。 最後まで残った2200系、2400系、2600系が揃って引退しました。 1959年の2000系登場から、実に67年。 ひとつの形式が消えたのではない… 京阪電車において半世紀以上にわたり受け継がれてきた、ひとつの「車体様式」が消えた瞬間です。 (Mr.DIMER編集長)
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<67年間、京阪の「顔」、「たまごのような」丸い電車が消えた> 京阪電車から、ひとつの伝統的なスタイルが姿を消しました。 「卵型電車」です。 2026年8月21日、2200系・2400系・2600系の3系列が一挙に営業運転を終了。 これにより、長年にわたり京阪線を走り続けてきた「卵型車体」の電車は、その歴史に幕を下ろしたことになります。 ■「卵型電車」とは その始まりは、1959年に登場、高い加減速性能と回生ブレーキを備え、「スーパーカー」の愛称で知られた2000系に遡ります。 その特徴のひとつが、側面から車体裾にかけて丸みを持たせた、独特の車体断面でした。 直線的な箱形ではなく、車体下部が膨らんだ曲面を描くその姿から、後年「卵型車体」と呼ばれるようになります。 この造形は一代限りとはならず、京阪通勤車の標準的なスタイルとして受け継がれていくこととなります。 ■改良を重ね、京阪の主力へ1964年には、2000系の車体デザインを踏襲した急行用の2200系が登場。 さらに1969年には、2200系を発展させた2400系が登場します。 同系は戦後の関西では初となる通勤用冷房車でもあり、卵形車体は外観のみならず、当時の京阪における新世代通勤車の象徴ともいえる存在になりました。 そして1978年には2600系が登場。 そのうち0番台は、老朽化した2000系の車体などを活用しながら昇圧・冷房化に対応した系列で、1980~81年には完全新造となる30番台も加わります。 つまり2000系から2600系まで、世代や機器を変えながらも、同じ基本造形が20年以上にわたり新製・継承され続けたことになります。 ■67年間続いた「京阪の顔」転機となったのは1983年。 1500Vへの昇圧とともに登場した6000系では、車体設計が一新され、京阪通勤車は角張った新しいスタイルへと移行します。 それでも卵形電車は消えませんでした。 更新工事を受けながら、急行、準急、普通など京阪線のあらゆる輸送を支え続け、平成を越え、令和まで生き残ることとなります。 しかし13000系の増備に伴い、その数は次第に減少。 そして2026年8月21日。 最後まで残った2200系、2400系、2600系が揃って引退しました。 1959年の2000系登場から、実に67年。 ひとつの形式が消えたのではない… 京阪電車において半世紀以上にわたり受け継がれてきた、ひとつの「車体様式」が消えた瞬間です。 (Mr.DIMER編集長)
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【国鉄型魔改造列車特集Vol.4】14系・スーパーエクスプレスレインボー
国鉄最後の春に生まれた、真紅の欧風客車今回取り上げるのは、国鉄分割民営化直前の1987年3月に登場した、14系700番台「スーパーエクスプレスレインボー」です。 当時の国鉄では、余剰となった12系・14系客車などを改造し、団体旅行向けのジョイフルトレインを各地で誕生させていました。東京北鉄道管理局でも、従来のお座敷列車とは異なる若者層を意識した欧風客車を企画。そこで種車に選ばれたのが14系座席客車でした。 改造は大宮工場と東急車輛で行われ、営業運転開始は1987年3月20日。 国鉄が消滅する、わずか11日前のことでした。 編成は7両。スロフ14 705オロ14 714オロ14 713オロ12 715オロ14 712オロ14 711スロフ14 706ここで面白いのが4号車です。 イベントカーのオロ12 715だけは14系ではなく、12系のオハ12 371から改造されました。 つまりレインボーは、14系6両の中央に12系1両を組み込んだ混成編成だったのです。しかも改造後の形式を見ると、すべて「ロ」。普通車だったオハ14・オハ12・スハフ14から改造されながら、完成後は7両すべてがグリーン車扱いという、かなり贅沢な編成になりました。 両端のスロフ14 705・706は、スハフ14 55・56が種車。車端部を大幅に作り替え、大型の曲面ガラスを備えた展望室を設置した「パノラマグリーンカー」とされました。中間のオロ14 711・714はグリーンカー。 オロ14 712・713には6人用コンパートメントを設け、グループ客が個室感覚で利用できる構造としました。そして中央のオロ12 715はイベントカー。 ステージなどを備え、移動中の車内そのものを団体旅行の宴会や催しの会場として使えるようにしていました。展望席、一般座席、個室、イベントスペース。 単に14系の内装を豪華にしたのではなく、7両それぞれに異なる役割を持たせたことこそ、レインボーの改造の面白さです。 外観も原形の14系から大きく変化。パールグレーとチェリーレッドを基調とし、中央のイベントカーには、 「SUPER EXPRESS RAINBOW」 の巨大なレタリングが描かれました。さらに国鉄は客車だけでは終わりません。...
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国鉄最後の春に生まれた、真紅の欧風客車今回取り上げるのは、国鉄分割民営化直前の1987年3月に登場した、14系700番台「スーパーエクスプレスレインボー」です。 当時の国鉄では、余剰となった12系・14系客車などを改造し、団体旅行向けのジョイフルトレインを各地で誕生させていました。東京北鉄道管理局でも、従来のお座敷列車とは異なる若者層を意識した欧風客車を企画。そこで種車に選ばれたのが14系座席客車でした。 改造は大宮工場と東急車輛で行われ、営業運転開始は1987年3月20日。 国鉄が消滅する、わずか11日前のことでした。 編成は7両。スロフ14 705オロ14 714オロ14 713オロ12 715オロ14 712オロ14 711スロフ14 706ここで面白いのが4号車です。 イベントカーのオロ12 715だけは14系ではなく、12系のオハ12 371から改造されました。 つまりレインボーは、14系6両の中央に12系1両を組み込んだ混成編成だったのです。しかも改造後の形式を見ると、すべて「ロ」。普通車だったオハ14・オハ12・スハフ14から改造されながら、完成後は7両すべてがグリーン車扱いという、かなり贅沢な編成になりました。 両端のスロフ14 705・706は、スハフ14 55・56が種車。車端部を大幅に作り替え、大型の曲面ガラスを備えた展望室を設置した「パノラマグリーンカー」とされました。中間のオロ14 711・714はグリーンカー。 オロ14 712・713には6人用コンパートメントを設け、グループ客が個室感覚で利用できる構造としました。そして中央のオロ12 715はイベントカー。 ステージなどを備え、移動中の車内そのものを団体旅行の宴会や催しの会場として使えるようにしていました。展望席、一般座席、個室、イベントスペース。 単に14系の内装を豪華にしたのではなく、7両それぞれに異なる役割を持たせたことこそ、レインボーの改造の面白さです。 外観も原形の14系から大きく変化。パールグレーとチェリーレッドを基調とし、中央のイベントカーには、 「SUPER EXPRESS RAINBOW」 の巨大なレタリングが描かれました。さらに国鉄は客車だけでは終わりません。...
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【今日は何の日】羽田空港と鉄道の関係(東京国際空港開港記念日)
<鉄道が空港より29年も先、やがて拡張する空港を追い続けた> 日本最大級の航空拠点、東京国際空港――羽田空港。 現在では京急空港線と東京モノレールが乗り入れ、都心と空港を結ぶ大動脈となっています。 きょうは、"東京国際空港開港記念日"。それでは、羽田と鉄道の歴史を遡って見てみましょう。 ■鉄道が、29年先んじて開通京急空港線の前身、京浜電気鉄道の「穴守線」が開業したのは、1902年。最も、当時の羽田に空港はありません。この鉄道が運んでいたのは、穴守稲荷神社への参詣客や、海水浴客でした。 現在の羽田空港につながる「東京飛行場」の開港は、1931年。 ・穴守線開業 1902年・東京飛行場開港 1931年 その差は29年。 「空港ができたから鉄道が延びた」のではなく、羽田では、鉄道の沿線に、後から空港が生まれた、と言うことができます。 ■戦後、立場は逆転するところが戦後、両者の関係は逆転します。 1945年、東京飛行場は連合国軍に接収。飛行場の拡張に伴い、穴守線は稲荷橋以東が営業休止となりました。 空港より先に存在していた鉄道が、今度は空港拡張によって、後退を余儀なくされます。 1956年には(初代)羽田空港駅が開業しますが、これは空港と海老取川を挟んだ対岸。ターミナルへは連絡バスを介する形で、空港へのアクセス性は、ほとんど機能していませんでした。 そして1964年、東京モノレールが登場します。浜松町―羽田間を結び、空港ターミナルへ直接乗り入れる、本格的な空港鉄道の誕生です。 以後しばらくは、モノレールが空港へ直接、京急は空港の手前まで。そんな時代が続きます。 ■空港を、追いかけて羽田空港は、航空需要の増大とともに、沖合へと拡張を続けます。1993年、旅客ターミナルが沖合へ移転。東京モノレールも新ターミナルへ線路を延ばし、京急も同年、現在の天空橋まで延伸しました。 そして1998年11月18日。京急は、現在の羽田空港第1・第2ターミナル駅まで到達します。 1902年の穴守線開業から数えれば、実に96年。 最も早く羽田へ進出していた鉄道が、約1世紀を経て、ようやく空港ターミナルへ直結したことになります。 さらに2010年、国際線ターミナルの開業に合わせ、京急・東京モノレール双方に新駅が設けられました。 ■そして今、JRが羽田を目指す現在、今度はJR東日本が「羽田空港アクセス線」の建設を進めています。 東京―羽田空港を約18分で結ぶ計画で、2031年度の開業が予定されています。 振り返ると、最初は、鉄道の沿線に、空港ができた。ところが戦後は、拡張を続ける空港を、鉄道が追いかける側となった。 穴守線が後退し、モノレールが乗り入れ、空港が沖合へ移れば再び線路を延ばし、京急も約1世紀をかけてターミナルへ到達。そして次は、JRが羽田を目指す。 航空機の大型化、旅客数の増加、そして国際化。 羽田空港が姿を変えるたび、その傍らでは鉄道もまた、100年以上にわたって、形を変え続けてきたのです。 (Mr.DIMER編集長)
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<鉄道が空港より29年も先、やがて拡張する空港を追い続けた> 日本最大級の航空拠点、東京国際空港――羽田空港。 現在では京急空港線と東京モノレールが乗り入れ、都心と空港を結ぶ大動脈となっています。 きょうは、"東京国際空港開港記念日"。それでは、羽田と鉄道の歴史を遡って見てみましょう。 ■鉄道が、29年先んじて開通京急空港線の前身、京浜電気鉄道の「穴守線」が開業したのは、1902年。最も、当時の羽田に空港はありません。この鉄道が運んでいたのは、穴守稲荷神社への参詣客や、海水浴客でした。 現在の羽田空港につながる「東京飛行場」の開港は、1931年。 ・穴守線開業 1902年・東京飛行場開港 1931年 その差は29年。 「空港ができたから鉄道が延びた」のではなく、羽田では、鉄道の沿線に、後から空港が生まれた、と言うことができます。 ■戦後、立場は逆転するところが戦後、両者の関係は逆転します。 1945年、東京飛行場は連合国軍に接収。飛行場の拡張に伴い、穴守線は稲荷橋以東が営業休止となりました。 空港より先に存在していた鉄道が、今度は空港拡張によって、後退を余儀なくされます。 1956年には(初代)羽田空港駅が開業しますが、これは空港と海老取川を挟んだ対岸。ターミナルへは連絡バスを介する形で、空港へのアクセス性は、ほとんど機能していませんでした。 そして1964年、東京モノレールが登場します。浜松町―羽田間を結び、空港ターミナルへ直接乗り入れる、本格的な空港鉄道の誕生です。 以後しばらくは、モノレールが空港へ直接、京急は空港の手前まで。そんな時代が続きます。 ■空港を、追いかけて羽田空港は、航空需要の増大とともに、沖合へと拡張を続けます。1993年、旅客ターミナルが沖合へ移転。東京モノレールも新ターミナルへ線路を延ばし、京急も同年、現在の天空橋まで延伸しました。 そして1998年11月18日。京急は、現在の羽田空港第1・第2ターミナル駅まで到達します。 1902年の穴守線開業から数えれば、実に96年。 最も早く羽田へ進出していた鉄道が、約1世紀を経て、ようやく空港ターミナルへ直結したことになります。 さらに2010年、国際線ターミナルの開業に合わせ、京急・東京モノレール双方に新駅が設けられました。 ■そして今、JRが羽田を目指す現在、今度はJR東日本が「羽田空港アクセス線」の建設を進めています。 東京―羽田空港を約18分で結ぶ計画で、2031年度の開業が予定されています。 振り返ると、最初は、鉄道の沿線に、空港ができた。ところが戦後は、拡張を続ける空港を、鉄道が追いかける側となった。 穴守線が後退し、モノレールが乗り入れ、空港が沖合へ移れば再び線路を延ばし、京急も約1世紀をかけてターミナルへ到達。そして次は、JRが羽田を目指す。 航空機の大型化、旅客数の増加、そして国際化。 羽田空港が姿を変えるたび、その傍らでは鉄道もまた、100年以上にわたって、形を変え続けてきたのです。 (Mr.DIMER編集長)
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【なぜ?】485系のボンネット車は国鉄末期に勝田へ集まったのか
<全国から古参車をかき集め、常磐線に現れた「ボンネット王国」> 国鉄を代表する特急型電車、485系。本回は、国鉄末期のある"配置転換"の話。 1982年の東北新幹線開業以降、東北地区では在来線特急が大幅に削減され、485系に大量の余剰が発生。 九州地区には1960年代に製造された481系をはじめ、経年の進んだ車両が多数残存していたことから国鉄は、東北地区で余剰となった比較的新しい485系を九州へ転属させ、古参車を置き換えて行くこととなります。 ここまでは、極めて合理的な話。 ところが、その中で少し奇妙な動きを見せた車両がいました。クハ481形、ボンネット車。 九州から追い出された初期形のクハ481は、そのまま廃車になるのではなく、遠く離れた勝田電車区へ転属。 1985年3月のダイヤ改正。 急行「ときわ」の特急格上げなどにより、常磐線特急「ひたち」を大幅に増発、 勝田には全国各地から485系が集められ、11両編成15本、計165両という一大ファミリーが誕生します。 そして、それら編成の先頭に立つクハ481形30両は、そのすべてが"ボンネット車"でした。 無論、これにも合理的な説明はできます。 九州では「有明」などで短編成・高頻度運転が進み、今後も485系を長く使う必要がありました。 ならば経年の浅い車両を九州へ残し、古参車を他地区へ転出させるのは自然の事。 一方の「ひたち」は11両編成。先頭車の定員が多少少なくても、編成全体への影響は小さい。 増発に必要な大量の車両を確保するため、古参車を勝田へ集約する。 そこまでは分かります。 ただ。ひとつ引っかかるのは。 古い車を集めることと、先頭車30両をすべてボンネット車で揃えることは、同じ話なのか。という事。 200番台、300番台のクハ481が混ざっていても、運用上は成立したはずでは… それでも国鉄は、全15編成の両端をボンネット車体制で構築します。 まるで鉄道模型で、「好きな485系だけを集めた車両基地」を作るかのように。 ここから先は、編集長の独断と偏見につき、ご了承下さい。 国鉄ほどの巨大組織ですから、車両配置は当然、輸送量、検査周期、車齢、需給など様々な条件から決められたはずです。 しかし、その条件を満たす選択肢が複数あったとしたら。 「勝田には古い485系を集める。」 そこまでは経営上の判断。 その上で、「どうせなら、ボンネットで揃えてしまおう。」 そんな""を持った鉄道マンが、一人くらいいても不思議ではない…? いえね。どうしても想像してしまうんですよ。関東国鉄に485系ボンネット車が大好きな人がいたのではないか、と。...
続きを読む【なぜ?】485系のボンネット車は国鉄末期に勝田へ集まったのか
<全国から古参車をかき集め、常磐線に現れた「ボンネット王国」> 国鉄を代表する特急型電車、485系。本回は、国鉄末期のある"配置転換"の話。 1982年の東北新幹線開業以降、東北地区では在来線特急が大幅に削減され、485系に大量の余剰が発生。 九州地区には1960年代に製造された481系をはじめ、経年の進んだ車両が多数残存していたことから国鉄は、東北地区で余剰となった比較的新しい485系を九州へ転属させ、古参車を置き換えて行くこととなります。 ここまでは、極めて合理的な話。 ところが、その中で少し奇妙な動きを見せた車両がいました。クハ481形、ボンネット車。 九州から追い出された初期形のクハ481は、そのまま廃車になるのではなく、遠く離れた勝田電車区へ転属。 1985年3月のダイヤ改正。 急行「ときわ」の特急格上げなどにより、常磐線特急「ひたち」を大幅に増発、 勝田には全国各地から485系が集められ、11両編成15本、計165両という一大ファミリーが誕生します。 そして、それら編成の先頭に立つクハ481形30両は、そのすべてが"ボンネット車"でした。 無論、これにも合理的な説明はできます。 九州では「有明」などで短編成・高頻度運転が進み、今後も485系を長く使う必要がありました。 ならば経年の浅い車両を九州へ残し、古参車を他地区へ転出させるのは自然の事。 一方の「ひたち」は11両編成。先頭車の定員が多少少なくても、編成全体への影響は小さい。 増発に必要な大量の車両を確保するため、古参車を勝田へ集約する。 そこまでは分かります。 ただ。ひとつ引っかかるのは。 古い車を集めることと、先頭車30両をすべてボンネット車で揃えることは、同じ話なのか。という事。 200番台、300番台のクハ481が混ざっていても、運用上は成立したはずでは… それでも国鉄は、全15編成の両端をボンネット車体制で構築します。 まるで鉄道模型で、「好きな485系だけを集めた車両基地」を作るかのように。 ここから先は、編集長の独断と偏見につき、ご了承下さい。 国鉄ほどの巨大組織ですから、車両配置は当然、輸送量、検査周期、車齢、需給など様々な条件から決められたはずです。 しかし、その条件を満たす選択肢が複数あったとしたら。 「勝田には古い485系を集める。」 そこまでは経営上の判断。 その上で、「どうせなら、ボンネットで揃えてしまおう。」 そんな""を持った鉄道マンが、一人くらいいても不思議ではない…? いえね。どうしても想像してしまうんですよ。関東国鉄に485系ボンネット車が大好きな人がいたのではないか、と。...
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